作品タイトル不明
第89話 大忙し
そして翌日から、貴丸ですら自ら動かざるを得ぬほどの忙しさとなった。
貴丸は歩きながら、まるで呪文のように呟いている。
「未来への投資、未来の“食う寝る遊ぶ”のための投資だ。いつやるのか、今でしょう……。そうだ、そうなんだ、陽はまたのぼるんだよ……」
もはや祈祷にも似た反復であった。
その先頭を貴丸が歩き、修平がそれに続く。やや離れてお佳、助九郎、希丸、敦丸が配置され、さらに空然もいる。
皆、背の籠を背負っている。そのさらに外側を銀四郎が周囲を警戒しながら進んでいた。
森の中へ入ると、貴丸は記憶を頼りに次々と指を差していく。
「これは皆知ってるよな、ヨモギンだ」「あれは……蜜の匂いがするから、多分センブリンだな」「こっちはゲンノショウコン」「これは匂いで分かる、ドクダミンだ。くっさいなぁ」「そしてこれは……たぶんクズンだ。希丸、それ根を掘ってくれ」「あ、助九郎、マツヤニンも集めといてね」
次々と迷いなく指示が飛ぶ。その様子を見ていた空然が、ふと首を傾げた。
「先ほどから、なぜ名の末に“ン”を付けておられるのですか」
貴丸は一瞬だけ間を置き、あっさりと言う。
「なんとなく?」
空然は小さく息を吐いた。
――またか。もはや驚くほどのことでもない、と言わんばかりの諦観である。
一体、その”ン”に何の意味があるかなど、誰も分からない。
そのまま貴丸は修平へ視線を向けた。
「炭焼きの爺さん、いつも青(藍)の着物を着てるだろ。確か…あの“ナントカえもんさん”」
修平は少し考え、小さく頷く。
「あぁ、 虎衛門(とらえもん) 殿ですね」
「その人に伝えてくれ。炭を焼いた後に出る、煙を冷やしたときの茶色い汁を集めておいてほしい。今後は高値で買い取る、って」
空然がすぐに反応した。
「そのような、炭の残りの汁を何に用いるのですか」
貴丸は少し考え、言葉を選ぶように答える。
「あれは……使い道はいろいろあるんだよ。殺菌……えぇと、悪い虫や、目に見えぬ何かを抑える。匂い消しにもなるし、薄めて風呂に使えば、体にも良い……はず」
そして、思い出したように続ける。
「煙で着物を燻すと虫が寄らないだろ? あれを水に移したようなものだと思えばいいよ」
空然は納得したように頷いたが、その表情にはまだ疑問が残っていた。
自らも学を積んだ身でありながら、この陸奥の寒村の童が口にする知識の多さには、どうしても釣り合いが取れない。
それを察してか、察していないのか。貴丸はさらに周囲へ話しかける。
「今日からこの草は、どんどん集めて納屋に運んでね。乾かして蓄えてほしいんだ。これは銭になるからね。あとでみんなに銭を分けるよ」
その言葉に、希丸たちの目の色が変わった。
先ほどまでの遊び半分の手つきは消え、まるで宝を拾うかのように草へ群がっていく。
貴丸はさらに助九郎へ言う。
「この草を専門に集める者を、領で雇うつもりだ。それのまとめ役を助九郎に任せたい。銭になる仕事だ、しっかりやってね。これは蔵がいくつも建つ仕事になるよ」
「……えぇっ!」
助九郎の声がわずかに上ずる。
銭になる、という言葉だけで人の目の色は変わる。それを見届けると、貴丸は軽く手を振った。
「あとは任せた。じゃね?」
そう言い残し、その場を離れる。
お佳はその背を冷ややかに見送ると、小さく舌打ちをした。
その音だけが、森の湿った空気に短く残った。
そして貴丸は、思い出したように、くるりと敦丸へ振り返った。
「敦丸。木地師の“うっかり者の八兵衛さん”のところへ行って、木を削った屑を集めてきてくれ。できれば桜がいいけど、他の木屑でも構わないよ」
すると敦丸が、即座に眉をひそめる。
「……八兵衛さん、別にうっかり者じゃないけど……」
だが、貴丸はもう聞いていなかった。
「おれは先に龍長おじさんの家に行ってるから。頼んだぞ」
それだけ言い残し、さっさと歩き出してしまう。
敦丸は「なんで毎回変な呼び名付けるんだよ……」とぶつぶつ文句を言いながらも、結局は駆け足で木地師の家へ向かっていった。
一方、貴丸はそのまま大和田館へ戻る。
館へ入ると、慶久はちょうど机へ向かい、書き付けをしている最中だった。だが貴丸はそんなことは気にしない。
「親父様、ちょっと来て」
「今忙しいのだが――」
「いいからいいから」半ば無理やり腕を引っ張るようにして連れ出す。
さらにちょうどその時、館の門をくぐろうとしていた八田屋孝之助の姿を見つけると、今度はそちらへ向かっていった。
「孝之助さんも来て」
「……は?」
事情も説明されぬまま、八田屋まで引っ張られる。近頃、八田屋が大和田館へ顔を出すことはかなり増えていた。
請戸漬けに加え、胡麻、木綿、蜂蜜――次々に新しい話が出てくる以上、商人としても放っておけないのだろう。館の者たちも、もはや八田屋の姿を見ても驚かなくなっていた。
慶久は歩きながら、露骨に嫌そうな顔をしていた。
「……で、今度は何をするつもりなのだ」
貴丸は振り返りもせず答える。
「鮭」
「は?」慶久が眉を寄せる。
それを見て、貴丸は当たり前のように続けた。
「鮭の長く持たせる方法って、今のところ、だいたい塩漬けくらいでしょ?」
慶久が渋々頷く。「……まぁ、そうだな」
「だから、新しい別の長く持たせる方法を試すんだよ」
その瞬間、孝之助の目の色が変わった。
「……ほう?」完全に商人の顔だった。
貴丸はその反応に気を良くしたのか、そのまま続ける。
「もし上手くいけば、もっと長く持つかもしれないし、“味変”にもなるかもしれない。旅人とか、船乗りとか、兵糧にも使えるかも」
「それは……確かに面白そうな話ですな」孝之助は顎へ手を当てた。
鮭は足が早い。獲れる時期には大量に揚がるが、それゆえに保存が難しい。塩漬けにして持たせる方法はあるものの、それ以外にも長持ちさせる術があるのなら、海産物を扱う商人にとっては大きい。
「ところで、その“あじへん”とは?」
「あぁ、味が変わるって意味」
貴丸が軽く答えると、孝之助は「なるほど」と頷いた。だが、慶久だけは終始、嫌な予感しかしない顔をしている。
「……また妙なことを始める気だな」
「失礼な。今回はちゃんと実験だよ」
「お前がそう言う時は、大抵ろくなことにならぬ」
貴丸は聞こえぬふりをした。そうして一行は、そのまま龍長の家へ向かっていったのである。
そうして龍長の家へ着く頃には、敦丸も来ていた。肩へ担いだ大きな袋には、木屑が山ほど詰め込まれている。
「持ってきたよ。桜も結構あったよ」
「えらいえらい」
貴丸は実に適当に褒めながら、敦丸の頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
敦丸は嫌そうな顔をしたが、振り払わない。
そして貴丸は、さっそく龍長へ声を掛ける。
「龍長おじさん、漁で使う木箱貸して。それと、今朝上がった鮭ある?」
龍長は面白そうに目を細めた。
「ちょうど初鮭が少し入ったところだぞ」
そう言って持ってきた鮭は、鱗に銀色が光り海の匂いを強く漂わせている。
龍長は慣れた手つきで鮭を開き、半身へ下ろしていった。骨へ刃が当たる乾いた音が、軽快に響く。
その間に、貴丸は借りてきた鍋を地面へ据え、敦丸の集めてきた木屑を放り込んでいく。
火を付けると、やがて白い煙がもくもくと立ち始めた。
「お、やっぱ桜いい匂いだな」
どこか満足そうに鼻を鳴らす。さらに木箱の上へ細い棒を渡し、糸で鮭を吊るした。その下へ、煙を上げる鍋を置く。
最後に木箱を閉じると、簡素ながら奇妙な仕掛けが出来上がった。
慶久が腕を組み、露骨に怪訝そうな顔をする。
「……それだけか?」
「うん」貴丸は箱をぺたぺた触る。ほんのり温かい。
「燻し方には、冷たいのと熱いのがあるんだよ。今やってるのは熱い燻し。もうちょっと長くやって、それを何回か繰り返して、最後に干せば、かなり長く持つと思うよ」
そこまで言うと、貴丸は満足したように、その場へごろんと寝転がった。
龍長が豪快に笑う。
「お前さん、本当に若様なのかよ?」
一方で、慶久は露骨に嫌そうな顔をしている。敦丸も真似して寝転がろうとしたが、慶久の視線へ気づいた瞬間、ぴたりと止まった。
そのまま何事もなかったような顔で、近くの木箱へ腰掛ける。
八田屋だけは、腕を組みながら興味深そうに木箱を眺めていた。
やがて半刻ほど経った頃。寝転がっていた貴丸が、ふいに起き上がる。
「……そろそろかな」
そう言って木箱を開けると、中から煙が大量に吹き出すことはなかった。だが代わりに、辺りへ香ばしい匂いが広がる。
木の香り。魚の脂。煙の匂い。それらが混ざり合い、強烈に腹を刺激してきた。
龍長の目が変わる。「……こりゃあ」
貴丸は龍長から山刀を借りると、燻された鮭を薄く切った。
表面は色づき、脂がうっすら浮いている。
「ほれ。まず食ってみ」
全員が、半ば疑いながら口へ運ぶ。最初に声を上げたのは敦丸だった。
「うまっ!」
その声に、龍長も笑う。
「なんだこりゃ。香りが全然違うぞ」
慶久も慎重に匂いを嗅いでから口へ運び――わずかに目を見開いた。
「……香ばしいな。魚臭さもかなり薄まっておる」
八田屋も感心したように何度も頷く。
「これは面白い味ですな……」
すると貴丸が、得意げに言った。
「塩を強くして、もっと何度も燻して干せば、多分、冬なら春くらいまで持つよ。都へ持っていけるくらいにはなると思う」
その瞬間、慶久の顔が変わった。
「……売れるな、これは」
武士ではない。完全に領主の顔だった。
「しかも、塩が少し減らせるかもしれんな」
「まあ、長く持たせるなら塩は強い方がいいけどね」
貴丸がそう付け足すと、八田屋が大きく頷く。
「ですが、これは新しい。間違いなく売れます」
その目は、完全に商人の目だった。
すると貴丸は、さらに続ける。
「これ、鮭だけじゃないよ。肉でも、貝でも、漬物でも多分なんでも燻せる」
「ほう」
「燻すと長持ちするし、匂いも変わるからね」
八田屋の鼻息が荒くなる。
「……これは、面白い」
完全に商機を嗅ぎつけていた。
貴丸は、そのまま慶久へ振り返る。
「都行きの船が出るまで、あと十日くらいでしょ? その間に、もっと燻せる人を増やしたいな」
すると八田屋が即座に言った。
「ならば、うちからも手の者を出しましょう。もちろん、口の堅い者を選びます」
龍長も大きく頷く。
「おれの嫁や、他の漁師の女房衆にも手伝わせよう。魚が塩以外でも長く持つってのは、ありがてぇからな」
その言葉に、慶久も静かに頷いた。
魚は腐る。だからこそ、“腐らぬ”というだけで価値になる。保存できるということは、それだけで銭になるということだった。
そして、その空気の中でただ一人。貴丸だけが、ごろりと寝転がったまま、ぼそりと呟いていた。
「未来への投資……未来の食っちゃ寝生活のための投資……」
だが、その呟きを聞いている者は、誰もいなかった。