軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百九十二話 百の雑賀

戦いの余韻がまだ野に漂っていた。

焦げた火薬の匂いと、踏み荒らされた草の香りが入り混じる。

勝利の報告を受け、兵たちのざわめきが遠くで揺れていた。

そんな中、朧が秀政へ歩み寄る。

声色には安堵が混ざっている。

だが表情はいつも通り薄い。

「殿、勝ちましたね」

秀政は戦場を見渡しながら答える。

「あぁ、敵は既に離散し始めている。

何にせよ、林という男はそれなりに威力はあるな。

馬鹿だが」

朧はこくりと頷く。

「はい、馬鹿ですが使える男のようです。

砦攻めはどうなさいますか?」

秀政は少し肩を回し、疲れをほぐすように息を吐いた。

「三介様に任せる。

もうどうでもよい。逃げた敗残兵を合わせても五百程度だろうよ。

林と堺鉄砲衆に任せれば勝利するだろう。

お前達、白鬼は温存だ。

一人も死なせる気はない。傷すら負わせたくもない」

「はい、承知しました」

朧はすぐに動けるよう、視線を周囲へ巡らせる。

秀政は次の懸念を口にした。

「それよりも波田須衆だ。

夜襲にまんまと嵌められそうで怖い。

誰とは言わぬが」

朧もわずかに眉を寄せる。

「確かに……」

その時、草を踏む軽い音が近づき、

伊賀忍びが膝をついた。

「殿、ただいま戻りました。

一つ、お伝えせねばならぬことが」

秀政は表情を引き締める。

「申せ」

「は!

どうやら雑賀が動きました」

秀政の目が細くなる。

「何だと?」

忍びは息を整え、続けた。

「兵が出たわけではありませぬ。

雑賀は紀北衆を助ける気はなさそうです」

「ん?何が狙いだ?」

「おそらく織田に対する警告かと。

動いたのは雑賀鉄砲衆が百です」

秀政は思わず息を呑んだ。

「百もだと?」

(雑賀の百は、狙撃手の殺し屋百人に該当する。

本気も本気じゃないか!)

忍びはさらに続ける。

「率いるは鈴木孫市」

秀政は眉をひそめた。

「孫市?……どの孫市だ?

棟梁は皆、孫市を名乗るそうだぞ」

忍びは深く頭を下げた。

「申し訳ありませぬ。

率いるは佐太夫重意」

秀政は短く息を吐いた。

「佐太夫か……。

老練な殺し屋衆だな。

現時点での雑賀の完成形ともいえる。

狙うは三介様か」

「おそらく。

あるいは殿かもしれません」

秀政はしばし沈黙し、空を見上げた。

雲が流れ、風が冷たく頬を撫でる。

「いつかはぶつかるとは思っていたが……

あわよくば、ぶつからずに済めば良いとも思っていた。

なかなかうまくいかぬな。

今更遠征を止められぬ」

秀政は決意を固め、声を低くした。

「今より伊賀忍びは警戒任務にあたれ。

諜報は雑賀を追うのみで良い。

三介様、俺、白鬼。

これらは最優先で防備せよ。

他はこの際、諦める」

忍びたちは一斉に姿勢を正す。

秀政はさらに続けた。

「それと狙撃戦になるやもしれん。

新宮に伝えて黒鬼を連れてまいれ」

「は!」

忍びは風のように去っていった。

秀政はその背を見送りながら、

胸の奥に重いものが沈むのを感じていた。

(……雑賀が動いたか。

ここからが本番だな。

信雄の戦はこのまま続ける。

紀伊で一定の地を獲らねば、

この遠征を終えられないからな。

雑賀とは戦ではない。

狙撃戦だ)

木本衆を破った余熱がまだ残る中、秀政はすぐに軍議を開いた。

戦場の空気は落ち着きつつあったが、

周囲の林や土手にはすでに伊賀忍びが潜み、

鉄砲の射程に入る場所はすべて監視下に置かれている。

(これなら雑賀も潜めまい。

恐いのは戦の最中や、林や森の傍を行軍する時だ)

秀政が思案していると、信雄が上機嫌に声をかけてきた。

「秀政殿、さぁ、早く砦を落とそうぞ」

秀政は手を上げて制した。

「その前に、皆々に伝えねばならんことがある」

信雄は怪訝そうに眉を寄せる。

「何だ?」

秀政は静かに告げた。

「遂に雑賀が動いた。

紀北衆と絡む気はなさそうだが、

裏で我らを狙っている」

その瞬間、柴垣の顔から血の気が引いた。

林は気づかず腕を組んでいるが、

柴垣だけは事態の重さを理解していた。

信雄は軽く笑い飛ばす。

「敵兵はどれほどだ?」

「百ほどと聞いております。

ですが、鈴木佐太夫重意が率いる精鋭の狙撃手です」

信雄は豪快に笑った。

「あーはっは。たかが百か!」

林も調子に乗る。

「なに、百程度なら儂が一日で串刺しにしてやらん!」

(……どうやらこの状況を正しく理解したのは、柴垣殿だけか)

秀政は淡々と続けた。

「ついては、三介様の影武者を親衛隊よりご用意いただきたい。

三介様の甲冑はその者に着せて、三介様はもっと質素な甲冑にお着替え願いたい」

信雄は不満げに顔をしかめる。

「いやじゃ。

なぜ俺が影武者を用意せねばならぬ。

俺は総大将だ。

でんと後方に立って軍を鼓舞せねばならん!」

その瞬間、柴垣が弾かれたように叫んだ。

「なりませぬ!影武者を用意します!」

信雄が驚いて目を丸くするほどの剣幕だった。

柴垣は震える指で周囲の雑木林や土手を次々に指さす。

「あれにも!あれにも!あれにも!

あの全てに雑賀が潜んでおるやもしれませぬ!」

そして、眉間を指で叩きながら叫ぶ。

「そしてっ!あの位置であれば雑賀の佐太夫であれば……

こーこーにっ!当ててきまする!

瞬きしたら次の瞬間は極楽ですぞ!

よろしいのか!」

あまりの迫力に、信雄は思わず後ずさった。

(ほほぉ。

普段は諦めの境地に居るが、真に主君に危機あらば、

こうやって忠言できる……柴垣はやはり忠臣だな)

信雄は観念したように肩を落とす。

「わ、分かった……与一郎がそこまで言うなら影武者を用意しよう」

柴垣は勢いそのままに続ける。

「三人ほど作りましょうぞ!

殿は足軽の装束でも着てくだされ!」

信雄は顔をしかめた。

「いや、さすがに俺が足軽の服を着るのは嫌じゃ……」

「着てくだされ!」

林が慌てて口を挟む。

「まぁまぁ……与一郎様、殿も嫌がっておいで……」

「林は黙っておれ!」

「はっ!」

信雄は涙目になりながら訴える。

「よ、与一郎。

怖い顔をするな。分かったからの。

だが……臭いのは嫌なのだ……」

(柴垣は良いな。

こやつも信雄が没落したら拾ってやるか……)

秀政は助け舟を出す。

「三介様。では髪を下ろして白狩衣を着ますか?

白鬼に混ざれば守りやすくなります」

(我儘なんて言っておらずに、女装が嫌なら足軽になれ)

だが信雄はほっとした表情を見せた。

「まだそっちのが良いわ。

女人に化けるなど、そうそう出来ることでもないしな。

……いや、面白いかもしれぬ」

柴垣は困った顔で秀政を見る。

秀政も口を開けて呆れた顔をしかけたが、すぐに真顔に切り替える。

そして静かに告げた。

「柴垣殿、白鬼が必ずや三介様をお守りいたすので、

柴垣殿は早々に城を落としてくだされ」

(こんな茶番に付き合っているよりは、

早く戦を終わらせる方がよい。

柴垣たちの後顧の憂いを断ってやるか。

俺の周りには伊賀忍びに張らせている。

女装はともかく……、

おそらくここが一番安全だ)

柴垣は深く頷いた。

「はっ!

ですが儂はこの身を盾にしても三助様をお守りいたします。

林、お前が行ってまいれ!」

「は!」

柴垣は鬼の形相で信雄へ向き直り、真剣な眼差しで言った。

「殿、決して油断なさいませぬように」

信雄は気圧されながらも頷いた。

「わかったわかった!」