軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第7話 床が鳴る家は、安心する

「ここ、変な音する!」

別邸の廊下に足を踏み入れた瞬間、クラリスがぱっと顔を上げて叫んだ。

ギシッ。

床が鳴る。木が鳴る。家が鳴る。

王都の石畳では絶対にしない音だ。あちらでは靴音が響く代わりに、床は黙っていた。黙っている床の上では、人の視線だけがよく鳴った。

けれどここは違う。

床が、ちゃんと鳴る。

私は思わず笑いそうになって、口元だけで受け止めた。笑い声が大きくなると、娘が「笑っていい話なんだ」と安心できる。今はそれが欲しい。

「変な音、するね」

私はクラリスの肩にかけた毛布を整え、頬に触れた髪を指で払った。

「でもね、怖い音じゃないよ」

「こわくないの?」

クラリスはうさぎのぬいぐるみの耳を握り、まっすぐ私を見る。王都で「みんなの目がこわい」と言ったあの子が、今は音に興味を持っている。怖さが音に変わるだけで、ずいぶん楽になる。

「うん。家が『来たね』って言ってる音」

私はそう言いながら、自分の言葉に少し照れた。けれど、照れは悪くない。王都では照れすら舞台の欠陥になる。ここでは、照れは生活だ。

廊下の窓が大きい。ガラスの向こうに、広い空がある。王都の空はいつも「誰かの屋根の上」だった。ここは、空が先にある。

風が入ってきて、木の匂いがする。土の匂いもする。乾いた草と、遠くの水の匂い。香油の甘い匂いじゃない。布に染みついた社交の匂いじゃない。

ノエルが扉の横で鍵を確認しながら言った。

「古い別邸です。けれど、風が通ります」

淡々としているのに、言葉が少し柔らかい。ノエルだって王都の空気に疲れていたのだろう。疲れていても、仕事の手は止まらないけれど。

「王都より静かです」

「静かね」

私は頷いた。

静かすぎて、耳が自分の呼吸を拾う。王都の使いの笑顔が、まぶたの裏に貼りついている。門が背中に遠ざかり、車輪の音が少し軽くなったあの瞬間から、私は何度も息を整えた。

玄関の奥にいる使用人たちが頭を下げた。人数は少ない。余計な視線もない。余計な噂もない。ノエルが事前に人を選んだのだろう。選ぶのは彼女の仕事で、私はそのありがたさを噛みしめる。

「夫人、お疲れさまでございます」

年配の女性が低く礼をした。声が柔らかい。王都の礼儀は鋭く、ここは丸い。

「こちらこそ。急に来てしまって」

「いえ。別邸は、いつでもお迎えできますように整えております」

整える。大事な言葉だ。整っているから安心できる。整っているから、眠れる。

クラリスは使用人の礼もそこそこに、廊下の奥へ目を向けた。

「ねえ、お母さま。あっち、いっていい?」

目がきらきらしている。王都の照明じゃない、本人の光だ。

「うん。でも走るのは……」

と言いかけた瞬間、クラリスはすでに一歩踏み出していた。

ギシッ。

ギシッ。

床が鳴るたび、クラリスが笑う。

「ほら! また鳴った!」

まるで秘密の仕掛けを見つけた子どもみたいに、声が弾む。私はその背中を見て、胸の奥がほどけるのを感じた。

ノエルが私の隣で小さく言った。

「お嬢さま、元気です」

「……ええ」

私は頷く。元気という言葉が、今は宝物だ。

廊下の先に、いくつか扉が並んでいる。クラリスは一番近い扉に手をかけ、ぎい、と開けた。

「わあ!」

小さな客間。窓が大きい。カーテンが風でゆらゆら揺れる。埃の匂いが少しするけれど、嫌な匂いじゃない。生活を待っていた匂いだ。

「ここ、ひみつのへや?」

「秘密の部屋かもね」

私は笑って答える。答えながら、また床が鳴る。

ギシッ。

クラリスが足を止めて、耳を澄ます。

「いまの、きいた?」

「聞いた」

「家、しゃべる」

クラリスが真剣な顔をしたので、私は思わず笑いを漏らしてしまった。口元からふっと音が出る。クラリスがそれを見て、さらに笑う。笑いが伝染する。

王都では笑いは計算だった。ここでは笑いは呼吸だ。

クラリスは次の扉へ向かい、また開ける。今度は寝室らしい。ベッドがある。古いけれど、しっかりした木枠。窓が二つ。光がたっぷり入る。

「ここ、わたしの?」

クラリスが振り返る。目が大きい。

「そう。クラリスの部屋」

私は言いながら、胸の奥に小さな誓いが立つのを感じた。

この部屋には、怖いものを持ち込まない。

王都の話。舞台の話。照明の話。人の目。噂。丁寧なお願い。

そういうものは、この部屋の外に置く。

クラリスはベッドに駆け寄り、うさぎのぬいぐるみをぽん、と置いた。

「うさぎ、ここにすむ!」

「うん。ここがうさぎのお家」

私は毛布をそっと外し、娘の肩を撫でた。少し汗ばんでいる。走ったから。笑ったから。

走って笑って汗をかく。王都では許されなかったことが、ここでは自然だ。

ノエルが廊下の中央に立ち、短く息を吸った。次の瞬間、空気が変わる。戦場に入る人の気配だ。

「使用する部屋を決めます」

声が淡々としている。淡々としているほど頼れる。

「まずお嬢さまの寝室、夫人の寝室、居間。台所は本日中に使えるように。不要な部屋は閉めます。風の通り道を確保します」

私は思わず目を瞬いた。

「そんなに一気に?」

ノエルは振り向きもせずに答えた。

「一気にしないと、生活が始まりません」

正論だ。正論の速度が速い。ノエルの正論はいつも走っている。

使用人たちが「かしこまりました」と動く。ノエルの指示は短い。短いのに、全員が理解する。よほど普段から整えているのだろう。

クラリスが廊下を歩くたび、床が鳴る。

ギシッ。

「また鳴った!」

クラリスが笑う。私はそれを見て、胸の奥でつい内心のツッコミを入れてしまう。

(この子、空気読みすぎなうえに、音にも敏感すぎる)

けれど、その敏感さは悪いことじゃない。王都では敏感さが傷になった。ここでは敏感さが遊びになる。

ノエルが窓を開け、埃を追い出すように布を振った。風が通り、カーテンが大きく揺れる。家が息をした。

「ノエル、すごい」

クラリスが感心した声で言う。

「ノエルは、つよい?」

ノエルは手を止めずに答えた。

「強いです」

即答。揺れない。

「でも怒らない?」

クラリスが首を傾げる。

「怒る必要があれば怒ります。ないなら怒りません」

すごい。生活の哲学みたいだ。

クラリスは少し考え、うん、と頷いた。

「じゃあ、今はおこらない」

「はい。今は遠足です」

ノエルが「遠足」という単語をさらりと使ったのが可笑しくて、私は思わず笑ってしまった。ノエルの口から出ると、遠足が業務用語に聞こえる。

ノエルが床を見下ろし、淡々と言った。

「床が鳴るのは生きてる証拠です」

クラリスが目を輝かせる。

「いきてるの?」

「はい。古い家は、よく話します」

「しゃべる家!」

クラリスはうさぎを抱えて、床に耳を近づけようとする。

「クラリス、床にほっぺをつけるのは……」

私は止めようとするが、クラリスはすでに動いている。ほっぺが床に近づく。ギシッと鳴る前に、ノエルが無言でハンカチを一枚差し出した。

床に直接は、汚い。だからハンカチ。

言葉はない。行動が全部言っている。

クラリスは「ありがと」と言って、ハンカチの上にほっぺを乗せた。

「……きこえる」

「何が?」

「家の……うーん……」

クラリスは眉を寄せて、真剣に耳を澄ませる。

「……おなか?」

家のおなか。言い方が可愛い。私は笑いをこらえながら頷いた。

「そうかも。おなかの音かも」

クラリスは満足げに頷き、うさぎを抱き直して立ち上がった。

「じゃあ、家、おなかすいてる」

「……それは、私たちが暮らし始めれば満たされるわね」

生活って、そういうことだ。家の空腹を満たす。火を入れる。布を広げる。笑い声を入れる。

ノエルが台所へ向かう。使用人と手早く動き、お湯を沸かし始める。湯気の匂いが、屋敷に混ざる。お湯の匂いは、安心の匂いだ。

私はクラリスの寝室へ戻り、ベッドにシーツが整えられていくのを見守った。布が広がる音がする。ぱさ、と。布の音も生活の音だ。

クラリスは探検で疲れたのか、ベッドに腰を下ろし、うさぎを抱いたまま欠伸をした。

「ねむい……」

「眠っていいよ」

私は髪を梳き、前髪を整える。手つきが自然になる。王都では、手つきも演技になっていた。ここでは、ただの母の手だ。

「ここはね、怖いものを入れない部屋にする」

私は言った。誓いを言葉にすると、線が引ける。

クラリスが目をこすりながら聞く。

「こわいものって、なに?」

私は少しだけ迷った。正直に言うと、娘が王都を思い出す。思い出すと、また心が熱くなる。

「……怖い話」

私は短く言った。

「誰かの目とか、噂とか、そういうの」

クラリスはしばらく黙ってから、小さく頷いた。

「じゃあ、ここは、えんそくのへや」

遠足の部屋。いい言い方だ。

「うん。休む部屋」

私は笑って頷く。

クラリスはうさぎを枕元に置いた。うさぎは今日も会議に参加する。いや、もう会議ではなく、住民だ。

「うさぎ、ここにいる」

「うん。ずっとね」

クラリスが毛布に潜り込み、目を閉じる。寝息が少しずつ深くなる。浅い眠りではなく、沈む眠り。医師ハーゼが言った「眠りを深くする」。それがここで少しずつ始まっている。

私はその寝顔を見て、胸の奥が温かくなる。温かいのに少しだけ痛い。守れたことの安心と、守らせたことの負担が混ざる。母親の痛みだ。

ノエルが扉の外で小さく言った。

「夫人。お茶を」

「ありがとう」

私は廊下へ出た。ノエルが薬草茶を差し出す。ここでも薬草茶。誰の胃も守る万能の味方。

私は一口飲み、息を吐いた。

ふう。

息が戻ってくる。胸の上ではなく、胸の奥まで息が入る。

私は廊下の窓へ向かった。窓の外に空がある。広い。王都の空はいつも切り取られていた。ここは空が丸ごとある。

風が頬を撫でる。鳥の声がする。遠くで犬が吠える。生活の音が、風に乗って届く。

私は窓枠に手を置き、もう一度息を吸う。

吸って、吐く。

吐いた息が白くならない程度の冷え方。ちょうどいい。

私はふと、門のことを思い出した。

使いの笑顔。預かる、という言葉。封筒。咳。護衛の声。開門の音。

ぎい。

あの音がまだ耳の奥に残っている。

けれど今の音は、ギシッだ。床の音だ。家の音だ。生活の音だ。舞台の音じゃない。

私は小さく笑った。今度は目も少し笑う。

そのとき、背後で足音がした。使用人が控えめに立っている。手には小さな封が一通。

封蝋が赤い。形が整っている。王都の型だ。紙の匂いも違う。香油の匂いが、ほんの少しだけ混ざっている。

王都の空気が、一枚の紙になって追いかけてきた。

使用人が言う。

「夫人。お届け物が……」

私は振り返り、封を見た。胸の奥が一瞬だけ冷える。冷えるのは恐怖ではない。警戒だ。照明が遠ざかっただけで、消えたわけじゃない。

私は封を受け取らず、手を軽く上げた。

「それは……居間に置いておいて」

寝室には入れない。娘の部屋には持ち込まない。誓いを守る。線を守る。

使用人が頷き、封を抱えたまま下がる。

ノエルが私の隣に立った。封の赤を見て、目が少しだけ冷える。

「王都からです」

「ええ」

私は頷く。

怖いものを持ち込まない。娘の寝室に、私の胸の冷えを持ち込まない。

私は窓の外の空を見た。広い。広いけれど、空は空だ。どこにいても同じ空の下だ。王都もこの空の下にある。だから、完全に逃げ切れたわけじゃない。

それでも。

今、娘は眠っている。深く。

それが、勝ちだ。

私は息を吸って、吐いた。

吸って、吐く。

そして小さく呟いた。

「静養は、嘘にしない」

ノエルが静かに答える。

「はい。生活で証明します」

生活で証明する。いい言葉だ。舞台で争わない。生活で勝つ。

私はもう一度、空を見上げた。

次の夜、クラリスは夢を見るだろう。

王都の光が、まだ心の奥に残っているかもしれない。

それでも、床が鳴るこの家なら。

ギシッ、と生活が言ってくれる。

「大丈夫」と。