作品タイトル不明
第百七十六話 軍神
六月九日。
手取川周辺には、不気味な静けさが漂っていた。
双方動けず、織田・上杉は川を跨いで睨みあっていた。
数日続いた晴れ間。
本来ならば梅雨に入っていてもおかしくない時期である。
だが空に太陽が輝き、雲は薄く流れ、
地面も乾いていた。
その静けさが、
逆に兵たちの不安を煽る。
*
織田軍本陣。
柴田勝家、丹羽長秀、前田利家、佐々成政らが地図を囲んでいた。
外では兵たちが渡河準備を進めている。
槍束が並び、
火縄銃の火縄が乾かされ、
馬が鼻を鳴らしていた。
その中で、
柴田がふと空を見上げる。
「……湿ってきたな」
長秀も頷く。
「えぇ。
風向きも変わりました」
利家が苦笑した。
「権六様。
また雨読みですか」
柴田は鼻を鳴らした。
「北陸で戦うなら空を読めぬと死ぬ。
……明日から荒れるぞ」
その声は低かった。
*
その夜。
ぽつり。
ぽつり。
雨が降り始めた。
手取川周辺に散っていた織田勢は、
まだその雨を軽く見ていた。
六月の雨など珍しくない。
だが――
対岸では、別の軍が動いていた。
「毘」
闇の中、
白布に描かれたその一字が、
雨に濡れながら揺れる。
上杉軍だった。
しかも、ただの渡河ではない。
地元百姓が案内役となり、
渡河可能な浅瀬だけを正確に選び出していた。
「こちらだ!」
「そこは深い!
一間右へ寄れ!」
「馬を横へ向けろ!」
夜目の利く越後兵たちが、
雨の中を音もなく進む。
彼らは慣れていた。
北陸の雨も、
増水も、
泥も。
何より――
上杉謙信という将そのものがもたらす勝利に。
*
六月十日、早朝。
空は完全に崩れていた。
黒雲。
豪雨。
冷たい風。
雨粒が地面を叩き、
泥が跳ね、
川が濁流へ変わり始めている。
兵たちの陣羽織は重く濡れ、
火縄は湿り、
鉄砲足軽たちは必死に火を守っていた。
視界は悪い。
音も悪い。
豪雨が全てを掻き消していた。
柴田が苛立たしげに叫ぶ。
「偵察はまだ戻らぬのか!」
「申し訳ございませぬ」
忍びも、
物見も、
この豪雨では機能しない。
長秀が静かに呟いた。
「……こういう時が危ない」
「分かっておる!」
柴田が怒鳴る。
「だからこそ忍びを放っておるのだ!」
だが、既に遅かった。
*
午前――突然だった。
豪雨の向こう。
何もなかったはずの丘陵から、騎馬の大軍が現れた。
「――上杉だぁぁぁ!!」
絶叫が走る。
その先頭に、毘の旗。
白頭巾。
それは――上杉謙信。
「総員、前へ」
その声は静かだった。
だが、次の瞬間、越後最精鋭が、
豪雨を裂いて突撃する。
「うおおおおおお!!」
凄まじい衝撃だった。
織田軍前衛が、まるで板を割るように吹き飛ばされる。
「なっ――?!」
「背後からだと!?」
「既に渡河した!?」
柴田勢が崩れる。
丹羽勢が押し込まれる。
前田勢が乱れる。
佐々勢が押し返される。
そして――
止まらない。
上杉騎馬は、雨も泥も関係ない。
むしろ豪雨そのものが、彼らの味方だった。
まさに天候すら上杉を祝福する。
「軍神……!」
誰かが呟いた。
そこから先は、もはや戦ではなかった。
災害だった。
*
さらに追い打ちが来る。
上流。
「切れぇぇぇ!!」
上杉兵が堰を破壊した。
濁流が解き放たれる。
手取川が一気に膨れ上がった。
「なっ――」
「川が!!」
浅瀬が消える。
渡河地点が深流へ変わる。
兵が飲まれる。
馬が流される。
鎧武者が泥水の中でもがき、
沈み、悲鳴だけを残した。
「退けぇぇ!!」
「押すな!!」
「軍神が来たぞぉ!」
「助け――」
だが後ろから押される。
雨で視界は見えない。
ぬかるみに足が取られる。
隊列は崩壊し――
そこへ再び、上杉騎馬が突き刺さる。
完全な濁流との挟撃だった。
*
六月十日午前、手取川手前で芋粥軍はいったん停止していた。
「すごい雨だな」
正則が呟く。
「若、どう動く?」
鷺山が長政に問いかけるが、長政は顎に手を置いたまま全く動かない。
「わからん……。
織田と上杉がどこにいるのかもわからんのだ。
迂闊に動いて、上杉に囲まれでもしたら、
芋粥のせいで織田が崩れかねん」
「確かに。忍びは?」
加藤も冷静にうなずく。
「放ってある。だがこの豪雨だ。
思うようには情報は得られぬやもしれん」
そこに伊賀忍びが数名戻る。
「た、大変です。既に戦端は開かれております。
そして既に織田は壊滅!」
「なんだと?!」
鷺山が顔を引きつらせて叫ぶ。
忍びたちが自分たちの調べてきた状況をもとに碁石を置いていく。
「この状態で、上杉がここより現れました」
「背後を取られたか」
「はい、そして上杉の越後騎馬はまるで軍神が率いるが如く。
その苛烈さにより、半刻も立たずに織田は潰走」
そういうと碁石を退き口に沿って動かしていく。
「そこに堤切りです。この辺りが水で浸りました」
忍びは指で地図上をなぞり、清正が苦々しく呟く。
「水と上杉による挟撃か」
「柴田勢は最初に大打撃を受けましたが、
撤退に当たっては前田様、佐々様がしんがりを務めこちらへ退かれました」
「ふむ、これは追われるぞ。被害がまだまだ増しそうだ」
正則もさすがに渋い顔をする。
「丹羽は?」
長政が尋ねると、忍びは暗い顔をしながら碁石を動かす。
「丹羽様はこちらへ。完全に取り囲まれました」
長政の顔色が変わる。
「すまぬ。父を救いたい。良いか?」
鷺山は黙り込む。
だが、正則と清正が力強くうなずいた。
「急ごう。迷っておると間に合わなくなるぞ」
*
「立て直せぇぇ!!」
柴田が怒鳴る。
前田が槍を振るう。
佐々が退路を守る。
長秀も必死に兵をまとめる。
だが、豪雨と濁流が、全てを寸断していた。
遂には各軍が分離する。
「丹羽様が孤立しました!」
「何!?」
その時だった。
長秀隊の側面へ、上杉勢が雪崩れ込む。
「ぐっ……!」
丹羽勢が崩れる。
周囲は敵、退路なし。
もはや、どちらの方向に味方がいるかも分からぬ。
四方から敵の吠える声が聞こえる。
まもなく大軍が取り囲むだろう。
長秀は静かに刀を抜いた。
「……ここまでか」
腹を切るためだった。
ゆっくりと豪雨が降りしきる空を見上げる。
「無念よ。殿の天下を見届けること能わず」
その瞬間。
泥水を蹴散らして、
騎馬隊が突っ込んでくる。
「父上ぇぇぇ!!」
長政だった。
鬼兵が上杉勢へ食らいつく。
長政が馬から飛び降り、長秀の腕を掴む。
「何をしておられる!」
「万丸……?」
「早く立て直しくだされ!
ここで死なれては困ります!」
長秀を引いてきた馬へ押し上げる。
「しかし……いや。
万丸、かたじけない。
我らはまだここで死ぬわけにはいかぬ!」
鬼兵が周囲を死守する。
丹羽長秀とその親衛隊が芋粥の来た方向へ駆け出す。
「……よし、我らもいくぞ。
芋粥は 殿(しんがり) を務める!
可能な限り上杉兵を打ち倒しつつ退け!」
だが、その代償は大きかった。
*
「若!退きましょう!」
鷺山が叫ぶ。
「まだだ!」
長政が怒鳴る。
上杉軍は異常だった。
統制が崩れない。
歴戦の勇士であり、軍神が率いる兵でもある。
豪雨の中でも的確に退路を塞ぎ、
先回りし、包囲を狭めてくる。
まるで全てを読まれている。
「これが……謙信……!」
鬼兵ですら分断され始めていた。
赤鬼は目の前の敵を斬るので精一杯。
青鬼も退路確保に追われる。
黒鬼騎馬も泥で速度が出ない。
退く。
ただ退く。
もはや、それしか出来ない。
混乱の中、一人、また一人と討ち取られていく。
*
その頃、伊勢・鈴鹿。
空は晴れていた。
縁側で、秀政が昼寝をしている。
穏やかな風。
静かな昼。
だが――
「っ!!」
秀政が突然飛び起きた。
全身が汗で濡れている。
呼吸が荒い。
「夢か……」
目を見開いたまま、
震える声で呟く。
「……長政?」