作品タイトル不明
第90話 志乃と源吾の到着
準備は、着々と進んでいた。
京へ向かう荷の選別。請戸へ運ぶ品の仕分け。船へ積む塩鮭や燻製鮭や干物の確認。さらに蜂蜜や、たんきり飴の包み方まで、館の中はここ数日ずっと慌ただしい。
そんな中――先ほど、久秀が相馬から戻り、そのまま連れられて志乃と源吾が館へやって来た。
二人とも、見るからに緊張していた。持ち物といえば、小さな風呂敷包みが一つずつだけ。
それ以外には、何もない。そのまま二人は、慶久のいる座敷へ通された。
部屋へ座った瞬間から、もう肩が固まっている。
志乃も源吾も、極度の緊張で身体が強張り、まともに声も出せない。こうした武家屋敷の奥へ通されること自体、初めてなのだろう。
そして、上がる前に足は拭いたはずだった。だが、土仕事と窯仕事に染み付いた汚れは完全には落ちなかったらしい。
床の縁へ、うっすら黒い足跡が残っていた。それに真っ先に気づいたのは志乃だった。
「あっ……」
小さく声を漏らした瞬間、顔がみるみる赤くなる。そのまま正座した姿勢で、深々と頭を下げた。源吾も慌てて続く。
「お、お屋敷を汚してしまい、申し訳ありません……」
震える声だった。だが慶久は、気にした様子もなく言う。
「気にするな。そんなもの、拭けばすぐ綺麗になるからな」
そう言ってから、足跡へちらりと目を向けた。
「その足跡は、お前たちが精一杯働いてきた証だろう。ならば恥じることはない」
そして少しだけ口元を緩める。
「……まあ、毎度毎度付けられても困るがな」
その冗談めいた言葉に、座敷の空気が少しだけ緩んだ。志乃も源吾も、ようやく小さく息を吐く。
そんな二人の後ろで、貴丸だけが柱へ寄りかかり、手足をだらんと投げ出したまま話しだす。
「今日から、久秀おじさんのところで、しばらく焼き物に使えそうな土を探してみてくれ。粘土なのか、陶石なのかは分からないけど、たぶん、どこかにあると思うからさ」
すると、側に控えていた琴が不思議そうに首を傾げる。
「貴丸。なぜ、そのような土があると思われたのですか?」
「なんとなく?」貴丸は、いつものように答えた。
それを聞き、慶久が露骨に苦い顔をする。
「毎度毎度、その“なんとなく”とは何なのだ……」
そう言いながら額を押さえた。
「……だが、それで実際うまくいっておるから始末が悪いのだが……」
最後の方は、ほとんど呟くような独り言だった。
その横で、久秀へ向き直った貴丸が言う。
「久秀おじさん。焼き物の方、手伝ってね。きっと小野田の家にも領地にも役立つと思うから」
久秀は静かに頷いた。
すると志乃と源吾が、改めて深く頭を下げる。
「誠心誠意、大和田様のために働きます」
先ほどまでとは違う声だった。怯えだけではない。居場所を得た者の声だった。
その時だった。たまらず、といった様子で琴が口を開く。
「志乃さん」
「は、はい」
「今、蒸し風呂を温めています。まずは入りなさい」
志乃が目を丸くする。
琴は穏やかに続けた。
「着替えも用意します。そのあと、何か食べてから久秀殿のお屋敷へ行きなさい。源吾殿の分も用意いたします」
そして少しだけ声を潜める。
「久秀殿の奥方の蒼様はおっとりした良い方ですが、身なりには厳しいお方です。いつも身綺麗にしておきなさい」
最初、志乃は何を言われたのか分からない顔をしていた。だが、それが“気遣われている”言葉なのだと理解した瞬間――
その顔へ、ふわりと笑みが浮かんだ。
「……はい」
志乃は、今度は先ほどよりずっと自然に頭を下げたのだった。
そこへ、敏が戻ってきた。「蒸し風呂の支度が整いました」
そう告げると、志乃を連れて奥へ下がっていく。慣れぬ屋敷に緊張していた志乃は、何度も頭を下げながら敏の後を追っていった。
一方、その場に残された源吾は、どうして良いか分からぬ様子で所在なげに座っている。
武家屋敷など、まともに入ったことすらないのだろう。片手を膝に置いたまま、背筋だけがやけに固い。そんな源吾へ、貴丸がそのままのだらりとした姿勢のまま声を掛けた。
「源吾さん」
「は、はい!」
「時々でいいからさ。久秀おじさんと志乃さんを連れて、この館に来てよ」
「え……?」
「十日に一度くらいかな。その時、母上か、誰かに文字とか算術とか習えばいいよ」
源吾は目を瞬かせた。
「も、文字を……ですか?」
「うん。きっと役に立つから」
この時代、文字と算術を扱えるだけで、できる仕事は大きく変わる。まして商いと焼き物を扱うなら、なおさらであった。
だが、源吾は恐縮したように深く頭を下げる。
「そんなことまで世話になってしまって……本当にありがたいことでございます……」
すると貴丸は、きょとんとした顔で言った。
「え? だって、源吾さんが勉強して、文字とか算術できるようになったら、その分、おれの代わりができるようになるってことじゃん」
「は?」
「そうしたら、おれ、もっと楽できるでしょ?」
その瞬間、慶久と琴が同時に呆れた顔をした。
「……お前は本当にぶれぬな」
慶久が半ば諦めたように額を押さえる。
琴も深々と溜息を吐いた。
「普通、“自分のため”とか、“皆のため”とか言うところではないのですか……」
だが、貴丸は首を傾げるだけだった。
「結果的には領のためになるから一緒じゃん?」
その理屈なのか屁理屈なのか分からぬ言葉に、琴はとうとう何も言えなくなる。
そのやり取りを、お佳は静かに見ていた。以前のような冷えた視線ではない。
今回の件は、すでに耳へ入っている。
志乃と源吾――陶工の家で、身寄りもなく、下働きとして粗末に扱われていた二人を、貴丸が城取りの褒美として貰い受けたことも。
思えば、修平とお佳自分の時もそうだった。あの時、咄嗟に「この者たちを連れて行く」と言ってくれたのは、他でもない貴丸だった。
確かに、普段は寝転がってばかりいる。妙なことばかり言う。だらしもない。しかも、何故か人の恥ずかしい場面に限って、よく遭遇する。
だが――。根の部分では、悪い人ではないのかもしれない。
お佳がそんなことをぼんやり考えていると、貴丸がふらりと立ち上がった。
「じゃ、あとはよろしくー」
それだけ言って、部屋を出ようとする。
その瞬間だった。勢いよく襖が開く。
「貴丸ー! ずるい! おれも燻したっていう鮭、食べたかったのにー!」
元気いっぱいの声と共に、希丸が飛び込んできた。
そう叫びながら、そのまま貴丸へ飛びつく。だが、普段からごろごろしてばかりの貴丸である。
当然、希丸を受け止めきれるはずもなかった。
「うおっ」
そのまま体勢を崩し、後ろへよろける。
そして。
どん。偶然、その後ろにいたお佳へ、そのまま倒れ込んでしまった。
「ひやぁ――」
お佳は反射的に目を閉じる。
次の瞬間。柔らかな何かが、唇へ触れた。一瞬、時間が止まる。
お佳が恐る恐る目を開けると――。
目の前に、貴丸の顔があった。しかも、やけに近い。
「…………」
「…………」
数瞬の静寂。次の瞬間、お佳の顔が一気に真っ赤になった。
「――っ!!」
勢いよく起き上がる。
そして、お佳の顔が一気に真っ赤になった。
「――っ!!」
勢いよく飛び退く。そのまま混乱したように、貴丸の胸を思いきり押した。
「な、ななな、何してるんですか!!」
貴丸は押し返され、そのまま尻餅をつく。
「いや、違うっ――」
「違わないです!!」
お佳は耳まで真っ赤にしたまま、そのまま逃げるように部屋を飛び出していった。
部屋には、奇妙な沈黙だけが残る。慶久と琴は、ぽかんとした顔で固まっていた。
一方で、原因を作った希丸はというと。
「希丸!! だから屋敷の中を走るなと言っておるだろうが!」
直後、久秀に首根っこを掴まれていた。
「だ、だってぇぇ! 俺食べてないし!」
その様子を、元伯だけが腹を抱えて笑っている。
「はっはっは! これは傑作じゃ! 若いのう!」
「笑い事ではありません!」琴が即座に怒鳴った。
一方、貴丸だけが納得いかない顔で呟く。
「……いや、おれ悪くなくない?」
だが、その抗議に同意する者は、誰一人としていなかった。
そして、せっかくお佳が貴丸を少し見直しかけていたにも関わらず――。
翌日からも、お佳の貴丸を見る目は、結局いつも通りだったのである。