作品タイトル不明
第百六十九話 父と政治
天正四年四月初頭。
北陸の風はまだ冷たい。
雪解けの泥を踏み固めた街道には、
兵糧車の轍が深く刻まれ、
大聖寺城の周囲には絶えず兵が行き交っていた。
城門脇では槍を抱えた足軽たちが慌ただしく動き、
遠くでは鍛冶場の音も響いている。
北陸戦線は、既に“持久戦”の空気を帯び始めていた。
長政は馬上から城を見上げる。
(……北陸は、本当に苦しいのだな)
播磨とも違う。
大和とも違う。
ここには、雪と泥と寒さがある。
そして何より、“終わりの見えぬ戦”の空気があった。
「若、大聖寺城に到着しました」
鷺山が横から静かに声をかける。
長政は頷くと、
手綱を引いて大聖寺城へ入った。
*
木戸をくぐった瞬間、
背後から声が飛ぶ。
「おぉ、芋粥殿!
よくぞ参られた!」
よく知る声だった。
長政が振り返る。
そこに居たのは――
丹羽長秀。
実父である。
長秀は秀政が来ると思っていた。
だが、視線の先に居たのは、
総大将として軍を率いる長政だった。
その瞬間、
長秀の目がわずかに見開かれる。
「……万丸か」
思わず出た幼名だった。
「お前が……芋粥の総大将か」
驚きは隠していない。
だが声には、どこか嬉しさも混じっていた。
長秀がゆっくり近づいてくる。
年齢を重ねてはいる。
だが所作に淀みはない。
鎧姿も崩れておらず、
眼光もなお鋭い。
織田家中でも、
“静かな重鎮”として恐れられる男。
それが丹羽長秀だった。
長政の胸に、小さな波が立つ。
幼い頃、遠くから追いかけた父の背中。
その記憶が、一瞬だけ蘇る。
長秀は長政の肩へ手を置いた。
「立派になったな」
父の手だった。
だが同時に、将が部下へ触れる手でもあった。
「遂には芋粥の総大将か。
伊勢での働きは聞いておる。
志摩、伊賀をまとめ、大和では本願寺を打ち破り、
播磨では羽柴と共に毛利を押し返したそうだな。
……うむ。
男の顔になった。
父は誇らしいぞ」
長政は深く頭を下げる。
「父上。
今は芋粥万太郎長政にございます」
長秀が少し笑った。
「おぉ、そうであったな。
すまぬ」
そう言いつつも、
視線は後方へ流れている。
鬼兵。
整然と並ぶ芋粥軍の精鋭たちだ。
その練度を、長秀は静かに観察していた。
「これが鬼兵か」
「はい」
「なるほど……。
話には聞いておったが、
実に良い兵だ」
長秀は淡々と続ける。
「今の北陸は苦しい。
加賀も能登も、楽ではない。
だが――」
そこで長秀の声色が変わる。
「西国と大和で名を馳せた鬼兵が、
丹羽の先鋒に加わるとなれば、
これほど頼もしいものはない」
長政は黙って聞いていた。
長秀はさらに続ける。
「しかも率いるのは秀政殿ではなく、
お前だ。
万丸――いや万太郎。
お前が丹羽と芋粥を繋ぐ柱になれば、
織田はさらに安定する」
父の言葉だった。
だが同時に、
政治の言葉でもあった。
長秀は自然に語っている。
悪意ではない。
本気で、
“それが正しい未来”だと思っている。
だからこそ厄介だった。
長政の胸の奥で、何かが軋む。
(……やはり、そう来るか)
長秀にとって、
芋粥は“織田の有力与力”、
いや譜代たる“丹羽の有力与力”とさえ見ている。
そして長政は、
“丹羽と芋粥を繋ぐための婿”。
そこに父情はある。
だが同時に、
政治の計算も混じっている。
長政は表情を崩さぬまま答えた。
「御意にございます。
芋粥は丹羽家と共闘し、
北陸を支えます。
柴田様に遅れを取るわけには参りませぬ」
長秀は満足そうに頷く。
柴田に張り合おうとする若者特有の覇気だと受け取った。
“共闘”。
長政がわざわざそう言った意味には、
気付いていない。
あるいは、
気付いていて流した。
「そうだ。
お前が中心となって両家を繋げば、
丹羽も織田も安定する。
殿がお前を芋粥へ出したのも、
そのためよ。
万太郎。
その才を、丹羽のためにも使ってくれ」
その瞬間、
長政の胸へ冷たいものが落ちた。
親しげに肩へ触れた直後。
父として語った直後。
だが最後には、
必ず“丹羽のため”へ帰結する。
長秀に悪気はない。
戦国では当たり前のそれが余計に苦しかった。
長政は一瞬だけ、
幼い日の記憶を探した。
だが浮かぶのは、
抱き上げられた記憶ではない。
寺に捨てられ、必要となれば還俗して婿に出された。
それは――
“役目”だった。
“期待”だった。
“丹羽のために生きること”だった。
長政は静かに息を吐く。
そして礼を崩さぬまま、
ゆっくり答えた。
「父上のお考え、承りました。
私も北陸を支えるため尽力いたします。
ですが――」
そこで初めて、
長秀の目を真っ直ぐ見た。
「私がまず守るべきは、
芋粥にございます。
義父秀政様の下で学び、
私はここまで来ました。
ゆえに、 私の忠義はまず芋粥にあります」
静かな声だった。
だが、線は明確だった。
長秀の表情が、
ほんの一瞬だけ止まる。
父としての感情。
政治家としての計算。
その二つがぶつかった顔だった。
やがて長秀は、
小さく笑った。
「……良い」
声は穏やかだった。
「武士ならば、
そうでなくてはならぬ。
このような世であるからこそ、
武士は忠あれ、義あれ――だ。
秀政殿に尽くし、芋粥を盛り立てよ。
それが織田を支え、
丹羽を支えることにも繋がる」
最後まで、
長秀は“丹羽”を手放さなかった。
長政は理解する。
この人は、父である前に武士なのだと。
そして武士である以上、全ては家へ収束する。
長秀は再び優しい笑みを浮かべた。
「期待しているぞ。
万丸」
そう言い残し、
背を向けて去っていく。
長政はその背を見送った。
胸の奥で、何かが静かに固まる。
*
その夜。
長政は一人、
城の櫓へ上がっていた。
北陸の夜風は冷たい。
遠く、村の灯が揺れている。
加賀の空は暗く、
戦の匂いを帯びていた。
長政は静かに呟く。
「……父上」
声は小さい。
だが、続く言葉は揺れなかった。
「私の父は――
義父上だけだ」
血は消えない。
丹羽の血も、
長秀への情も確かにある。
だが。
自分を育てたのは誰か。
自分に“生きて帰れ”と言ったのは誰か。
自分へ家を与えたのは誰か。
その答えは、もう決まっていた。
長政は北陸の空を見上げる。
政治は人を繋ぐ。
同時に、人を道具にもする。
長政は、その現実を理解した。
理解した上で――
芋粥として生きる道を選んだのである。