作品タイトル不明
第69話 戦終わって相馬では
相馬中村城の奥、厚い板戸に囲まれた執務の間は、昼なお薄暗く、外の春の気配とは切り離されたような静けさを湛えていた。
障子越しに差し込む光は柔らかいが、その下に集う者たちの顔色は一様に重い。
畳の上に据えられた地図と文書が、この場がただの評議ではないことを物語っていた。
相馬家の十三代当主盛胤は上座に座し、わずかに背を預けたまま、目の前の家臣たちを順に見渡していた。
岡田安房守義胤、木幡継清、水谷胤重、泉田胤清――いずれも相馬を支えてきた重臣たちであり、その脇にはまだ元服前の嫡男、彦法師丸が控えている。
誰もが口を開かぬまま、空気だけが張り詰めていた。
やがて、盛胤が低く口を開く。
「……伊達からの使い、改めて申せ」
その一言に、岡田が静かに一歩進み出た。声は抑えられているが、言葉の一つ一つに重みが乗る。
「は。伊達稙宗、室町より従四位下左京大夫任官は先年のことでご存知かとは思いますが、この度、奥州守護に任ぜられたとの由にございます」
言葉が落ちた瞬間、わずかなざわめきが走る。だが、それもすぐに押し殺された。
説明するまでもない。奥州守護――それは単なる名誉ではない。軍事と統治の正統を握る、名実ともにこの地の頂に立つ証であった。
盛胤は、指先で膝を軽く叩きながら続ける。
「……それで、我らへの沙汰は」
岡田は一瞬だけ視線を落とし、それから顔を上げた。
「戦か、婚姻か――いずれかを選べとのことにございます」
短い。だが、それ以上に明確な言葉はなかった。室内の空気が、さらに重く沈む。
相馬の現状は、誰もが理解している。
相馬の兵は多く見積もっても二千から三千、騎馬も三百に届くかどうか。
それに対し伊達は一万を超える兵を動かし、千騎に迫る騎馬を揃える。
数だけではない。大崎(現:宮城県北部)、葛西(現:宮城県北東部〜岩手県南東部)、蘆名(現:福島県会津地方)、田村(現:福島県中央部)、亘理(現:宮城県南部)、岩城(現:福島県浜通り南部〜中部)――相馬の周囲はすでに伊達の縁戚や利で結ばれ、その網の中に組み込まれている。
孤立。その言葉が、誰の口からも出ぬまま、この場に沈んでいた。
盛胤はわずかに目を細める。
「……官位も、兵も、すべてで上を行くか」
誰にともなく呟かれたそれに、水谷が低く応じる。
「正面から当たれば、持ち堪えるのがやっとかと」
「やっと、か」
盛胤は苦く笑う。その声音には、自嘲と苛立ちがわずかに混じっていた。
本来であれば、相馬はここまで追い詰められる家ではなかった。だが現実は違う。
盛胤の官位は自称、且つ同盟は薄く、周囲はすでに伊達に傾いている。
そして、その伊達から突きつけられた最後通牒。
戦うか、従うか。
沈黙が続く中、ふと障子の外で風が鳴った。晩夏の爽やかな海風であるはずが、この場では妙に湿って響く。
彦法師丸が、わずかに拳を握る。その小さな動きすら、この空気の中でははっきりと感じられた。
盛胤はそれを見て、ゆっくりと息を吐く。
「……選ばねばならぬ、か」
その声は低く、だが逃げ場のない現実を受け入れる響きを持っていた。
この決断ひとつで、相馬の行く末は決まる。
誰もがそれを理解していた。
そして――ここに一通の文が届き、この場を動かした。
城の奥、執務の間に差し出された一通の文は、静謐を破るにはあまりにも小さく、だが確実に場の空気を変える重みを持っていた。
差し出された文を受け取った泉田胤清は、いつもの落ち着きを保ったまま目を走らせていたが、次の瞬間、その手がぴたりと止まる。
泉田胤清は標葉郡泉田郷(双葉郡浪江町大字北幾世橋付近)を預かり、請戸のすぐ北――大和田の動きを日常として見続けてきた男である。
もとは滅びた標葉氏の流れを汲み、相馬に降って「胤」の一字と繋ぎ駒の紋を許された、その経緯ゆえに、この地の機微には誰よりも敏い。
その胤清が、文に目を落としたまま動きを止めた。
一行、二行――読み進めるごとに、指先がわずかに震えた。
そして。「……な、なに……!」
押し殺したはずの声が、抑えきれずに漏れる。
その異様に、居並ぶ重臣たちの視線が一斉に集まった。盛胤がゆるやかに顎を引き、低く促す。
「申せ、胤直」
促されてもなお、胤清はすぐに言葉を出せなかった。喉を一度鳴らし、ようやく文を握り直して口を開く。
「葉月晦日頃(八月末頃)――大和田殿の嫡男が、わずか十名ばかりを率い、富岡の日向館を……乗っ取った、との由にございます」
ざわり、と空気が揺れた。
誰もが一瞬、意味を測りかねる。だが、言葉の形が遅れて理解に追いついたとき、場は一気に騒然とした。
「……城を、十人で?」「戯言であろう」「いや、泉田殿がそのような顔で申す以上――」
押し殺した声が交錯する中、ただ一人、彦法師丸だけが耐えきれずに立ち上がっていた。拳を握りしめ、肩を震わせる。
「……ふざけるな」
低く、しかしはっきりとした憎しみを帯びた声。
一方で、盛胤は違った。
「……ふむ」
小さく息を漏らし、その口元に、抑えきれぬ愉悦が滲む。
――やりおったか。
あの時、軽口のように城取りを口にした小僧。その場にいた誰もが、所詮は子供の意地と笑っていた。
来春には親子で雁首を揃えて、詫びに来るだろうと半ば見世物のように待っていたのだ。
それを。「……本当に、やりよったか」
思わず、笑みが深くなる。
童が城を焼いただけでも異質だった。それが今度は城を落とす。
しかもわずか数ヶ月で、有言実行どころか、常識そのものを踏み越えてくる。
――怪物…か。
盛胤の内で、その評価は確信へと変わっていた。
その笑みを見た彦法師丸の目に、露骨な苛立ちが宿る。
自分が軽んじた相手が、それを遥かに上回る形で応えてきた。その事実が、胸の奥を焼く。
「……あり得ぬ」
吐き捨てるような言葉。しかし、その声には焦りが混じっていた。
盛胤が視線だけで促すと、胤清は続けた。
「詳細は未だ不明にございますが……城は一日で落ち、富岡殿をその場に城へ迎え入れたとのこと。貴丸殿自らが落城を認めさせる一筆を取り……さらに」
一度、言葉を切る。
「その場で、富岡殿の御息女との婚約を取り決め――そのまま城を返し、大和田館へと引き上げた、と。尚且つ、その戦にて死者は……なし」
沈黙。先ほどとは質の違う、重たい静寂が落ちた。
「……返した、だと」「報酬もなくか?」「婚約があるにせよ……釣り合わぬ」
誰かが呟き、それに別の声が重なる。
「そもそも……どうやって一日で落としたのだ」「それに――死者が、出ておらぬと申したか?」
胤清はゆっくりと頷く。
「はい。大和田、富岡、双方ともに――戦死者は一人も出ておらぬとのこと」
今度こそ、場は完全にざわめきに包まれた。
城を落としながら、誰も殺していない。
奪いながら、奪っていない。
戦をして、戦っていない。
――そんなものが、成立するのか。
誰もが理解できず、それでも事実として突きつけられる。
盛胤はその様子を見渡しながら、ゆっくりと背を預けた。
「……面白い」
ぽつりと零す。
それは賞賛とも、警戒ともつかぬ声音だった。
「城を落とし、婚姻を結び、なおかつ血を流さぬ……」
指で机を軽く叩く。
「やはりただの小僧ではなかったな」
その一言で、場の空気が締まる。やがて、誰からともなく口火が切られた。
「呼ぶべきですな」「子細を確かめねばなりませぬ」「褒美と称してでも、引き出すべきかと」
意見はすぐにまとまった。
理解できぬなら、確かめるしかない。
その結論だけが、場に残る。
盛胤はわずかに笑みを浮かべたまま、頷いた。
「よかろう」
短く、それだけを告げる。
「――呼べ」
その一言で、すべてが決した。
誰もがまだ知らない。
その「呼び出し」が、さらに事を大きく動かすことになることを。