軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百八十七話 新宮海戦

新宮湾。

灰色の冬空の下、

九鬼水軍の大船団が湾口へ横一列に並んでいた。

数多の櫂が海を掻き、

波が船腹へぶつかるたび、

巨大な安宅船が低く唸る。

幾重にも連なる関船。

その隙間を縫うように走る小早。

湾そのものを塞ぐような威容だった。

その後方、

九鬼から借り受けた大将船の上では、

白い狩衣の白鬼隊に囲まれながら、

信雄が身を乗り出して海を見下ろしていた。

「おぉぉ!

九鬼殿、見事な船団じゃ!

もっとやれ!

やれ、大砲だ。

やれ、鉄砲だ。

もっと沈めよ!」

完全に祭り見物である。

秀政はその背後で、

静かに海戦を見つめていた。

(……九鬼殿め。

完全に憂さ晴らしする気でおるな。

堀内も哀れよ)

二月初頭から半月。

信雄の相手を最前線で務めたのは、

間違いなく九鬼嘉隆だった。

水軍の話を聞きたい。

船を見たい。

海戦を教えよ。

安宅船へ乗せろ。

あれを撃て。

これを動かせ。

朝から晩まで延々と続いたのである。

その結果――

九鬼嘉隆は、今や獲物を見つけた飢えた鮫のようだった。

血に猛り、もう止まらぬ。

「安宅船、前へ押し出せ!

関船は左右へ展開!

小早は逃げる舟を狩れぇぇ!!」

九鬼の怒号が海へ響き渡る。

各船の船頭が次々とそれを復唱するように叫び、

指示を全体に伝えていく。

安宅船が海を割るように前進した。

巨大だった。

まるで海上を進む城である。

甲板には鉄砲隊が整然と並び、

火縄の煙が白く立ち上る。

「放てぇぇぇぇッ!!」

ズドドドドドドドンッ!!

轟音。

一斉射撃。

堀内方の小舟が、

木片のように吹き飛んだ。

火矢を放つ間もなく、

船腹に穴が空く。

水が一気に流れ込み、

兵ごと海へ沈んでいく。

「ぎゃあああっ!!」

「ひ、ひぃぃっ!!」

「逃げろ!

逃げ――」

さらに左右から関船が迫る。

重武装の大型関船が、

逃げる小舟を挟み込む。

横付け。

鉄砲。

矢。

石礫。

狭い海上に容赦なく叩き込まれた。

そこへ小早が海面を滑るように突っ込む。

逃げる舟を追い回し、

横腹へ体当たりし、

転覆させ、

海へ叩き落としていく。

溺れる兵に槍を突き立てる。

挙句の果てに放たれる大筒。

大きな水柱を上げて、

その波によって堀内の小早がひっくり返る。

完全な蹂躙だった。

「ば、化け物か……!」

「九鬼だ!

九鬼水軍だぞぉぉ!!」

堀内方は、もはや船団の形すら保てない。

九鬼嘉隆は歯を剥き出しにして吠えた。

「半月……!

半月もあの坊っちゃんの相手をしたんだ……!

今日くらい暴れさせてもらうぞォォォ!!」

怒りが乗っていた。

安宅船の舳先が、

小舟を真正面から押し潰す。

関船が遠方から堀内の火矢舟を撃ち抜く。

小早が逃げる舟へ追いつき、

鉤縄を投げ、

引き寄せ、

叩き沈める。

九鬼水軍は、もはや海賊ではなかった。

海の王者そのものだった。

信雄は大将船の上で飛び跳ねている。

「すごい!

すごいぞ、九鬼殿!

圧倒的じゃ!

備前殿!

我が軍は最強よな!」

秀政は静かに頷いた。

「……はぁ。

左様にございますな」

(これが九鬼殿の本気か。

堀内よ。

運が悪かったな。

少々虫の居所が悪かったようだぞ)

白鬼隊は、そんな信雄の周囲を静かに固めていた。

霞は無表情のまま海を見つめ、

凛は槍を肩へ担ぎ、

朧は柔らかく微笑み、

雫は無邪気に信雄と騒いでいる。

そして四人とも、

絶妙な位置取りで信雄を囲っていた。

前へ出させないための、

白い檻だった。

だが信雄本人は気づいていない。

「おぉぉ!

あの船も沈んだぞ!」

上機嫌で叫び続けている。

九鬼の指揮は止まらない。

「関船、押し込めぇぇ!」

「小早、右から回れ!」

「逃がすな!

一艘残らず沈めろ!!」

その怒号のたびに、

堀内方の海上封鎖は音を立てて崩壊していった。

やがて――

新宮湾の入口は、

完全に九鬼水軍によって制圧された。

堀内氏典は、

陸へ逃げ込むしかなくなる。

秀政はその様子を見届け、

静かに息を吐いた。

(……九鬼殿の憂さ晴らしは終わったか。

さて、次は陸戦だな)

秀政は冷たい海風を肺へ吸い込み、

ゆっくりと吐き出した。

新宮湾には、

まだ火薬の臭いが漂っている。

波間には沈みかけた小舟。

海へ投げ出された兵。

焼けた木片。

九鬼水軍は、見事すぎる勝利を収めた。

だが――

これで終わらない。

(俺も少しは憂さ晴らししたかったな。

いや……ここは我慢だ。

まだ戦は続く。

無駄に熱くなるな。

温存だ)

秀政は静かに気持ちを切り替える。

「小早を寄せよ」

命を受けた白鬼隊が合図を送ると、

一艘の小早が素早く横付けされた。

秀政は伝令へ短く命じる。

「柴垣殿へ伝えよ。

逃げる堀内を追い立てろ。

奴らは既に心が折れておる。

包囲した後、開城勧告の使者を送れとな。

それで終いだ」

「は!」

伝令はすぐに船を漕ぎ進めていく。

(これで良い。

無駄な血は流させん)

信雄を大名にするためには、新宮は絶対に欲しい。

だが、紀伊南東を支配するために必要なのは、

死体の山ではなく港と服従だった。

その頃――

新宮湊では、押送船が次々と接岸していた。

跳ね橋が下ろされる。

信雄親衛隊。

堺鉄砲。

彼らが一斉に上陸し、

槍や鉄砲を立てながら城下へ突き進んでいく。

その先頭、林孫太夫長三が、

興奮したように吠えていた。

「俺は内々に殿の命を受けておる!

よう聞けぇ!!

殿の仰せだぁぁ!!

初戦は派手にやれ!!」

槍を振り上げる。

「犠牲は厭わぬ!

力攻めで新宮城を落とし、

三介様の恐ろしさを紀伊に刻み込めぇぇ!!」

鬨の声が上がる。

秀政の伝令は――

まだ届いていなかった。

柴垣与一郎は、

その様子を苦々しく見つめる。

「……林。敵は弱っておる。

まず開城勧告を――」

「弱腰は不要!」

林が怒鳴る。

「ここで甘さを見せれば紀州侍どもは我らを舐めてかかる!

初戦こそ力よ!!殿のために、かかれぇ!!」

柴垣は目を閉じた。

そして短く号令する。

「……進め」

もはや諦めていた。

一方。

新宮城内。

堀内勢は既に半ば戦意を失っていた。

海では九鬼水軍に蹂躙された。

海上封鎖は崩壊、逃げ道も断たれた。

堀内新次郎氏典は、

顔色を失ったまま城下を見下ろしている。

元々そこまで好戦的ではない。

「……終わったか」

だが、押し寄せる織田軍の先頭を見て、

最後の望みを抱いた。

「ま、まだ間に合う!

白旗を上げよ!

織田に従うは是非もなし」

「はっ!」

白旗が掲げられる。

そして降伏使者が、

城門から恐る恐る歩み出た。

「我らは降る!

これよりは織田様を主と定め、

常に付き従おう。

これ以上の戦は――」

だが、大声がその言葉を遮った。

「ならぬ!!」

林の絶叫だ。

「ここは戦の華を咲かせる場よ!!

力攻めじゃぁぁ!!」

林自らが弓を引き絞る。

そして――

ヒュンッ!!

矢が降伏使者の胸を貫いた。

「がっ……!」

使者はその場へ崩れ落ちる。

新宮城内が凍りついた。

堀内氏典の顔から血の気が消える。

「なっ……」

そして絶叫した。

「奴らは聞く耳も持たぬ蛮族だ!!

抗戦しろぉぉ!!」

城門が閉じられる。

弓隊が並ぶ。

礫や油が運び込まれる。

その頃、秀政の伝令がようやく上陸していた。

「柴垣殿へ!

備前様より――」

だが、織田軍本隊の姿はもう見えない。

既に全軍が城へ向かって突撃していた。

「なっ……!」

伝令は顔色を変える。

そして慌てて新宮城へ駆け出した。

だが――

遅かった。

戦端は既に開かれていた。

新宮城、門前、

そこはもはや地獄になっていた。

丸太が落ちる。

石が降る。

矢が飛ぶ。

油で火達磨になる。

狭い坂道で信雄親衛隊が次々と倒れていく。

「ぐあああっ!!」

「槍だ!!

槍を押し返せぇ!!」

堺傭兵ですら、いくらか討たれていた。

火縄が湿り、鉄砲の回転も悪い。

さらに城兵は、

降伏使者を射殺された怒りで完全に覚悟を決めていた。

ようやく訪れた秀政の命に従い、

柴垣によって今度は織田から、

降伏勧告の使者が立った。

「降伏を許す。ただちに――」

だが。

ヒュンッ!!

その喉へ矢が突き刺さる。

「ぁ……!」

門前へ崩れ落ちた。

林は血走った目で叫ぶ。

「この分からずやの蛮族どもめ!!

使者を殺すとは血迷ったか!

力攻めじゃ!!

行けぇぇぇ!!」

もはや意地だった。

秀政の伝令は顔面蒼白のまま引き返す。

そして大将船へ戻り、震える声で報告した。

「び、備前様……!」

報告を聞いた秀政の眉間に深い皺が刻まれる。

「……三介様。

これは……」

だが信雄は胸を張って笑っていた。

「初戦は派手に力攻めじゃ!

なぁに、心配はいらぬ!」

自信満々に言い放つ。

「我が兵を信じろ!

虎は兎を狩るにも全力を尽くすというぞ!」

秀政は深く頭を下げた。

「……御意」

だが内心では毒づいていた。

(馬鹿だろ、こいつ。

これを例えるなら、

“窮鼠猫を噛む”の方だ)

結果――

新宮城は落ちた。

だが、代償は重かった。

親衛隊二百余。

堺傭兵百五十余。

思った以上の討死者。

さらに負傷者多数。

秀政はその報告を聞いた瞬間、

胃を押さえてその場へうずくまった。

(……初戦でこれか。

紀伊攻め、先が思いやられる……)