作品タイトル不明
第百八十三話 強制出陣
再び信雄と秀政は、鈴鹿館の上段の間へ戻った。
冬の光が障子越しに差し込み、白い光が畳に落ちている。
信雄はその光の中で、まるで戦勝した武将のように胸を張っていた。
「いやぁ、驚いた。
さすが秀政殿だ」
信雄は満面の笑みで言う。
その声音には、子供のような純粋さと、
織田家の嫡流としての自信が混ざっていた。
「俺は父上を尊敬しておる。
そして父上以外で尊敬に値するは――
秀政殿、貴公だけよ。
今日、あの女人隊を見て確信した!」
秀政は丁寧に頭を下げた。
「はぁ。左様でございますか。
それは光栄の至り」
信雄は勢いそのままに続ける。
「あの白鬼女人隊はまさに傑作よ。
美しい上に、戦場の華となる。
そして何より強い。
戦における芸術品と言えよう。
これは秀政殿にしか思いつかぬ。
貴公はまさに部隊編成の天賦の才を持っておる!
何より……」
信雄はそこからしばらく白鬼を絶賛する。
秀政がこだわりを込めた箇所がことごとく信雄に認められる。
「ははは……」
秀政は笑いながらも、内心では複雑な感情が渦巻いていた。
(ん……信雄は悪い奴ではないのだ……
少々迷惑なだけで。
それに、ここまで諸手で白鬼を褒められるのは悪い気がしない。
この芋粥家には、俺の趣味について来れる者が少ないからな。
おそらく信雄も中二病を拗らせたに違いない。
もしや気が合うかもしれぬ。
嫌いにはなれぬが……
いや、むしろ好きかもしれん。
だが……遠くで見ていたい類の男だ)
信雄は勢いよく身を乗り出した。
「で、秀政殿。いつ出陣なさる?
三日後か?五日後か?」
秀政は一瞬、言葉を失った。
(前言撤回!
馬鹿かっ!
まずはどこを攻めるか?
どうしたら雑賀・根来と極力戦わずに済むか?
じっくりと考える必要があるだろうが!)
秀政は表情を崩さず、静かに言った。
「三介様、少々お急ぎすぎです」
「そうか?
紀伊を手に入れるなら早い方が良いではないか!」
(おい!)
秀政は深く息を吸い、諭すように言った。
「いえ、敵を知らねばなりませぬ。
戦の定石です」
「ん?そうなのか?」
秀政は一歩前に出て、ゆっくりと語った。
「彼を知り、己を知れば百戦して殆うからず――
と」
信雄の顔がぱっと明るくなる。
「おぉう!孫子の兵法であるな?
俺は諳んじられるほど読み込んだぞ!」
(いや……学問とは身に着けて活かすためのものだ。
暗記することは手段であって目的ではない……)
秀政は微笑みを保ったまま、結論を述べた。
「はい。孫子の言うように、敵を知るため、
出陣は二ヶ月後と致しましょう」
「ん?そういうものなのか?」
(いや、だから!
わざわざ孫子の兵法を例に出したのだ。
少しは察しろ!)
秀政は丁寧に頭を下げた。
「はい。とにかく、安全に確実に勝利する方法を、
責任もって調べまする。
お任せください。
三介様はその間に、傭兵雇用や、
米確保などの軍備をお願いいたします」
信雄は満足げに頷いた。
「おう、分かった!
秀政殿には大いに期待しておる。
ならば軍備のために今日は失礼するぞ!」
「はっ!」
信雄は上機嫌のまま、軽い足取りで鈴鹿館を後にした。
その背中が見えなくなると、秀政はそっと胃を押さえた。
(……はぁ。
紀伊攻め、前途多難だな)
こうして信雄は、自領の郡山城へ戻っていった。
*
その十日後。
鈴鹿館の執務間で、秀政は地図を広げながら静かに思索を巡らせていた。
冬の冷気が障子越しに入り、墨の香りが淡く漂う。
秀政は筆を置き、深く息を吐いた。
(ふむ……やはり紀伊攻めでは雑賀・根来とは戦わぬ。
逃げに逃げまくる他ない。
紀伊北西は雑賀・根来の圏内だ。
逆に南東は山だらけの国人圏。
狙うは南東。
その辺りのいくつかの地域を切り取るだけでも
五から十万石程度はいくだろう。
さらに南東には旨味のある港も多い。
それらを取るだけで、
信長様はご満足下さるに違いない)
そして候補となりそうな拠点に墨で丸を振っていく。
(あとは二ヶ月弱かけて、標的を探る。
また雑賀・根来が警戒して動き出したところで、
それを避ける手段も考えねばならぬ)
秀政が茶をすすり、一息ついたその時――
門衛が渋い顔で駆け込んできた。
「と、殿……
三介様がお見えです。
上段の間にお通ししました」
「は!?
……いや、分かった。今から向かう」
秀政は湯呑を置き、重い足取りで上段の間へ向かった。
襖を開けると、すでに信雄が上座にどっかりと座り、
満面の笑みで待ち構えていた。
「おぅ、秀政殿。
急な来訪、失礼したな」
(失礼と分かっているなら来るな!)
秀政は表情を崩さず、丁寧に頭を下げた。
「いえいえ、どうなさいましたか?」
信雄は胸を張り、誇らしげに言った。
「いや、実は既に軍備が整った。
米も武具も鉄砲・弾薬も揃えた。
そして堺から鉄砲傭兵を雇い入れたぞ」
不快な顔になるのを懸命に抑える。
眉間に青筋が立っているのが自分でも分かった。
(は?待て待て!
出陣は二ヶ月後と言ったよな!
俺、確かに言ったよなぁ。
何度でも言うぞ。
俺は確実に“出陣は二ヶ月後”と言った!)
秀政は努めて冷静に返す。
「もう雇われたのですか?
出陣直前でもよろしかったのですが……」
「うむ、雇ってしもうたわ。
なかなかに良い腕の者達だな」
信雄は得意げに笑う。
「そういう訳だ、秀政殿。
前倒して出陣しようぞ!」
秀政は思わず声を上げた。
「いやいやいや、待ってくだされ。
まだ敵の情報を掴んでおりませぬ!」
「なんじゃ、まだか?
秀政殿にしてはゆるりとしておるな」
(いや、俺、二ヶ月後って言ったから!
全然ゆるりとせずに、寝る間を惜しんで策を考えたから!)
秀政は深く頭を下げた。
「申し訳ありませぬ。
ですが、あと二ヶ月弱はお待ちいただきたく」
信雄は腕を組み、少し考えた。
「左様か、なら仕方ないな。
だが、なるべく急いでくれるか?
傭兵への支払いが勿体ないでの」
(いや、だからお前が早く雇いすぎたんだよ!)
秀政は苦笑を浮かべた。
「そうですね、なるべく急ぎます」
「うむ、分かった。
では、また間をおいて伺わせていただくとしよう」
秀政の背筋に冷たいものが走った。
(……だめだ。こいつ、また十日もせずに来そうだ。
これ俺の胃を痛めるためにわざとしてるのか?
いや、そうとしか思えぬ)
秀政は観念したように言った。
「……わかりました。
致し方ありませぬな。
では出陣を早めましょう……」
信雄の顔がぱっと明るくなる。
「おう!さすが秀政殿じゃ!」
秀政は地図を広げ、指で南東の海岸線を示した。
「今、考えているのは海路から紀伊南東を攻め落とす策です。
あそこは港も多く、奪い取れば殿もお喜び下さりましょう」
「おぉ!父上がお喜び下さるか!
是非奪い取りたい!」
「さすれば水軍が要ります」
秀政は内心で舌打ちした。
(白子水軍は今、フリゲート開発のために
帆船航行修行に勤しんでいる。
できれば邪魔したくない。
となると……九鬼に協力を仰ぐしかないな)
「三介様、九鬼を雇う銭はありますか?」
「銭ならまだ残っておる」
「それは重畳。
九鬼水軍は東海最強の水軍です」
「東海最強とな!」
「はい。巨大な関船、安宅船を多数所持しております。
これらは三介様の戦には相応しいと存じます。
是非三介様が雇用してください。
そうすれば堺の鉄砲傭兵と共に、九鬼水軍も従えて、
敵無しの軍となりましょう」
信雄は拳を握りしめた。
「おう!わかった。いくらでも出そう。
秀政殿、九鬼水軍と話を通してもらえるか?」
「は!お任せあれ。
九鬼との交渉、標的とする紀伊国人の情報収集が必要です。
ここにはどうしても時間がかかります。
出陣は二月十五日と決めまする。
よろしいな?」
「おう!構わぬ!」
「では、二月十五日に志摩で集合致しましょう。
俺は九鬼や諜報のために、少々忙しくなります。
これ以降は出陣まで、お会いできないかもしれませぬ。
三介様は九鬼への謝礼銭と米をご用意下され。
九鬼を従えられるのは三介様だけにございます」
信雄は満足げに頷いた。
「うむ!任せよ!
秀政殿は標的の選定を任せたぞ!」
「は!」
信雄は上機嫌のまま、軽い足取りで鈴鹿館を後にした。
その背中が見えなくなると、秀政は再びそっと胃を押さえた。
(はぁ……もう嫌だ)