軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話 門の前、母は笑う

「……遠足……?」

クラリスの声は、眠りの底から浮かんできたみたいに小さかった。

私は毛布の端をそっと整え、娘の肩にかけ直す。暗い廊下は灯りを最小限にしてある。壁に揺れる影が、やけに長い。足音がひとつ鳴るたび、胸の中で心臓が返事をする。

どくん。

どくん。

静かにしなさい、と言いたくなるくらい自分の鼓動がうるさい。

「うん。休むための遠足よ」

声は柔らかく。笑顔は見せなくても、言葉の形だけで温度を渡す。

クラリスはうさぎのぬいぐるみを抱きしめたまま、まぶたをこすった。小さな指が、眠気と不安を同時に握っている。

廊下の先にノエルがいる。薄い灯りの中でも姿勢が崩れない。声を出さずに頷き、指で合図を送る。門へ。今。迷うな。

私たちは音を小さくして玄関へ向かった。荷物は最小。毛布、水、薬草茶、それから医師ハーゼの所見が入った封筒。重いのは荷物じゃない。紙の向こうにいる人たちの視線だ。

玄関の扉の向こうは、夜明け前の冷たい空気が待っている。

私は息を吸って、吐く。

吸って、吐く。

ハーゼに言われたばかりだ。あなたが倒れると、娘が崩れます。だからまず、息をする。自分のためじゃない。娘のため。

扉が小さく開く。

冷気が頬に触れ、眠気がすっと引く。空の端が白くなり始めている。夜明け前後。人の目が少ない時間。止められにくい時間。

のはずだった。

門が見えた瞬間、私は悟る。

人影がある。

いや、人影どころじゃない。門の前に、整った列ができている。

王宮の使い。徽章が見える。にこやかな顔も見える。

そして、その隣に公爵家の騎士。夫アデルの部下だ。彼らの鎧の光り方は、暗い時間帯ほど目立つ。門番の数も増えている。門は閉じてはいない。けれど、空気が閉じている。

舞台の照明が増えた。

私は歩みを止めない。止めたら、負ける。止めた瞬間、相手が「止まった」と判断する。

ノエルが私の半歩後ろで囁いた。

「待ち伏せです。計算通りに動いています」

計算通り。にこにこしている方ほど準備が早い。ノエルの言葉が頭をよぎる。

クラリスは私の腕の中で、うさぎの耳を握った。眠気が残っているせいで状況が理解できていない。でも、空気だけは感じている。背中が少し硬くなる。

私は娘の背中を撫でる。大丈夫。今は私が盾。

門の前で、王宮の使いが一歩前に出た。あの笑顔だ。礼儀正しく、柔らかいのに、逃げ道を塞ぐ笑顔。

「おはようございます、公爵夫人」

朝の挨拶が、こんなに冷たいなんて。

「お早いご出立で」

丁寧な声。丁寧な言葉。丁寧な圧。

私は微笑んだ。口元だけ。目は笑わない。目が笑うと、こちらの隙が増える。

「おはようございます」

礼を返す。礼は鎧。

「静養に参ります。空気のいい場所へ」

言葉を統一する。噂の枝を増やさないために。

使いは頷いた。

「承知しております。ですからこそ、お迎えに参りました」

お迎え。便利な言葉だ。迎える側が善意に見える。拒む側が冷たく見える。

使いはにこやかに言った。

「お嬢さまをお預かりします」

その瞬間、空気がひゅっと音を立てた気がした。

預かる。

抱くでも、守るでも、送るでもない。預かる。返す前提の言い方。所有をちらつかせる言い方。

私は笑ったまま、一歩前に出た。

娘を背に隠す形になる。母親の体は、こういうとき自然に動く。

「ご配慮ありがとうございます」

声は柔らかく。言葉は丁寧に。

「ですが、今は静養が必要です」

私は封筒を取り出した。所見が入っている。嘘ではない紙。娘の心の熱を守る紙。

「医師ハーゼの所見です。緊張が強く、睡眠が浅い。静かな環境での休養が望ましい、と」

使いの目が封筒へ移る。動きが一瞬止まる。どこまで押せるか、どこで引くかを測る目。

隣の公爵家の騎士が、微かに視線を逸らした。夫の命令で立っている。けれど彼の中にも、子ども相手に強く出たくない心はある。

私はそこに空気を作る。

娘の毛布を、ここで掛け直した。わざとだ。子どもの前で圧を上げる絵を、相手に見せるために。

「クラリス」

私は振り返って、娘の髪を整える。

「寒くない?」

クラリスは小さく頷いた。頷き方が、いつもより控えめだ。

(この子、空気読みすぎ。まだ朝です)

こんなときに、内心のツッコミが出る自分が可笑しい。

「……だいじょうぶ」

クラリスは言いかけて、口を閉じた。貴族口調が出そうになって飲み込んだ。昨日、母が教えた「言い方を選べる強さ」を、今ここで使わなくていい。

私は笑顔のまま、使いへ戻る。

「面会は短時間、人数制限。移動は負担の少ない形で」

医師の言葉を、私の言葉として繰り返す。盾は言葉じゃなく健康。だから医師の言葉を借りる。

使いは微笑んだまま頷いた。

「医師の診立ては大切でございます」

そして、にこやかに圧を上げる。

「ですが、王宮としてもご様子を案じております。お顔を拝見できれば安心できます。短時間で結構です。お嬢さまをお預かりし、すぐにお戻しします」

戻す。返す。預かる。言葉が全部、娘を物のように扱う。

私は微笑みの形を崩さない。

「恐れ入りますが」

礼儀の刃を磨く。

「今は、医師の所見を優先します」

使いの笑顔が、ほんのわずか硬くなる。

「公爵様のご意向は?」

公爵様。夫アデルを出してくる。家の中の裂け目を広げにくる。

私は心の中で舌打ちする。敵を増やすな。夫を敵にするな。娘の前で夫婦の火花は舞台だ。舞台は作らない。

私は丁寧に返す。

「公爵も、娘の健康を第一に願っております」

願っている、で押し切る。確信がなくても、言葉は先に世界を作る。

公爵家の騎士が一歩前に出かけた。止めようとする気配。命令があるなら止める。彼の仕事だ。

私はその瞬間、娘の方をもう一度見た。

クラリスはうさぎの耳を握りしめている。目が少し潤んでいる。こわい、と言ったあの目だ。

私は心の中で繰り返す。

静養は嘘にしない。

娘を疲れさせない。

舞台を成立させない。

そして、そのとき。

クラリスが小さく息を吸った。冷たい空気を吸い込んだせいか、喉の乾きのせいか、緊張のせいか。

「……けほっ」

咳。

小さな咳。

でも、その咳が場を揺らした。

続けてもう一度。

「けほ、けほっ」

クラリスが咳き込み、うさぎが揺れる。毛布の端が震える。ノエルが瞬時に動く。薬草茶の小瓶と水を取り出し、娘の口元へ差し出す。

「お嬢さま、こちらを。ゆっくり」

クラリスは目を瞬かせながら、少しだけ飲む。咳が収まらない。喉が熱くなったように見える。

使いの笑顔が止まった。

止まったのはほんの一瞬。けれどその一瞬で、空気が変わる。子どもの咳を前に強く言えない空気が、ここで生まれる。門番の視線が、使いから娘へ移る。公爵家の騎士も足を止める。

クラリスが申し訳なさそうに口を開きかけた。

「……ごめ、」

私はすぐにしゃがみ、娘を抱きしめた。

咳の音が胸に響く。小さな体が震える。私はその震えを、両腕で包む。

「怒られてもいい」

耳元で言う。はっきり。迷わず。

「あなたは悪くない」

クラリスの指が、私の服を掴む。

「……お母さま」

「うん」

「わたし、へん?」

「へんじゃない」

私は即答する。ここは即答しかない。

「今は休むのが仕事。遠足は、そのため」

クラリスがうさぎを抱いたまま、こくんと頷いた。咳が少しだけ落ち着く。

私は立ち上がり、使いへ向き直る。笑顔は戻す。戻さないと、こちらが攻撃に見える。攻撃に見えたら、相手は正義を纏える。

私は礼儀の鎧を着直す。

「ご覧の通りです」

静かに言う。

「子どもに今、移動を強いるのは負担です」

使いは口を開きかける。けれど言葉が出ない。今ここで強く言えば、周囲の目が悪者を作る。王宮は悪者になりたくない。悪者にならずに命令したい。だから丁寧に命令する。

でも今は、その丁寧さが効かない。

ここで一歩、こちらの駒を出す。

護衛が前に出た。ノエルが選んだ精鋭。寡黙で、目が冷たい。冷たいのに、娘を見たときだけ少し温度がある。

「責任は私が負います」

護衛の声は低い。短い。無駄がない。

「医師の所見に基づき、静養の移動を優先します。ここで止めるなら、正式な命として受け取りますが、よろしいですか」

言葉は丁寧だが、内容は重い。

正式な命。責任を相手へ渡す言葉だ。命令するなら、その命令を背負え。子どもの咳を前に、その責任を背負えるか。

使いの目が細くなる。笑顔を作ろうとして、作りきれない。

彼は一拍置き、そしてにこやかに戻した。

「……承知しました。ご無理のないように」

負けを認めない撤退の言葉。

「ただし、王宮としても案じております。お嬢さまのご様子が落ち着き次第、速やかにご連絡を。期限は変わりません」

釘は残す。照明の予告を残す。

私は頷いた。

「もちろんです」

もちろん、は便利な言葉だ。相手を安心させておいて、こちらの時間を作る。

ノエルが門番へ短く言った。

「開門を」

門番は一瞬迷い、それから門の閂に手をかける。

ぎい、と音がした。

その音が、今日いちばん甘い音に聞こえた。通る音。勝ちの音。

馬車がゆっくり進む。車輪が石畳を噛む。揺れが体に伝わる。

クラリスは毛布にくるまり、うさぎを胸に抱えたまま、私の腕に寄りかかる。まだ眠そうだ。眠そうなのに、少しだけ目が安心している。

門を越える。

門が、背中に遠ざかる。

朝の光が少しずつ増えていく。増える光が照明ではなく日の光だと分かるだけで、胸が軽い。

私はここで、ようやく息を吐いた。

長く、吐いた。

息を吐いた瞬間、肩の力が抜ける。抜けたぶんだけ、涙が出そうになる。でも泣かない。まだ。泣くのは領地で。生活の音の中で。

ノエルが向かいの席で淡々と言った。

「通りました」

私は笑った。今度は目も少し笑う。

「ええ。遠足よ」

クラリスが毛布の中から小さく言う。

「……おやつ……」

この子は本当に、空気を読みすぎる。今はおやつじゃないと言いたいのに、言えない。

(今それ言うの、強い。強すぎる)

内心でツッコミを入れつつ、口では優しく言った。

「うん。検討します」

「けんとう……」

クラリスが眠そうに繰り返し、うさぎの耳を頬に押し付ける。小さな咳はもう出ていない。

私は娘の髪を撫で、毛布の端を整えた。

「怒られてもいい。あなたは悪くない」

さっきと同じ言葉を、今度は自分のためにも言う。王宮に怒られてもいい。噂が育ってもいい。私は娘を守った。

馬車が速度を上げる。窓の外で、王都の門が小さくなる。石の壁が遠ざかる。音が変わる。空が広くなる。

生活の音が近づく。

領地の音が待っている。

私はもう一度、息を吸って吐いた。

影へ移るんじゃない。

休む場所へ行くんだ。

嘘じゃない静養を、始めるために。