軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百六十八話 偽餌

天正四年三月二十五日。

伊勢の海に春霞が立つ頃、

秀政のもとへ伊賀忍びが静かに膝をついた。

「――かかりましたぞ、殿。

例の“鉄甲船”の噂にございます」

秀政は筆を置き、わずかに眉を上げた。

今年の初め、

わざと機密性を弱めて流した“偽餌”。

鉄板を貼った安宅船だの、火矢を弾く船体だの――

本命の帆船開発と香辛料貿易を隠すための煙幕にすぎない。

だが、忍びの次の言葉に秀政は思わず息を呑んだ。

「食いついたのは……

佐久間様にございます」

「佐久間……?」

予想外だった。

秀吉あたりが真っ先に飛びつくと思っていた。

忍びは続ける。

「伊勢に農政を学びに滞在されておられる小一郎様が、

この噂を拾われたようで。それが羽柴様へと伝わり、

……水軍を持たぬ羽柴様が、佐久間様へ“そっと”漏らした模様」

秀政は静かに目を閉じた。

秀吉――水軍を持たぬがゆえに、

海の切り札に飢えている男。

その秀吉が、信長から叱責され焦っている佐久間に

“鉄甲船”という夢を吹き込んだ。

佐久間は財力がある。堺との伝手もある。

名誉挽回のためなら、迷わず飛びつく。

ここで佐久間が海を制したら、莫大な利益は

秀吉も享受できる。

秀政は小さく笑った。

「……なるほど。

これでしばらくは佐久間に目が向こう。

香辛料も、帆船も、しばらくは安泰だ。」

偽餌は、見事に刺さった。

四月に入って間もないある朝、

鈴鹿の秀政のもとへ来客があった。

千種屋志摩支店の支配人と、

鳥羽修理湊の船大工頭領――

志摩の海運と、鳥羽の造船を支える二人である。

二人は、先日政成から提供された

フリゲートの絵図面と覚書を携えていた。

その内容をもとに、志摩と鳥羽で進めていた“研究の目途”について、

正式な調査報告を行うために鈴鹿を訪れたのだ。

支配人が帳面を開き、船大工頭領が図面を広げる。

部屋の空気が一気に専門家のそれへと変わった。

「まず、ガレオンとの違いにございますが――」

船大工頭領の声は低く、しかし確信に満ちていた。

帆の配置、重心の取り方、船体の細長比、

大砲の積載位置、船材の選定、

そして日本の海に合わせた改良点。

議論は深く、鋭く、専門的だった。

秀政の頭の中にしかなかった船が、

職人たちの言葉によって、少しずつ現実へ落ちていく。

やがて、支配人が静かに結論を述べた。

「――時間はかかります。

しかし、ガレオンよりは実現性が高い。

このフリゲートであれば、我らにお任せいただきたい」

船大工頭領も深く頷く。

「必ず形にしてみせます。

鳥羽修理湊の名にかけて」

秀政はゆっくりと息を吐き、満足げに頷いた。

「……頼もしい。これで海が手に入る。

任せよう、必ず成し遂げよ」

鈴鹿の春風が、障子越しに静かに揺れた。

「しかし残念だ。

ガレオンのあの威圧感は、一隻くらい欲しかったのだ。

敵水軍が目を見開き、櫂を止める姿を見てみたかった」

秀政が夢を語る子供のように呟く。

それに船大工が冷静に答えた。

「一隻であれば作れまする」

「は?製作は困難と申していたではないか?」

「はい、一から作るのは無理です。

すなわち量産は叶いませぬ。

ですが、一番難しい点、

竜骨と肋骨、船底構造、帆柱基部、船体曲線の基礎。

これらをそのまま使えれば、外板・甲板・帆柱などの

修理、新造は容易にございます」

「ん?もう少し順を追って話せ」

支配人が代わりに答えた。

「我々は極秘裏に一隻分の状態の良い骨組みを確保してございます」

「まことか!?」

「はい。殿も御存じのことかと思いますが……。

ガレオン船は南蛮人にとっても、

軍事・通商の中核に関わる存在。

そう易々と他国にその技術を漏らしませぬ。

ですが、壊れた船は帰国できぬゆえ、

廃棄せざるを得ないのも事実です。

南蛮人はガレオン船を廃棄するため、

我ら解体業者に任せる場合においても、

船長は責任もって解体完了するまで見届けます」

「それは分かる。

ゆえに骨組みだけ手に入れるのも苦労したであろうな」

支配人はそのまま続ける。

「はい、まずは鳥羽修理湊を南蛮人に知ってもらわねば

修理や解体も任せてもらえませぬ。

そのため、修理費は安く、解体後の廃材の買い取りは高く致しました。

その噂を聞き、すぐに南蛮人が寄り付く湊になりました。

何隻も解体を繰り返して技術を盗んでまいりましたが、

その内に怠惰な船長は我らを信用して、丸投げする者が出てきます。

所詮、船主に雇われた船長にすぎませぬので。

一隻解体した振りをして鳥羽の隠し湊に研究用に骨組みを保存してあります。

その後は修理費と廃材買い取りを相場近くに寄せたため、

依頼件数は減りましたが、その分研究に集中できました。

まぁ、結果としては、自力での建造は無理という結論になりましたが……」

秀政がそれを聞き、目を輝かせながら考え込んでいる。

「フリゲート研究に舵を切る以上必要はなくなってしまいました。

南蛮人に知られると信用を失うので戻ったら、解体します」

「待て!」

支配人の言葉を秀政が力強く止める。

「ガレオン製造計画とフリゲート研究計画は並行せよ」

「ガレオンは一隻しか作れませぬ。

その研究・製造費はフリゲートに回すべきでは?」

「いや、良い案がある。

このガレオンを殿に明かす」

「大殿に?!」

「そうだ。そして殿に献上するのだ。有料でな。

ガレオンを手に入れるなど夢物語だ。

だが手に入れたならば日本で唯一の存在になれる。

殿はそういうのを好まれる。

考えてもみろ。

小早の群れは、高速で動けるガレオンが体当たりするだけで

皆木っ端みじんよ。

関船、安宅船でさえ、大砲で一撃じゃ。

沿岸の城は海から大砲で狙われる。

織田のガレオンはまるで森の王者の虎の如く。

他家の水軍は虎を恐れて穴に縮こまる兎の如くだ。

殿の誇らしげな顔が目に浮かぶわ!」

「つまり売りつけて少しでも研究費を織田家から回収すると?」

「そうだ、本来切り札を織田にすら開示する訳にはいかん。

だが切り札はフリゲートに切り替わった。

一隻しか作れぬガレオンなど切り札にはならん。

ならば殿にであればガレオンを開示しても良い。

開発に失敗したなら研究費は芋粥持ち。

だが、成功したなら織田家に献上する。

その際には建造費として一万貫いただくことにしよう」

「い、一万貫!?」

「大丈夫だ。殿はすぐに計算されるだろう。

ガレオンであれば二万、三万貫の開発・研究費が必要になりうる。

失敗したら痛手なし、成功したらたったの一万貫でガレオンが手に入る。

どうだ?」

「大殿様なら一万貫出していただけるやもしれませぬ」

「そうだ。

だがな、我々には、最も金のかかる骨組みが既にある。

これがあれば二万も三万もかからぬ。

大砲込みでも、完成までの残りの再生費は四千貫と言ったところだ。

一万貫もあれば、これまでかかったガレオンの研究費は取り返せる。

それを元手にフリゲートを研究せよ」

「は!」

支配人と頭領は恐れ入って頭を下げた。

「織田の西対策にもなるしな。

それに何より、殿に許可を得た帆船開発となれば、

隠れずに白子水軍の連中に帆船操作技術を訓練させられる。

今のままではフリゲートを作ることができても、

その水夫の訓練が行えないという懸念があった。

それが払しょくできるのは我ながら名案だ」

「確かにその通りで。

開発中の試験航行と銘打って堂々と訓練ができまする」

「明日、岐阜に行って提案して参る。

ガレオンを公然の秘密とすることで、

フリゲート研究の隠れ蓑にもできよう。

お前達、頼んだぞ!」

「「は!」」

芋粥の策は、また一つ動き始めた。

これは余談。

――半年後。

伊勢に秋風が吹く頃、

再び伊賀忍びが駆け込むことになる。

「殿――佐久間鉄甲船、

初戦にて村上水軍を圧倒!」

秀政は驚かない。

鉄甲船は初見殺しだ。

火矢も効かず、乗り込み戦も通じない。

佐久間はさぞ得意げに信長へ報告しただろう。

だが、忍びは続けた。

「……しかし二戦目以降、

村上水軍が“機動戦”に切り替え、

佐久間勢は――完封されました」

秀政は静かに頷いた。

重く、鈍く、潮流に弱い鉄甲船。

村上水軍が本気を出せば、潮と風を読み、

小早で死角を突き、夜襲で油を撒いて火を放ち、舵を壊す。

いくらでも翻弄できる。

「……やはり、そうなるか。」

佐久間は敗れた。

鉄甲船の価値は暴落する。

とんだ金食い虫だ。

信長も興味を失うだろう。

だが――

芋粥家の本命、フリゲートと香辛料貿易を隠す時間稼ぎには十分と言えた。

伊勢の海は静かだった。

だがその水面下では、既に次の海戦の形が変わり始めていた。