作品タイトル不明
第百七十七話 鬼、潰れし時
六月十日。
手取川は、完全に地獄と化していた。
豪雨。
濁流。
泥。
そして絶え間なく響く悲鳴。
上杉軍の突撃によって崩された織田勢は、
もはや軍の形を保てていない。
柴田、丹羽、前田、佐々。
歴戦の将たちですら、
自軍をまとめるだけで精一杯だった。
その中で――
芋粥軍もまた、潰れようとしていた。
*
既に鬼兵たちは味方の位置すら把握できていない。
自分達がどこにいるのか、逃げられるのか。
守るべき大将がどこにいるのか。
生きているのか。
「退けぇぇぇ!!」
正則が怒鳴る。
だが雨音が全てを掻き消す。
赤鬼兵たちは泥の中で槍を振るい、
迫る上杉兵を押し返していた。
だが、止まらない。
敵が一向に減らぬ。
押し返しても、
押し返しても、
次が来る。
「くそっ……!」
鬼兵が泥に足を取られる。
転倒した瞬間、上杉兵の槍が一斉に突き下ろされた。
赤い具足が泥に沈む。
「立てぇ!!」
正則が怒鳴る。
だが、その怒声すら豪雨に呑まれていく。
*
別の場所。
青鬼もまた、包囲を崩しながら後退を続けていた。
「止まるな!」
鷺山が叫ぶ。
「退路を確保しろ!
囲まれたら終わりだ!」
青鬼兵たちは隊を小分けにし、
次々と襲い来る上杉兵をいなしながら下がっていく。
だが、敵が多すぎる。
味方は次第に散り散りとなり、混乱と絶望が視野を奪う。
皆がどこで戦っているのか、もう分からない。
「若は……!」
鷺山が歯を食いしばる。
だが、今は自分の前の兵を救うので精一杯だった。
皆の力を信じて戦うしかないのだ。
*
黒鬼騎馬もまた苦戦していた。
泥。
ぬかるみ。
増水。
騎馬の速度が死んでいる。
「馬が沈むぞ!」
「隊列を保て!」
清正が叫ぶ。
だが、騎馬隊の強みそのものが封じられていた。
馬が転倒する。
落馬した兵へ、即座に槍が降り注ぐ。
精鋭たる黒鬼騎馬ですら、
この豪雨の前では無敵ではない。
清正が悔しげに唇を噛んだ。
「これが……軍神の戦か……!」
*
長政は、なおも前線にいた。
「退くな!
崩れるな!
退いた者から討たれる。
守りを固めろ。それこそが生きる道だ!」
泥水を浴びながら叫ぶ。
だがその瞬間。
横殴りの豪雨の向こうから、
上杉騎馬が突っ込んできた。
「若!!」
槍衾が乱される。
馬が悲鳴を上げた。
長政の馬が横倒しになる。
「ぐっ……!」
泥へ叩きつけられる。
足に激痛が走った。
立てない。
その上へ、
芋粥兵が覆いかぶさる。
「若を守れぇ!!」
「下がれ!!」
長政を守った兵の背中に槍が何本も突き立つ。
血が泥へ流れた。
長政は歯を食いしばる。
「構うな……!
退け!!」
だが、兵たちは退かない。
鬼兵も常備兵も、若き総大将を庇いながら討たれていった。
*
一方。
撤退を始めていた丹羽長秀は、その手腕を持って、
何とか軍を立て直し、泥だらけの敗残兵から報告を受けていた。
「芋粥が……若殿が……!
しんがりで取り残され……!」
長秀が顔を上げる。
「万丸が?」
「は、はい……!
我らを逃がすために……!」
その瞬間、長秀の顔色が変わった。
「馬を引け」
家臣が慌てる。
「なりませぬ!
今戻れば丹羽まで潰れます!」
「あやつは――」
長秀が怒鳴った。
「あやつは、
わしを助けようとして死地へ残ったのだ!!」
泥を蹴る。
「父として助けずにおれようか!!」
家臣が止めようとする。
「殿!!」
「ええい、離せ!!」
長秀は自ら馬へ飛び乗った。
「丹羽勢、引き返すぞ!!
万丸を拾う!!」
歴戦の丹羽兵たちも、
覚悟を決めて槍を握り直した。
*
激戦の最前線。
芋粥軍は完全に分断されていた。
赤鬼。
青鬼。
黒鬼。
常備兵。
農兵。
それぞれが、目の前の敵と戦い、
退くだけで精一杯。
統率など、既にない。
鬼兵が泥に沈む。
常備兵が川へ流される。
農兵が泣き叫びながら逃げる。
鬼も農兵も、等しく潰れていった。
*
長政は泥の中で膝をついていた。
足が動かない。
周囲には、まだ戦う芋粥兵たち。
「若……!」
「まだ退けます……!」
その時、上杉兵の列が崩れた。
別方向から騎馬隊が突っ込んできたのだ。
「丹羽だぁぁ!!」
長秀だった。
丹羽勢が必死に槍を振るい、
長政周囲を切り開く。
長秀が馬上から怒鳴る。
「万丸!!」
長政が顔を上げた。
「……父上」
「立て!!」
「足が……」
長秀は即座に馬から飛び降りた。
長政を無理やり引き上げる。
「馬へ乗れ!!」
「しかし――」
「黙れ!!
今度はわしがお前を守る番だ!!」
長政が馬へ押し上げられる。
その後ろで、丹羽兵が次々と討たれていった。
*
夕刻。
雨はなお降り続いていた。
だが、ようやく織田勢は撤退に成功し始める。
前田。
佐々。
柴田。
丹羽。
それぞれがようやく立て直し、血を流しながら退いていった。
上杉も深追いをしない。
そして芋粥軍もまた、
壊れながら、
それでも潰れきらずに退いていく。
*
その夜。
敗残兵たちが少しずつ集まり始める。
泥。
血。
折れた槍。
鬼の具足すら失った兵たち。
誰も口を利かない。
鷺山が、集まった兵数を確認していた。
赤鬼、青鬼、黒鬼、大損害。
常備兵は壊滅状態。
農兵は離散。
そして――
長政がいない。
「……若は?」
誰も答えられない。
正則が顔を伏せる。
清正も黙った。
鷺山は拳を握り締めた。
「若を死なせてしまっていたなら……」
鷺山の声は震えていた。
「俺は腹を切る」
そして泥の地面へ膝をつき、
静かに神仏へ祈り始めた。
*
上杉の残党狩り、落武者狩りから隠れながら、
芋粥による懸命な捜索が続けられた。
だが、北陸織田軍はこの敗北の速報として、
丹羽長秀、芋粥長政の討死を信長並びに秀政へ伝えた。
*
二日後、雨がようやく止む。
そこへ、丹羽旗が現れた。
丹羽長秀も討ち取られたと思われていた中での帰還である。
鷺山たちが飛び出す。
その先に傷だらけの長秀がいた。
そして馬上には、包帯だらけの長政もいる。
「若!!」
長秀が静かに呟く。
「……すまなんだ」
長政も弱々しく鷺山に声をかける。
「鷺山、心配をかけた……」
鷺山たちは、ようやく安堵の息を吐いた。
*
手取川合戦。
織田勢は壊滅した。
だが、完全消滅ではない。
離散した兵。
川へ流された後に生還した兵。
敗走後、各地から戻ってきた兵。
それらを再集結した結果、
最終的な損害は以下となった。
柴田勢、
戦死・行方不明、八百から千二百。
丹羽勢、
五百から八百。
前田勢、
三百から五百。
佐々勢、
三百から五百。
芋粥勢、
鬼兵と常備兵で六百から八百。
農兵千は全員が行方不明となった。
さらに、溺死者は後から合流した芋粥を除く
織田四将合計で千から千五百に達した。
勝敗ではない。
惨敗だった。
加賀での芋粥大勝すら、
完全に吹き飛ぶほどの。
これは史実の手取川敗戦をはるかに凌駕する大敗となった。
その被害は倍を数える。
織田は、能登と加賀北部を失った。
*
岐阜。
敗報を受けた信長は、
激怒した。
「……手取川で何をしておる!!」
その怒りは、
柴田、丹羽だけではない。
前田。
佐々。
そして芋粥にも向けられる。
この敗戦によって、
織田家中の力関係、発言力は大きく揺らぎ始めていた。