軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百七十六話 軍神

六月九日。

手取川周辺には、不気味な静けさが漂っていた。

双方動けず、織田・上杉は川を跨いで睨みあっていた。

数日続いた晴れ間。

本来ならば梅雨に入っていてもおかしくない時期である。

だが空に太陽が輝き、雲は薄く流れ、

地面も乾いていた。

その静けさが、

逆に兵たちの不安を煽る。

織田軍本陣。

柴田勝家、丹羽長秀、前田利家、佐々成政らが地図を囲んでいた。

外では兵たちが渡河準備を進めている。

槍束が並び、

火縄銃の火縄が乾かされ、

馬が鼻を鳴らしていた。

その中で、

柴田がふと空を見上げる。

「……湿ってきたな」

長秀も頷く。

「えぇ。

風向きも変わりました」

利家が苦笑した。

「権六様。

また雨読みですか」

柴田は鼻を鳴らした。

「北陸で戦うなら空を読めぬと死ぬ。

……明日から荒れるぞ」

その声は低かった。

その夜。

ぽつり。

ぽつり。

雨が降り始めた。

手取川周辺に散っていた織田勢は、

まだその雨を軽く見ていた。

六月の雨など珍しくない。

だが――

対岸では、別の軍が動いていた。

「毘」

闇の中、

白布に描かれたその一字が、

雨に濡れながら揺れる。

上杉軍だった。

しかも、ただの渡河ではない。

地元百姓が案内役となり、

渡河可能な浅瀬だけを正確に選び出していた。

「こちらだ!」

「そこは深い!

一間右へ寄れ!」

「馬を横へ向けろ!」

夜目の利く越後兵たちが、

雨の中を音もなく進む。

彼らは慣れていた。

北陸の雨も、

増水も、

泥も。

何より――

上杉謙信という将そのものがもたらす勝利に。

六月十日、早朝。

空は完全に崩れていた。

黒雲。

豪雨。

冷たい風。

雨粒が地面を叩き、

泥が跳ね、

川が濁流へ変わり始めている。

兵たちの陣羽織は重く濡れ、

火縄は湿り、

鉄砲足軽たちは必死に火を守っていた。

視界は悪い。

音も悪い。

豪雨が全てを掻き消していた。

柴田が苛立たしげに叫ぶ。

「偵察はまだ戻らぬのか!」

「申し訳ございませぬ」

忍びも、

物見も、

この豪雨では機能しない。

長秀が静かに呟いた。

「……こういう時が危ない」

「分かっておる!」

柴田が怒鳴る。

「だからこそ忍びを放っておるのだ!」

だが、既に遅かった。

午前――突然だった。

豪雨の向こう。

何もなかったはずの丘陵から、騎馬の大軍が現れた。

「――上杉だぁぁぁ!!」

絶叫が走る。

その先頭に、毘の旗。

白頭巾。

それは――上杉謙信。

「総員、前へ」

その声は静かだった。

だが、次の瞬間、越後最精鋭が、

豪雨を裂いて突撃する。

「うおおおおおお!!」

凄まじい衝撃だった。

織田軍前衛が、まるで板を割るように吹き飛ばされる。

「なっ――?!」

「背後からだと!?」

「既に渡河した!?」

柴田勢が崩れる。

丹羽勢が押し込まれる。

前田勢が乱れる。

佐々勢が押し返される。

そして――

止まらない。

上杉騎馬は、雨も泥も関係ない。

むしろ豪雨そのものが、彼らの味方だった。

まさに天候すら上杉を祝福する。

「軍神……!」

誰かが呟いた。

そこから先は、もはや戦ではなかった。

災害だった。

さらに追い打ちが来る。

上流。

「切れぇぇぇ!!」

上杉兵が堰を破壊した。

濁流が解き放たれる。

手取川が一気に膨れ上がった。

「なっ――」

「川が!!」

浅瀬が消える。

渡河地点が深流へ変わる。

兵が飲まれる。

馬が流される。

鎧武者が泥水の中でもがき、

沈み、悲鳴だけを残した。

「退けぇぇ!!」

「押すな!!」

「軍神が来たぞぉ!」

「助け――」

だが後ろから押される。

雨で視界は見えない。

ぬかるみに足が取られる。

隊列は崩壊し――

そこへ再び、上杉騎馬が突き刺さる。

完全な濁流との挟撃だった。

六月十日午前、手取川手前で芋粥軍はいったん停止していた。

「すごい雨だな」

正則が呟く。

「若、どう動く?」

鷺山が長政に問いかけるが、長政は顎に手を置いたまま全く動かない。

「わからん……。

織田と上杉がどこにいるのかもわからんのだ。

迂闊に動いて、上杉に囲まれでもしたら、

芋粥のせいで織田が崩れかねん」

「確かに。忍びは?」

加藤も冷静にうなずく。

「放ってある。だがこの豪雨だ。

思うようには情報は得られぬやもしれん」

そこに伊賀忍びが数名戻る。

「た、大変です。既に戦端は開かれております。

そして既に織田は壊滅!」

「なんだと?!」

鷺山が顔を引きつらせて叫ぶ。

忍びたちが自分たちの調べてきた状況をもとに碁石を置いていく。

「この状態で、上杉がここより現れました」

「背後を取られたか」

「はい、そして上杉の越後騎馬はまるで軍神が率いるが如く。

その苛烈さにより、半刻も立たずに織田は潰走」

そういうと碁石を退き口に沿って動かしていく。

「そこに堤切りです。この辺りが水で浸りました」

忍びは指で地図上をなぞり、清正が苦々しく呟く。

「水と上杉による挟撃か」

「柴田勢は最初に大打撃を受けましたが、

撤退に当たっては前田様、佐々様がしんがりを務めこちらへ退かれました」

「ふむ、これは追われるぞ。被害がまだまだ増しそうだ」

正則もさすがに渋い顔をする。

「丹羽は?」

長政が尋ねると、忍びは暗い顔をしながら碁石を動かす。

「丹羽様はこちらへ。完全に取り囲まれました」

長政の顔色が変わる。

「すまぬ。父を救いたい。良いか?」

鷺山は黙り込む。

だが、正則と清正が力強くうなずいた。

「急ごう。迷っておると間に合わなくなるぞ」

「立て直せぇぇ!!」

柴田が怒鳴る。

前田が槍を振るう。

佐々が退路を守る。

長秀も必死に兵をまとめる。

だが、豪雨と濁流が、全てを寸断していた。

遂には各軍が分離する。

「丹羽様が孤立しました!」

「何!?」

その時だった。

長秀隊の側面へ、上杉勢が雪崩れ込む。

「ぐっ……!」

丹羽勢が崩れる。

周囲は敵、退路なし。

もはや、どちらの方向に味方がいるかも分からぬ。

四方から敵の吠える声が聞こえる。

まもなく大軍が取り囲むだろう。

長秀は静かに刀を抜いた。

「……ここまでか」

腹を切るためだった。

ゆっくりと豪雨が降りしきる空を見上げる。

「無念よ。殿の天下を見届けること能わず」

その瞬間。

泥水を蹴散らして、

騎馬隊が突っ込んでくる。

「父上ぇぇぇ!!」

長政だった。

鬼兵が上杉勢へ食らいつく。

長政が馬から飛び降り、長秀の腕を掴む。

「何をしておられる!」

「万丸……?」

「早く立て直しくだされ!

ここで死なれては困ります!」

長秀を引いてきた馬へ押し上げる。

「しかし……いや。

万丸、かたじけない。

我らはまだここで死ぬわけにはいかぬ!」

鬼兵が周囲を死守する。

丹羽長秀とその親衛隊が芋粥の来た方向へ駆け出す。

「……よし、我らもいくぞ。

芋粥は 殿(しんがり) を務める!

可能な限り上杉兵を打ち倒しつつ退け!」

だが、その代償は大きかった。

「若!退きましょう!」

鷺山が叫ぶ。

「まだだ!」

長政が怒鳴る。

上杉軍は異常だった。

統制が崩れない。

歴戦の勇士であり、軍神が率いる兵でもある。

豪雨の中でも的確に退路を塞ぎ、

先回りし、包囲を狭めてくる。

まるで全てを読まれている。

「これが……謙信……!」

鬼兵ですら分断され始めていた。

赤鬼は目の前の敵を斬るので精一杯。

青鬼も退路確保に追われる。

黒鬼騎馬も泥で速度が出ない。

退く。

ただ退く。

もはや、それしか出来ない。

混乱の中、一人、また一人と討ち取られていく。

その頃、伊勢・鈴鹿。

空は晴れていた。

縁側で、秀政が昼寝をしている。

穏やかな風。

静かな昼。

だが――

「っ!!」

秀政が突然飛び起きた。

全身が汗で濡れている。

呼吸が荒い。

「夢か……」

目を見開いたまま、

震える声で呟く。

「……長政?」