作品タイトル不明
第百七十九話 地獄返し
北陸。
上杉勢は能登・加賀北部を確実に掌中へ収めるべく、
親織田派の諸勢力を一つ、また一つと容赦なく潰していった。
織田方は柴田勝家・丹羽長秀を中心に、
毎日のように軍議を開いては対策を練るものの――
手取川で受けた損害はあまりに大きく、
上杉の攻勢に対抗する術を見いだせずにいた。
ただ、悔しげに北陸の地図を睨むばかり。
あれやこれやと案を出し合うものの、何一つ、
今の上杉に対して決定打は存在しなかった。
その場に、芋粥の若き鬼たちの姿はない。
長政は落馬の折、馬に押し潰されて
左腕と左脚を骨折していた。
今は鷺山が芋粥大将代理として軍議に出席している。
軍議を終えて、鷺山が芋粥の控えの間に帰ってくる。
そして力なく首を振った。
「……全くだめだ」
鷺山が低く呟く。
「織田は完全に牙を折られたかのように縮こまっている。
いや、亀のように縮こまっているならまだましか。
柴田殿の目の奥には“悔しさの闇”が澱んでおった。
あれでは、無謀な野戦にでも打って出かねん」
加藤が苦い顔で応じる。
「それは拙い。
今、野に出れば――
間違いなく織田は全滅だ」
福島も腕を組んだまま、ぽつりと呟く。
「戦は好きだ。
だが、無駄死には好かん」
芋粥の若き鬼たちも、
この場ばかりは悔しさと無力感に沈むしかなかった。
長政は床に横になりつつ、悔しさを胸に天井を見つめた。
*
伊勢・鈴鹿館。
秀政は、政親の策を即座に動かしていた。
長政の戦死を嘆く暇など、もはやどこにもない。
「早馬を大聖寺城と堺の千種屋支店へ飛ばせ。
一刻も早くこの書を届けよ!」
早馬が雨を切り裂いて北陸と堺へ駆けていく。
(急げ、今のこの状況、一歩間違えればさらに泥沼にはまる)
*
秀政が早馬を送り出した、その翌日――
北陸から、鷺山玄蕃の名で早馬が再び伊勢へ到着した。
(また悪い知らせか!?)
一息ついて、覚悟を決めて使者と向かい合った。
『長政、生還す』
書状を読み終えた瞬間、
秀政の膝から力が抜けた。
安堵だった。
そこにもう一人急使が訪れる。
今度は丹羽長秀からだった。
(丹羽殿も無事だったか)
そこにも長政の生存と、
その働きに対する謝辞が述べられていた。
(ま、間違いない。ようやく北陸も混乱が収まったか。
そして、これがまぎれもない確定情報だ。
長政が――
生きていた!)
秀政はすぐにお悠へ伝え、
二人で明の寝所へ向かう。
放心したまま天井を見つめる娘に、
秀政は静かに告げた。
笑顔を見せて安心させる。
「お明、喜べ。
長政は――生きていた」
明の瞳が大きく開く。
震える視線が秀政を捉えた。
「ま、真でございますか?」
「あぁ、このような嘘はつかぬ。
鷺山と丹羽殿からだ。
同じことが書いてあった。
長政は生きておる!」
無言のまま、明の瞳から涙が流れ落ちる。
「骨を折ったそうだが無事だ。
骨なら治る。
生きておる。
あいつは這ってでも帰ってくる」
そこまで聞いてようやく明の緊張の糸が切れた。
「よ……よかった……
よかっ……う、あぁぁぁん……!」
明は堰を切ったように泣き崩れ、
お悠がそっと抱きしめた。
そして秀政が穏やかに伝える。
「今、長政の伊勢への帰還を願い出ておる」
泣き続ける明の頭に秀政もゆっくりと手を置いた。
「帰って来た時は笑顔で出迎えような」
「……は……はい」
*
秀政の早馬は、
可能な限りの最速で目的地へ駆けた。
堺・千種屋に向かわせた使いは、
確実に堺支店支配人へ指示状を渡す。
『一、サンパイオ商会より、相場一挺七貫の鉄砲千挺、即時納入にて買い上ぐべく候。
一、右の鉄砲、値切り申す間敷く、芋粥家の名にて七貫のまま買い求むべく候。
一、右の品々、大聖寺城在陣の柴田・丹羽両家へ、一挺八貫にて売り渡すべく候。
一、弾薬火薬の類、相当の分、定価にて横流し致すべく候。
一、右売買の差額千貫、千種屋の取り分として相違無く候。
但し、昼夜を惜しまず急ぎ北陸へ運送仕るべく候。
遅滞これ有るべからず。
芋粥備前守秀政(花押)』
驚きはあったが、鉄砲を流すだけで千貫の儲け。
千種屋堺支配人はすぐさまサンパイオ商会と商談を開始する。
秀政の名は絶大で、千挺もの鉄砲の独占販売が成立。
値切り不要と伝えたにも関わらず、六千貫で千挺を即時引き渡した。
千種屋は二千貫の儲けのためにも、昼夜惜しまぬ努力で、
なるべく早く北陸・大聖寺城へと届けさせた。
一方、北陸の柴田・丹羽も秀政の使者から文を受け取る。
『此度、上物の鉄砲千挺、早々に大聖寺城へ運び入れ申すべく候。
其の価、一挺八貫にて候。
但し、左の条々、相違無く承引あるべく候。
一、大聖寺籠城において、上杉勢へ地獄返し致すべき事。
一、芋粥勢負傷者の療養帰国、妨げ申す間敷候。
右、承引これ有らば、鉄砲千挺、即時に送り届け申すべく候。
芋粥備前守秀政(花押)』
使者が到着すると二人で協議し、
柴田は六百挺、丹羽は四百挺を即決で買い上げた。
そして――
芋粥兵は立て直しのため、伊勢への帰国を許された。
*
動けぬ長政は輿に乗り、
生き残った鬼兵八百強、常備兵千五百強に守られ、
伊勢へと向かう。
農兵千は離散したまま、戻らなかった。
恐怖で逃亡土着したか、戦で死んだかも定かではない。
出陣時からほぼ半数を失った帰国だった。
*
七月中旬。梅雨も明けた頃、秀政の言葉通り、
上物の南蛮製鉄砲が千挺大聖寺城へ届く。
織田はこの鉄砲の到着を待ち、ひたすら大聖寺城に亀が如く籠っていた。
それは上杉勢には織田の弱腰に見えた。
既に上杉謙信は能登を完全に制圧し、再び加賀に目を向けようとしていた。
いずれ大聖寺城は上杉の力攻めに遭うだろう。
勝家と長秀は到着した鉄砲を前にして黙ってそれを見つめている。
「本当に届いた」
長秀が静かに呟く。
「芋めには頭が上がらぬな」
さすがの勝家も神妙に答える。
すぐに武将の顔に戻る。
「この大聖寺城は鉄砲籠城に極めて有利。
上杉軍に“地獄返し”を与え、
撤兵を決断させるだけの威力は十分にある。
ここで上杉軍を叩き潰せば、北陸の情勢は振出しに戻る。
殿のお怒りも静まろう」
「左様で」
正にその通りだった。
大聖寺城は錦城山に築かれた平山城で、
本丸・二の丸・鐘ヶ丸などが尾根上に連郭式に連なる。
各郭に巨大な土塁・空堀が存在し、
周囲は大聖寺川の湿地帯。
攻める側は狭い尾根道・斜面を登るしかない。
上杉軍は“狭い登り道”を密集して進むだろう。
守るは柴田・丹羽・前田・佐々。
一度敗れたとはいえ、鉄砲の扱いも上手く、
猛々しい武将たちだ。
そして上杉・越後勢は湿気の多い地域出身のため、
火薬保管が難しく、鉄砲の大量運用は苦手だった。
盾兵も少なく、密集突撃が基本の彼らは、
まさかこの短時間に千挺もの鉄砲が備えられているとは
露ほども思わなかった。
*
上杉は大聖寺城の力攻めにより―
二千あまりの死傷者を出して撤兵した。
既に義を果たしたという建前のもとでだ。
“地獄返し”によって、多くの上杉軍精鋭兵を失い
柴田の言う通り、北陸情勢は振出しへと戻った。
信長の機嫌が回復したことは言うまでもない。