作品タイトル不明
第68話 凱旋翌日の日から
そして――戦の凱旋を終えた翌日から、貴丸の生活は見事なまでに弛緩? 堕落? いや、いつも通りの日常になった。
理由をつけては敏とお佳に用を言いつけ、部屋から出ようとしない。寝床に居座り、例の”抱き枕のすずちゃん”を抱えたまま、昼を過ぎても動かぬ日が続いていた。
本来であれば部屋の掃除はお佳の役目である。
だがある日の朝、いつものように襖を開けかけたその瞬間、内から「結衣ちゃん……」という妙に甘ったるい声が聞こえた。
全身にぞわりと鳥肌が立ち、そのまま静かに襖を閉め、足早にその場を離れた。
それ以来、お佳は部屋に入らない。
結果、貴丸の部屋は数日で見事に荒れた。
もっとも、貴丸自身は何一つ困っていない。侍女頭の敏に頼み込み、様々な具を詰め込んだ雑穀米で構成される“ごちゃ握り”を作らせ、それをお茶と共に運ばせているからだ。
ただし――運び方が異様だった。
お佳は決して部屋に入らない。そっと障子を開けると、盆に載せたごちゃ握りとお茶を、長い棒で押し込み、枕元まで滑らせる。
そして、用が済めばすぐ閉める。中には足を踏み入れない。
さらに抜かりはない。
その棒の先には小さな鉤が仕込まれており、食べ終えた後の盆はそこへ引っ掛けて、するすると手元へたぐり寄せる仕組みになっていた。
つまり――最初から最後まで、お佳が部屋に入ることは一切ない。
いつの間にやらその便利な棒は”オヨシ棒”と呼ばれるようになったとか。
ごちゃ握りは、今やこの家の定番である。漬物、煮物、魚、肉――思いつく限りを混ぜ込み、握り固めた大ぶりの飯だ。
貴丸は寝たまま手を伸ばし、目も開けずにそれを掴み、もそもそと食う。その脇には、すっかり冷めた茶。
問題は、それをどう飲むかだった。
初日は、そのまま飲もうとして失敗した。寝たまま口を傾け、茶をこぼし、布団をびしょ濡れにした。
干された布団には黄色い染みが残り、お佳に露骨な舌打ちをされる始末である。
だが、貴丸は懲りない。
稲藁を持ってこさせ、吸って飲むことを思いついた。だが耐久が足りず、すぐに漏れる。次に葦を試すと、これは使えた。
寝たまま茶を飲む――その方法を確立した貴丸は、ひとり満足げであった。
数日後。
あまりの暇に耐えきれず、敦丸と希丸が部屋に入り込む。貴丸は構わず葦を咥えて茶を吸っていた。
「なんだ、それ」
希丸が首を傾げる。この世にはまだ、吸うという発想がないのだ。
試しにやらせてみると、加減が分からず強く吸いすぎた。次の瞬間、むせてお茶を鼻から噴き出し、げほげほと咳き込む。
その様子を見て、貴丸は少しだけ満足そうに目を細めた。
さらに貴丸は、敏に竹の花入れを持ってこさせようとした。だが、その途中で琴に見つかる。
違和感を覚えた琴は、そのまま自ら花入れを手に取り、貴丸の部屋へと足を運んだ。
当然――説教である。
「戦支度に奔走しておったこと、そこは見ております。ですが――このところ、部屋に籠もりきりとは何事ですか」
一度、言葉を切って貴丸を見据える。
「敦丸も希丸も、朝から学びに励み、その後は槍に剣、今日は馬の調練にも出ております。それを……貴方は大和田の嫡男にございましょう。このままでは、いかに城取りの才があろうとも、家の者はついて参りませぬ。――場合によっては、廃嫡することも考えねばなりませぬぞ」
静かだが、逃げ場のない言葉だった。だが貴丸は、寝転んだまま気のない声で返す。
「……ニートで食っちゃ寝できるなら、それでいいよ。生活保護もいらないし、敦丸に大和田を継がせて、俺は養ってもらう…」
琴の眉がぴくりと動く。
「……にーとや、せいかつほご?、などと……また、訳の分からぬことを…」
琴は呆れたように言いながらも、その視線が敏から受け取った花入れへ落ちた。
「貴丸。この花入れ、何ゆえに要るのです?――そもそも、そなたに花を愛でる風情があるとは思えませぬが?」
問われても、貴丸は口を閉ざす。沈黙が落ちる。
やがて何かを察した琴は一歩踏み込み、遠慮なく耳を引いた。
「痛いです! 母上」
ようやく貴丸が口が開く。
「…… 手水(ちょうず) 、めんどい」
一瞬、意味がわからない発言だった。だが理解した次の瞬間――琴の声が部屋に響き渡る。
「何を申しておるのですか!! 厠くらい、自分の足で参りなさい! そもそも、厠はこの部屋のすぐ先ではありませぬか!」
容赦はなかった。
ひとしきり叱りつけた後、琴は深く息を吐き、花入れを見下ろす。
「……これは、花を活けるためのものです。貴丸殿の………そのような”モノ”を入れる用途に使うものではありませぬ!」
それだけ言い置き、踵を返す。障子が静かに閉じられた。
縁側。
その一部始終を控えながら聞いていたお佳は、何も言わない。ただ、わずかに目を細めた。その視線だけが、先ほどよりも一段も、二段も冷えていた。
それでも貴丸の生活は改まらない。
昼過ぎまで寝る。あわよくば夕食もごちゃ握りを部屋で済まそうとする有様だ。敦丸と希丸をも起こしに来ても頑なに無視する。
だが、毎朝のそれが続いたことで、ついに貴丸が折れた。
いや――別の方向へ動いた。
夕餉を終えると早々に部屋へ戻り、その夜、何やらごそごそと作業をしていたらしい。
翌朝。
いつものように敦丸と希丸がやって来る。
「起きろー!」
元気よく襖を開けようとするが――開かない。押しても引いても、びくともしない。
どうやら貴丸は、襖に細工を施し、外から開かぬようにしていたのだ。
内に籠もるためだけに、無駄に器用な工夫であった。
そして本日――しかし――さすがに業を煮やしたのだろう。
ついに貴丸は、慶久、琴、元伯、銀四郎、空然が揃う一室へと、半ば引きずられるように連れてこられた。
ついに慶久から、貴丸へ直々の沙汰が下ったのだ。
元伯はその様子を面白がるように眺め、口元に笑みを浮かべている。
後ろには空然も控え、その脇の銀四郎はといえば、あえて貴丸と目を合わせない。
もっとも、これまで毎朝起こしに来ていたのは銀四郎なのだが、その言葉に従うような貴丸ではなかった。
慶久が、じろりと睨む。
開け放たれた障子の向こう、庭の隅では敦丸と希丸が興味深げに顔を覗かせている。
静けさが落ちた。やがて慶久が、低く告げる。
「これ以上、だらしなき日を重ねるならば――こちらにも考えがある」
貴丸はド派手に寝癖の残るまま、ぼんやりと首を傾げた。
「……なんすか」
次の瞬間。
「これ以上怠惰を続けるならば――火刑に処す」
あまりにも平然と、言い切った。その場の空気が止まる。
事前に話を聞いてた琴ですら、顔を青ざめさせた。
「あなた……それは、さすがに――」
言葉が続かない。だが、その瞬間だった。
すっ、と奥の襖が開く。
するりと差し込まれてきたのは――一本の長い棒。
その先に、布の塊が引っ掛けられている。
それは――“抱き枕のすずちゃん”であった。
棒を握っているのは、お佳である。
さすがにそれを手で持つ気にはなれなかったのだろう。
長い棒の先に引っ掛けられ、ゆらゆらと揺れる“すずちゃん”を、誰も咎める者はいない。
むしろ――それが当然であった。
それは、貴丸が毎夜抱いて寝ている布の塊である。
長く使い込まれ、ところどころ色もくすみ、薄く汚れが染みついている。
近づけば、かすかにこもったような臭いが漂う。
誰がどう見ても、素手で触れたいと思う代物ではなかった。
お佳が距離を取るのも、無理からぬことである。
部屋の中央に掲げられた瞬間、なにやら言い難い空気が広がる。
琴は思わず袖で口元を覆った。
慶久が、その“すずちゃん”を指差す。
「火刑になるのは――これだ。お前の大切なそれを、この世から消すのだ。欠片も残らぬほどに、業火に 萌(・) え(・) 尽くされるが良いわ!」
そして――
「あははははっ!」乾いた笑いが響いた。
貴丸の顔が引きつる。次の瞬間、叫んだ。
「ぐぬぬ……父上! すずちゃんを火あぶりにするなど、鬼畜の所業! 第六天魔王のごとき外道として、末代まで語られますぞ! 人の愛着を奪い糧とする―― 他化自在天(たけじざいてん) そのものではありませぬか!」
場の空気が一瞬、妙な方向に張り詰める。
その言葉に、空然の眉がわずかに動いた。
慶久は、ふっと口の端を歪める。一歩も引かない。
「構わぬ! その汚名――お前一人を正すためなら、いくらでも被ろうぞ」
言い切った。完全に力でねじ伏せにきている。
沈黙。
そして――
「……なんと、くだらぬ父子にございますことか……」
琴が、冷えた眼差しで二人を見やり、ぽつりと呟いた。
その一言に、張りつめていた空気がわずかに緩む。
元伯はついに堪えきれず、くつ、くつと喉を鳴らして笑いを漏らした。
低い笑いが、静かな部屋にじわりと広がっていく。
そして――貴丸は、ついに膝を折った。
……とはいえ。
翌朝。
一同が朝餉を囲む中、遅れて現れたのは――
奇妙な寝癖を盛大に跳ねさせ、あの“すずちゃん”を床に引きずりながら歩く貴丸であった。
「……おそよう」
まるで何事もなかったかのような顔で言う。
当然、琴の眉が即座に吊り上がる。
「貴丸。その“すずちゃん”とやらを、この場へ持ち込むのはやめなさい。……何やら、得体の知れぬ臭いを放っておるではありませぬか」
だが貴丸は聞こえぬふりで座り込み、「……おそだきます」とだけ言って、平然と箸を取った。
それが、せめてもの抵抗であったのだろう。
慶久はしばし無言でそれを見つめ、やがて――
大きく、深いため息をひとつ吐いた。