軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百七十八話 悲報届く

鈴鹿館、会計局。

外では春を越えた伊勢湾の湿気を含んだ雨が、

静かに瓦を叩いていた。

帳簿の山、算盤の音、紙をめくる音、

いつも通りの光景だ。

その中央で、お悠が最終承認の朱印を押している。

そこへ――

障子が開いた。

「お悠」

「あ、弥八様。

どうかなさいましたか?」

秀政は部屋へ入るなり、

どこか言いにくそうに頭を掻いた。

「少し頼みがある」

お悠が首を傾げる。

「何でしょう?」

秀政は咳払いしてから言った。

「……白鬼隊の馬についてなのだが」

「はい」

「先に頼んだ三百貫を改め、

六百貫ほど予算を回してもらえまいか?」

お悠の筆が止まった。

「……六百貫?!」

思わず声が裏返る。

周囲の勘定奉行たちまで顔を上げた。

秀政は慌てて両手を合わせた。

「頼む!

白鬼隊の馬を少し上等なものにしたいのだ。

今後、海路だけでなく陸路でも迅速に動かす必要がある。

それに騎馬伝令も増やしたい」

「ですが三百貫の追加は簡単な額ではございませぬ!」

「分かっておる。

分かっておるのだが……!」

頭を下げる。

「頼む、お悠」

お悠は困ったように笑った。

「……弥八様は、

本当にそういう時だけ素直でございますね」

「うっ」

「はぁ……仕方ありません」

お悠が帳簿をめくる。

「鉄砲交易の利益分から回しましょう。

ですが次の軍備増強は少し待ってくださいませ」

秀政の顔が明るくなった。

「本当か!承知した!」

「その代わり、

必ず成果を出してください」

「任せろ!」

秀政が満面の笑みを浮かべる。

「すまんな、お悠。

助かる」

お悠は苦笑した。

「本当にもう……」

その時だった。

廊下の向こうから、

慌ただしい足音が響いた。

「急使!!」

障子が勢いよく開く。

使番が、雨に濡れた早馬伝令を連れて入室し、

荒い息のまま膝をついた。

「北陸より急使にございます!!」

秀政とお悠の表情が変わる。

「どうした?」

秀政はまだ、

どこか余裕を残したまま尋ねた。

「また長政が功を挙げたか?」

加賀での大勝。

あの戦ぶりなら、

北陸でもさらに武功を重ねていても不思議ではない。

だが――

使番は顔を伏せたまま、

震える声で告げた。

「若殿の北陸勢は……

手取川にて、上杉勢と激戦」

その瞬間、秀政の顔から一気に血の気が引いた。

「……手取川?」

空気が凍る。

使番は続けた。

「善戦虚しく、

織田勢は大敗。

潰走の末、

八千から一万の兵が討ち取られたとのこと」

「一万だと!?」

秀政が立ち上がった。

「織田勢がほぼ全壊ではないか!!」

会計局の空気が張り詰める。

「長政たちは無事か!?」

使番が唇を噛んだ。

「芋粥勢は……

丹羽方の 殿(しんがり) を務め――壊滅。

鬼兵を含め、

数多の死傷者、行方不明者を出しました」

お悠が息を呑む。

「鷺山様、

加藤様、

福島様はご無事。

ですが――」

一瞬、使番が言葉を詰まらせた。

「若殿様は……

消息不明にございます」

「な……何だと!?」

秀政の声が響いた。

雨音すら止まったような錯覚。

秀政の脳裏に、

悪夢のように見た光景が蘇る。

手取川。

豪雨。

血。

濁流。

(……明にはまだ伏せねばならん。

まずは情報の精査だ)

そう考えた瞬間だった。

カタン。

小さな音。

振り返ると同じ部屋の隅で、

母の仕事を手伝っていた明が、

手から筆を落としていた。

「あ……」

秀政は声にならない声を上げた。

明の顔から血の気が消えている。

目が虚ろだった。

「明!?」

お悠が駆け寄る。

だが明は反応しない。

ただ、知らぬ間に涙だけが頬を伝っていた。

「な、長政……様……」

震える声。

その直後、明の身体から力が抜けた。

「明!!」

お悠が抱き留める。

崩れ落ちる娘を支えながら、

お悠の顔にも、

初めて隠し切れぬ不安が浮かんでいた。

翌日。

鈴鹿館には、

織田家北陸方面からも報せが届いた。

雨はなお降り続いている。

重苦しい空気の中、

秀政は静かに書状を開いた。

そこに記されていた内容は、

昨日の急使と大差なかった。

手取川にて織田勢大敗。

討死・溺死・行方不明、

合わせて六千余。

柴田勝家、

前田利家、

佐々成政は生還。

そして――

丹羽長秀、

芋粥長政、

討死。

そこまで読んだ瞬間、

秀政の腰から、ふっと力が抜けた。

畳へ手をつく。

「弥八様!」

お悠が慌てて支える。

だが秀政は、

そのまま書状を睨み続けていた。

(……まだだ)

討ち取られた兵数にもばらつきがある。

八千。

一万。

六千。

報せごとに違う。

それだけ戦場が混乱していたということだ。

何が真実で、何が誤報か。

まだ分かったものではない。

だが――

秀政は最悪の事態を覚悟した。

手取川。

あそこは、

織田が最も戦ってはならぬ地。

歴史を知る者なら、

誰もがすぐに思い描く織田にとっての死地。

何が起きても、不思議ではない。

それが丹羽長秀や長政の“死”であってもだ。

その時だった。

「伊賀より急報!」

さらに別の使者が駆け込んできた。

岐阜へ放っていた伊賀忍びからの報せだった。

秀政が顔を上げる。

「申せ」

「今回の敗戦により、

織田は北陸主力と、

能登、加賀北部を喪失」

秀政の顔が険しくなる。

「大殿様の怒りは凄まじく、

織田家中の力関係すら書き換える勢いにございます」

(柴田・丹羽が失脚する……)

その言葉に、

お悠が息を呑む。

「そして――」

忍びが続けた。

「怒りの矛先は、

この芋粥家にも向いております」

秀政は、ゆっくり目を閉じた。

長政の生死すら定かではない。

だが、悲しんでいる暇すら与えられない。

織田家そのものが、

大きく揺れ始めていた。

長政討死の報せは、

明には伏せられた。

だが、昨日の急報以来、

明は完全に寝込んでしまっている。

食事も喉を通らず、

ただ布団の中で、

ぼんやりと天井を見つめていた。

そんな折。

「政親様、ご到着にございます」

大河内城主の政親が、

鈴鹿館へ姿を現した。

秀政は疲れ切った顔で迎える。

怪訝そうな表情のまま、政親は話を切り出す。

「準備が整いました。

これより九州へ出立します」

「あ、あぁ……。

気をつけて行け」

その返答を聞いた瞬間。

初めて政親の表情が歪んだ。

「……義兄上。

何か大きな問題でも起きましたか?」

秀政が顔を上げる。

「お前は北陸のことを知らぬのか?」

「は?いえ、申し訳ありませぬ。

出立準備と九州の下調べに追われ、

北陸までは手が回らず。

確か若殿が大手柄を挙げられたとか。

おめでとうございます。

それの何が問題で?」

感情の薄い、事務的な祝辞だった。

だが秀政は、

それに答えず低く言った。

「織田は上杉謙信と手取川で戦い、

大敗した」

政親の顔色が変わる。

「……真ですか?」

そして、初めて明確な焦りを見せた。

「西に続いて、

北でも問題が……」

その反応を見て、秀政は理解した。

この男は本当に知らなかったのだ。

九州工作と西国情勢に意識を割き過ぎ、

北陸まで頭が回っていなかった。

秀政はさらに声を落とす。

「長政が――手取川で討死した」

政親の目が驚きのあまり見開かれた。

「わ、若が!?」

珍しく完全に動揺している。

「大勝したという話は誤報でしたか?」

「いや」

秀政が苦く答えた。

「大勝し、

そして大敗した」

政親は黙り込む。

頭の中で状況整理が追いついていないのが見て取れた。

秀政は一枚の書状を差し出す。

伊賀忍びの報告書だった。

政親が目を通す。

そして顔が青ざめる。

「……大殿が、

この敗戦に激怒している。

しかもその怒りは芋粥にも向いていると」

「そうだ」

秀政が低く答える。

「長政のことを考える暇すらない。

手を打たねばならん。

このままでは、

失脚に焦る柴田がまた無謀な攻めに出る。

そうなれば鷺山まで失いかねん」

政親の顔から血の気が消えた。

「それは大いにあり得ます。

若殿だけでなく、

鷺山まで失えば芋粥は立ち直れませぬ。

それに怒りに任せて、大殿によって

伊勢を召し上げられでもしては……」

「その通りだ」

秀政が額へ手を当てる。

その姿は完全に疲弊していた。

そんな秀政を見て、

政親は静かに口を開く。

「義兄上。

若殿のことは誠にお悔やみ申し上げます。

ですが、気持ちを強くお持ちください。

義兄上にはまだ松丸様がおわします」

秀政は顔を上げる。

「そうだな。

何か……策があるか?」

「はい、今思いつきました」

政親は即答した。

「義兄上はサンパイオ商会と誼を結ばれました」

「それが何だ?」

「今回、最高品質の鉄砲千挺を発注されたと聞きます。

ですがサンパイオ商会は大商会です。

通常、鉄砲の在庫も豊富に抱えているはずです。

義兄上なら、さらに千挺売らせることもできましょう」

秀政が力強く政親を見据える。

政親は続けた。

「彼らが扱うは定価七貫ほどの上物です。

それを値切らず買います。

その代わり即時納品せよと迫るのです。

商人は通常、その手間を嫌います。

ですが相手が義兄上で、

しかも大口取引、

値引きなしであれば、

商会への配慮も十分です。

喜んで鉄砲千挺を売るでしょう」

秀政が黙って聞いている。

「その鉄砲千挺を、

今度は柴田・丹羽へ売るのです。

一挺七貫で」

「柴田・丹羽は……買うか?」

「買います。いえ、買う以外の選択肢がありませぬ」

政親は断言した。

「あの二人にはまだ財があります。

そして鉄砲千挺あれば、

大聖寺城へ籠ることができます。

鉄砲千挺という上杉の予想を超える火力で、

撃ち尽くさせればよい。

今度は上杉が――

地獄を見ましょう」

政親の目が鋭くなる。

「この策の利は実に多い。

大殿の機嫌が直る。

柴田・丹羽の威信は回復し、

それは両家への最大の恩を売ったことになる。

この両家を取り込めれば、

芋粥の家中威信も爆発的に上がる。

織田北陸も安定する。

我らは鉄砲を流すのみゆえ、

本来任務の妨げにもならぬ。

だが、商会にとっては我らの上客ぶりが目立つでしょう。

そして――

鉄砲を売る条件として、

芋粥軍の一時帰国を願い出るのです。

負傷者保護を理由に。

芋粥から代わりを差し向ける頃には、

上杉はもう撤退しております」

秀政はしばらく言葉を失った。

やがて静かに呟く。

「……政親」

「はい」

「良策だ」

秀政の目に久しぶりに光が戻る。

「よくこの場でそこまで思いつけたな」

政親は首を横に振った。

「いえ。

正直、予想を遥かに超えて酷い状況でした。

必死に考えた結果です。

人は追い詰められるほど真価を発するもの」

秀政は深く息を吐く。

「何はともあれ助かった。

正直な所、俺は……長政のことで、

頭が回っていなかった。

お前がこの場に来なければ、

芋粥は窮地に陥る所だった」

政親が静かに答えた。

「それはそうでしょう。

子を失ったのですから。

無理もありません」

その後、小さく続ける。

「何なら私はもう少し伊勢へ残り、

お支えしましょうか?」

だが秀政は首を振った。

「いや。

西も予断を許さぬ。

行け。

俺とて当主の役目は理解しておる。

松丸の為にも芋粥を弱らせるわけにはいかん!」

「……は。

頼もしいお言葉です。

私も安心して九州に向かえます」

「気を付けていけよ」

政親は静かに頭を下げた。

そしてそのまま、九州へ向けて出立する。

馬に乗りながら、政親は考えていた。

(……まさか長政が死ぬとはな。

あいつはあまりに出来過ぎた男だった。

いずれどう対処するか、悩ましい存在だった)

だが――

棚から落ちてきた牡丹餅かのように、

都合よく勝手に死んだ。

政親は芋粥と松丸を守るべく、

彼の全知をもって最良の策を導き出した。

それが長政をも救うと知らず。

政親は静かに鈴鹿館の方角を見つめる。

(運は……

千種にあり)