軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第91話 貴方と越えたい箱根越え

あと数日もすれば、一行は京へ向けて旅立つ。

館の中もどこか落ち着かず、人の出入りも増えていた。荷の確認、干物の見分、銭の勘定、打ち合わせ――普段は静かな大和田館も、この頃ばかりは朝から慌ただしい。

そんな中でも、貴丸だけは相変わらずだった。

その日も朝餉の刻に盛大に遅れて現れる。しかも今日は、髪がひどかった。

寝乱れて寝癖が全て前へ向かって突き出している。どうすれば寝ているだけでそうなるのか、誰にも分からない。

部屋へ入るなり、貴丸は半分閉じた目のまま席へ座り、「……おそだきます」ぼそりと声が揺れ堕ちる。

だが、もはや誰も突っ込まない。

慶久などは湯気の立つ汁を啜りながら、「今日は前へ向いておるのか」とだけ呟いている。

ちなみに、この館の朝餉は、武家としてはかなり違和感があった。慶久、元伯、琴、貴丸、敦丸。

さらにもはや半ば館の者のような希丸に、客人である空然。そして近頃では修平まで、自然と同じ席へ加わっている。

本来ならば、武家では身分ごとに席を分けるのが当たり前である。だがある日、貴丸が心底どうでもよさそうに言った。

「みんなで食べれば良ぐね?」

その一言で、慶久が「……まぁ、よかろう」と頷いてしまったのが始まりだった。

もっとも、お佳や敏らまで同席するとなると、「膳を置く最中も落ち着きませぬ」と必死に辞退したため、そこだけは別になっている。

この頃になると、乳母の直も幼い娘の栞を連れて朝餉へ顔を出すようになっていた。

直によく似て、栞もまた驚くほど大人しい。最近では、ようやく歩き始めた緋野の相手を、いつも静かにしてくれている。

その緋野も、今は小さな椀を両手で抱え、貴丸が以前口にした“離乳食”なるものを、口の周りを汚しながら一生懸命食べていた。

まさに愛らしさの盛りであった。

そんな穏やかな朝餉の最中だった。貴丸が焼き魚をほぐしながら、不意に口を開く。

「で、都には誰が行くん?」

その言葉に、慶久の箸が止まった。

「あ」どうやら失念していたらしい。

都行きそのものは決まっている。

だが、誰を名代として送り、誰が付き従うか、その肝心な部分が、慌ただしさに紛れてまだ固まっていなかったのだ。

すると貴丸が、味噌汁を啜りながら当然のように言う。

「爺様が行けば良くね?」

その言葉に、慶久は一瞬だけ黙り、それから静かに元伯へ向き直った。

「父上……都には伝もございましょう。それに道中、今川領へ立ち寄ることもあるやもしれませぬ。もし、お引き受けいただけるのであれば――」

実のところ、慶久は前から元伯へ頼みたいとは思っていた。

だが半年近くもこの地を空けさせることになる。年齢を考えれば、流石に負担が大きいのではないかと、言い出せずにいたのだ。

元伯はしばらく黙って汁椀を置き、それから静かに頷いた。

「……よかろう」

その一言に、慶久は目に見えて安堵する。

空然もまた、「それが最も穏当でしょうな」と静かに頷いた。

すると、そこへ。障子の向こうから、ぱたぱたと足音が近づいてくる。

「失礼いたします」

敏だった。軽く頭を下げると、やや困惑した顔で口を開く。

「銀四郎様をお訪ねのお客様がお見えです」

その言葉に、貴丸が首を傾げた。

「銀四郎?」

だが次の瞬間、何か思い当たったように、眠たげだった目が少しだけ開く。

そして、にやりと笑った。

「……もしかして、箱根の?」

やがて銀四郎が一度表へ下がり、しばらくして戻ってきた。食事の席へ入るなり、静かに一礼する。

「慶久様。以前、お話ししておりました箱根の知り合いが、一族を連れて参りました。石川市兵衛――という者にございます」

その名に、元伯がぴくりと眉を動かした。

「……市兵衛殿か」懐かしむような声だった。

銀四郎が小さく頷く。

すると元伯は、すぐに立ち上がる。

「まずは広間へ通せ。慶久、構わぬよな?」

その一言で、皆も朝餉を急いで口へ運び始めた

慶久、元伯、琴、空然。敦丸に希丸まで、ぞろぞろと席を立っていく。

だが、その流れの中で。貴丸だけは、すっと逆方向へ逃げようとしていた。

気配を殺し、廊下の角から自室へ消えようとする。

しかし。「……貴丸」琴の低い声が飛んだ。

ぴたり、と足が止まる。

振り返れば、母の細い目がじっとこちらを見ていた。貴丸は数瞬だけ固まり、それから露骨に嫌そうな顔をする。

「広間はそちらではありませんよ」

「……はい」諦めたように肩を落とし、とぼとぼ最後尾へ回った。

広間へ入ると、そこには十人ほどの一団が、深く平伏して待っていた。

中央には三十を少し過ぎたほどの男と、その妻らしき女。

その後ろには、十代半ばほどの姉弟が二人並び、さらに白髪混じりの老夫婦と、壮年の男女が控えている。

皆、旅塵にまみれていた。

衣は擦り切れ、袖口も泥で黒ずんでいる。脇へ揃えられた草鞋など、九十九折りの山道でも越えてきたのかと思うほど潰れていた。

長い旅だったのだろう。だが、その姿勢だけは崩れていない。

慶久が上座へ座り、元伯、琴、空然が脇へ並ぶ。

一方の貴丸はというと、入り口脇へごろりと腰を落とし、柱へ背を預けて足を投げ出した。

慶久の眉がぴくりと動く。しかし、客人の前で言うのも面倒だったのだろう。

結局、そのままにした。

やがて慶久が穏やかに口を開く。

「銀四郎――いや、盛影より聞いておる。父上とも旧知とか。そう固くならず話されよ。もう少しこちらへ寄られるが良かろう」

すると中央の男が、ゆっくり頭を上げた。

片目には布が巻かれている。さらに立ち上がる際、片足をわずかに引きずっていた。

「……相模国足柄下郡畑宿の者。石川市兵衛と申します」

声は低く、どこか掠れていた。

「元は盛影殿と同じく、忍び働きをしておりました。末端ではございますが、武士としても召し抱えられておりました」

そこで一度言葉を切る。

「されど戦にて、腕と足、それに片目を潰しまして」

見ると、右腕は肩から上がりづらそうだった。

「もはや戦働きも、忍び働きも叶いませぬ」

広間へ静かな空気が落ちる。

市兵衛は淡々と続けた。

「農も試しました。ですが足が利かず、腕も上がらぬ。鍬を振るうにも限りがございます」

「ゆえに木工を学ぼうと致しました。元々、手先働きは嫌いではございませなんだ」

だが、と苦く笑う。

「“座”の壁は厚うございました」

その場にいた者たちも、事情は分かる。この時代、職人には座がある。

土地ごとのしがらみ、親方筋、古くからの縄張り。よそ者が突然入り込み、仕事を得られるほど甘くはない。

まして市兵衛は元武士。露骨に追い払われはせぬ。だが、後ろ盾も師もなく、生業にできるほど甘い世界ではなかった。

「子もおります。食わせねばなりませぬ」

その言葉に、後ろの姉弟が小さく身を縮めた。

「その折、昔……元伯様より、“請戸へ来れば、何か働きもあろう”との言葉を頂いたのを思い出しまして。盛影殿もまた、陸奥へ移ると言っておりましたゆえ、それを頼りに参りました」

元伯は静かに頷いている。

「常陸までは船で。そこから先は歩きにございました」

老夫婦の脱いだ草鞋を見ると、はほとんど潰れていた。山道を越え、時に小夜時雨のような冷たい雨にも打たれたのだろう。

旅の湿気が、まだ衣へ染みついているようだった。

「最後は路銀も尽きまして……まこと、一縷の頼みにございました」

そう言って、市兵衛たちは再び深く頭を下げる。

慶久はしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。

「この地は木工職人が少ない。来てくれるだけでもありがたい」

その一言に、市兵衛の肩がわずかに震える。

「近隣に空き家がある。まずは、そこを使われよ」

瞬間、一族全員が深々と平伏した。

「ありがたき幸せにございます……!」

だが、その時だった。

市兵衛の後ろにいた壮年の男――弟らしき人物が、静かに口を開く。その目には、なお鋭さがあった。

「我ら兄弟、忍びの技そのものは、まだ多少残っております。命のやり取りのような働きは難しゅうございますが……道筋の探り、人の噂、荷の流れを見る程度なら、お役に立てるやもしれませぬ」

それまで柱へ凭れてぼんやりしていた貴丸が、ぴくりと反応した。そして、そのまま気の抜けた格好で口を挟む。

「ん? 情報……えぇと…探りが出来る人、欲しかったんだよね」

全員の視線が、貴丸へ向いた。だが本人は気にしない。

「銀……盛影さん一人だと、大変だし。そういうの出来る人、増えた方が良いと思う」

兄弟は一瞬、「誰だこの童は」という顔をした。

だが、「……はっ」とりあえず頷く。

すると今度は、貴丸が市兵衛へ視線を向けた。

「木工以外にも、なんか作ったりしたい?」

突然の問いに、市兵衛が少し驚く。

「……手仕事そのものは、好きにございます」

すると隣の妻――お容が、静かに頭を下げた。

「父が、元々指物師にございました」

戦で命を落としたらしい。

「幼い頃より、細工は少し習っております。もし許されるなら、夫を手伝いたく」

さらに市兵衛も続ける。

「船大工や、水車普請の手伝いなども、多少は。大した腕ではございませぬが……」

そこまで聞いたところで。貴丸が、ふむ、と鼻を鳴らした。ぽつりと呟く。

「……箱根だよね…確か、何かあったよなぁ……」

その一行がこの地へ至るまでの道は、決して平穏なものではなかった。

箱根の山道は、峠へと続く谷筋を遠くに見下ろしながら、風の群れが絶えず尾根を撫でていた。

谷あいの沢から立ちのぼる冷気は肌を刺すほどで、足元の木橋を渡るたびに、誰もが無言で歩みを確かめたという。

ときに道は急な斜面となり、倒木の続く山肌を縫うように進むほかなかった。苔むした岩肌は滑りやすく、一歩踏み外せば谷へ落ちかねぬほどの険しさである。

そうした山道の果てに、ようやく辿り着くのが、人の気配をひそめた山間の隠れ里のような集落であり、そこが市兵衛たちの拠点であった。

あれこれ面倒を嫌がる時の顔ではない。その顔を見た慶久は、なんとなく察する。

――また何か始まる。

そして大抵、こういう時の貴丸は、ろくでもない。

まるで、山が静かに鳴る前のように。