作品タイトル不明
第93話 …の上のネガティビニスト
そして今、貴丸はぼそりと呟いていた。
「……どうしてこうなった」
しばらく沈黙。
それから、もう一度。
「どうして……こうなったんだよぅ……」
風がびゅうびゅうと吹き抜けていく。そのたびに、貴丸の髪がぐしゃぐしゃに乱れた。
周囲には、遮るものが何もない。視界の果てまで、ただ茫漠とした景色ばかりが続いている。
貴丸は膝を抱え込むようにしゃがみ込み、遠くを見つめた。
「なんでこうなるんだよ……」
背後から、呆れ半分の声が飛ぶ。
「自業自得じゃろうに……」
元伯だった。そのさらに後ろでは、三兵衛まで肩を震わせて笑っている。
だが貴丸は振り返りもしない。恨めしげな顔のまま、ずっと前方を睨んでいる。
もっとも、その顔にはなぜか白粉がところどころ残っていた。半分落ちてはいるものの、鼻の脇や耳元だけがまだ白い。
さらに髪も、中途半端に黄色っぽくなっており、潮風でぼさぼさになったせいで、余計にひどい有様だった。
正直、かなり気味が悪い。
少し前、一度だけ突然立ち上がり、ふらふらと舳先まで歩いていくと、貴丸は両腕を広げながら、「飛んでるわ!」と意味不明なことを叫び始めた――その瞬間だった。
どんっ、と船体が大きく跳ねる。外海の波をまともに食らったのだ。
「ぬぉっ!?」船がぐらりと傾き、貴丸の身体が危うく前へ流れかける。
慌てて舳先へしがみつき、顔を青くした。
後ろでは、元伯が真顔で言った。「……落ちれば助からんぞ」
その一言で、一気に真顔になった。
貴丸は無言で立ち上がると、何事もなかったような顔で、そそくさと元の場所へ戻ってきた。
それからまた、ずっとこの調子である。
「どうしてこうなった……」ぶつぶつ。
「なんでこうなるんだよ……」ぶつぶつ。
もはや半刻近く、この問答を繰り返していた。
その間にも、強い風が絶え間なく吹き続けている。ざぁん、ざぁん、と重たい音が響く。
時折、床板まで大きく揺れた。
そこでようやく。貴丸は、遥か彼方を見た。どれだけ目を凝らしても、陸はない。
三百六十度。あるのは波打つ外海だけだった。
ここは、すでに岩城沖(福島県と茨城県の境あたり)を越えた辺りだろうか。
船はもう陸奥沿岸を離れ、外海へ大きく出ている。今さら「降ろして」は、もう通じない。
貴丸は、舳先近くへしゃがみ込んだまま、もう一度だけ力なく呟いた。
「……どうしてこうなったんだよ……」
思えば――酒だった。全部、酒が悪い。
いよいよ明日、京へ向け出立という頃合い。その日の午後、桑折治部少輔忠家が大和田館を訪れていた。
当然である。此度の上洛では、桑折もまた相馬家の名代として、元伯たちと共に船へ乗り、京まで向かう予定だったのだ。
しかも、陸奥の武士が都へ上るなど、一生に一度あるかないかの大事である。
桑折の浮かれようは、もはや隠しようもなかった。
「いやぁ、ついに都ですぞ!」などと何度も言っている。
そして夜になれば、道中の無事を祈るという名目で、当然のように宴が始まった。
もっとも――この時代の船旅は、半ば命懸けだ。
時化れば沈む。病が出れば死ぬ。海賊が出れば終わる。ゆえに出立前の宴は、ただの酒盛りではない。海へ出れば、生きて戻れぬ者も珍しくない時代だ。
だからこそ、人は出立の前に酒を酌み交わす。
――次に会える保証など、どこにもないのだから。
その席で、桑折が感謝の証として持参したのが、奈良酒だった。しかもこれが、かなり良い品だったのである。
「此度のこと、まこと感謝しておりますぞ、慶久殿。貴丸殿も」
そう言いながら、桑折は何度も杯を注いだ。
「元伯殿も、京までは何卒よろしゅう頼み申す」
すでにかなり機嫌が良い。
さらに桑折は、出立前になってようやく、日向館の城取りの詳しい話を聞いたらしかった。
加えて、今回の上洛で、自分を盛胤へ強く推してくれた件。
それらを、相当にありがたく思っていたのである。
当然、貴丸は飲む。
すると桑折が、ますます喜ぶ。
「おお、いけますな! これは飲める口にございますな!」
そしてさらに注ぐ。流石に途中で、慶久が止めに入った。
「これ、貴丸。そなたはまだ童であろう。もう控えぬか」
だが、その頃にはもう遅かった。
「だいじょぶれす、おやじざまぁ……おら、のめるくちだべぇ……」
完全に出来上がっていた。しかも、最悪な方向で。
そこへさらに、日向館の城取りの話が始まる。
「いや見事!」「童とは思えぬ!」「まさに奇策!」
そこへ桑折の称賛が飛ぶ。
人の視線まで集まれば、もう駄目だった。その三つが揃った瞬間、貴丸の酔いは完全に“向こう側”へ突入した。
やがて貴丸が、すっくと立ち上がる。ふらふらと自室へ消えていった。
それを見て、慶久と琴は、ほっと息を吐いた。よかった。寝る気だ。
だが――甘かった。しばらくして。
再び広間へ現れた瞬間、場が静まり返る。
髪は、何故か鬱金で 金色(っぽく) に染められていた。しかも顔は真っ白である。
見た瞬間、嫌な予感しかしなかった。慶久と琴の脳裏へ、先日の“閻魔大王事件”が蘇った。
(まずい)慶久が反射的に立ち上がる。
だが貴丸の方が一瞬早かった。
ふらふら揺れながら、両手を広げて叫ぶ。
「今日は閻魔大王ではないぞ――我は夜摩天王で――」
その瞬間だった。
「貴丸」慶久が無言で捕まえた。
「ぬぉっ」そのまま、ずるずると別室へ引きずっていく。広間が静まり返った。
桑折と供回りの者たちが、固まりかける。
「……今のは」「なんだったのだ……?」
だが、その瞬間。琴が、すっと口を開いた。
「銀四郎殿。いつもの“あれ”を披露なされ」
「……あれ、にございますか?」
「ええ。ほら、あれです」
急に振られた銀四郎は、完全に困った顔になった。だが、琴の圧に逆らえる者など、この館にはいない。
銀四郎は、諦めたように立ち上がる。
「……で、では、貴丸様直伝、“尻文字”を……」
そして始まった謎芸によって、なんとか場は持ち直した。
もっとも。その頃、裏では別の難事が起きていた。
慶久が、完全に酔い潰れた貴丸を見下ろし、深々と溜息を吐く。そして後ろの修平へ言った。
「酔ったこやつは危険だ。何をしでかすか分からぬ。どこかへ閉じ込めておけ」
「……はぁ……どこへ入れましょうか」修平も疲れた顔で頷く。
慶久は辺りを見回し、指差した。
「……そこの木箱でよい」
それは元伯の衣装や旅支度が入った、大きな木箱だった。
海路用なので、水が入らぬよう頑丈に作られている。
「……息は出来ますよね?」修平は少し迷った。
「蓋を少し浮かせておけば死にはせぬ」
「では、そのように」修平は溜息を吐きながら、酔い潰れた貴丸を木箱へ押し込む。
貴丸は途中で「うへへ……夜摩天……」などと呟いていたが、すぐ寝息へ変わった。
修平は蓋を完全には閉めず、指二本ほど隙間を残したまま縄で軽く固定する。
「……朝方には起きるでしょう」そう言って、その場を離れた。
酔った貴丸は、その中ですやすや熟睡していたという。
そして翌朝。その木箱は、他の旅荷と一緒に“元伯様御荷”として運び出された。
元伯の荷は多い。衣装。文。贈答品。道中の備え。しかも出立の朝は、館中が騒然としていた。
誰も気づかなかった。
いや、正確には。気づく余裕がなかった。
修平は朝から、空然と共に養蜂の冬仕舞いに追われていたのである。
この時期を疎かにすれば、来春、蜜蜂が全滅しかねない。それほど重要な仕事だった。
一方、慶久もまた、桑折一行の見送りや出立準備で朝から駆け回っていた。
そもそも、貴丸が朝餉へ顔を出さぬなど日常茶飯事である。
誰も不思議に思わなかった。
そして――今に至る。
潮風が吹く。船がぎしぎし軋む。遠くで水夫たちの声が響いていた。
その中で貴丸は、遥か彼方の水平線を見つめながら、もう一度だけ呟く。
「……どうしてこうなった……」
ざぁん、と波が船腹を叩く。貴丸はぼんやりと海を見つめた。
そしてぽつりと呟く。
「……あれだな。もう俺、一生陸に降りれないのかもしれん」
「なんじゃそりゃ」元伯が眉をひそめる。
「なんかこう……千九百のように船の上で生まれて、船の上で育って、最後まで海で生きる、みたいな……」
「そなた、昨日まで普通に館におったじゃろうが。それにその数字はなんじゃ」
そして貴丸は、盛大に溜息を吐いた。「帰りたい……」
そして大和田館の昼過ぎ。厨で片付けをしていた敏が、ふと首を傾げた。
棚の端には、朝のうちに用意していた“ごちゃ握り”が、そのまま手付かずで残っていたのである。
「……あら。貴丸様、今日はまだ寝ておられるのかしら」敏は小さく瞬きをする。
昨夜はあれだけ飲んでいたのだ。
ただでさえ朝弱い日常の貴丸。昼まで潰れているくらい、別に不思議でもない。ましてや、普段も朝餉に間に合うことの方が珍しいくらいなのだ。
敏はそう呟くと、すぐに手元の仕事へ戻っていった。
一方その頃。お佳はお佳で、最初から貴丸の部屋へ近づく気がなかった。
酔っ払いの翌日の貴丸ほど面倒なものはない。
以前など、酔ってもいないのに、寝ぼけたまま布団の中から腕を伸ばし、掃除へ来たお佳の袖を掴み、そのまま布団へ引き摺り込みかけたことまである。
あの時は、本気で悲鳴を上げた。
以来、お佳の中では、“特に酒を飲んだ翌日の貴丸には近づかない”という鉄の掟が出来上がっていた。
「どうせ夕方になれば勝手に起きてくるでしょうし」
そう言って、お佳は最初から掃除を翌日へ回す気でいたのである。
だから、その日。
貴丸の部屋を訪れる者は、誰もいなかった。
そして――夕餉の刻まで。
館の者たちは、誰もまだ“本当にいない”とは思っていなかったのだった。