軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第70話 これは経費で落ちませ、、(経理)部長島田琴、

修平はようやく、商人としての富岡での務めを終え、養蜂に専念できるようになった。

まだ朝の湿り気を残した土の匂いの中で、整然と並べられた巣箱を前に、修平は静かに腰を落とす。

三ヶ月ぶりに腰を据えて向き合うその光景は、どこか懐かしく、それでいて確かに手応えのあるものへと変わっていた。

この三ヶ月、富岡との往復で商いの真似事を重ねたことで、振る舞いもだいぶ板についてきている。

言葉の選び方、相手との距離の測り方、間の置き方――どれもが以前より滑らかになり、少なくとも表面上は“商人”として違和感のないものになっていた。

とはいえ、その間も養蜂を完全に離れていたわけではない。

空いた時間で手を入れてはいたが、この三ヶ月の主軸はあくまで空然であった。

空然は、几帳面な性分らしく、日々の変化を細やかに書き留めている。天候の移ろい、花の咲き具合、蜂の出入りの時間、採れた蜜の量と質――それらが紙の上に整然と並び、修平はそれを指でなぞるだけで、不在の時間を追うことができた。

その遅れを埋めるように、凱旋の翌日から、修平は再び養蜂の研究に没頭していた。

巣箱の蓋を静かに持ち上げ、蜂の動きを目で追い、手を入れる。その所作には無駄がなく、しかし慎重さを失わない。

周囲では、興味を示した子どもたちが少し離れて覗き込んでいる。だが、一定の距離を越えれば、修平は視線だけでそれを制した。

だが――この技術は、まだ外に出せる段階ではない。

領の柱となりうるもの。ゆえに、軽々しく教えることはできなかった。

「人を選ばねばならないな」

低く落ちた言葉は、独り言のようでいて、確かな線引きを含んでいる。

修平はそう呟き、実右衛門に相談を持ちかけているところであった。

一方で、館の中では別の流れが動き始めている。

畳の上に広げられた帳面、並べられた紙束、墨の匂い――そこには戦とは別の、金の匂いがあった。

修平と貴丸が富岡で築いた縁は、思いのほか太く、簡単には切れないものとなっていた。

あの後、事情を知った富岡大和守隆時も、結局は貴丸が結衣の婚約者に収まったことで態度を和らげ、たんきり飴の継続購入を望んできた。

そこで、その扱いは八田屋孝之助へと引き継がれた。

今後、富岡で米が安定して取れるようになれば、雑穀の需要は落ちる。

元々これは、城取りのための一時的な策に過ぎなかった。飢えを利用し、流れを作るための“商品”だ。富岡がこの秋の収穫で平常に戻れば、自然と役目は終わる。

ならば――主軸は飴へ。

八田屋は、その話を聞いた時から露骨に態度を変えていた。

膝を乗り出し、目を細め、指先で帳面を叩く。商いの匂いを嗅ぎ取った時の、あの独特の昂りが隠せない。

「次は、請戸漬けも動かせますな……」

鼻息荒く、すでに次の商材に手を伸ばしている。

そして、その流れをさらに加速させたのが琴であった。

貴丸が何気なく口にした「契約書」という言葉。

それを、琴は聞き逃さなかった。

紙の上に、墨が走る。

守秘義務、業務委託、利益配分、責任の所在――この時代にはない細やかさで、条文が組み上げられていく。

完成したそれを見た八田屋は、思わず目を丸くした。

「……これは、また……」

苦笑いが浮かぶ。だが、その手は止まらない。筆を取り、ゆっくりと名を書き入れる。

契約を破った場合の条項には、賠償だけでなく、こう記されていた。

――神仏に誓い、これを違えし者は地獄に落つ。

一見、滑稽にも思える文言。だが、この時代においては、むしろそれが重みとなる。

琴はそれを当然のように入れた。

形だけではなく、心に縛りをかけるために。

さらに――「返せぬ場合は、収穫物をもって充てる」

債務確認書にも手を入れる。

貨幣と米が混在するこの時代では、返済方法を明確にしておかねば、いずれ揉める。

八田屋は最初、怪訝な顔をしていた。だが琴は、静かに言い切る。

「これは、我らと貴殿との間に、神仏をも証人とした固き絆を結ぶためのものにございます」

その言葉に、八田屋の目が変わった。

軽い商いではない。これは“結び”だと理解したのだ。

「……なるほど」

頷きが一つ。その瞬間、大和田家は「信に足る家」として刻まれた。

たんきり飴は、正式に委託販売となる。

八田屋にとっても、大和田にとっても、双方に利益のある形だ。

試しに常陸へ持ち帰り、店に並べたところ――結果は明白だった。

甘さと安さ。単純だが強い。

「もっと送れ」催促は絶えない。

その流れの中で、さらに火をつけたのが貴丸である。

「普通の飴もそろそろ飽きたよね。少しだけは前に作っていたけどさ。その飴に、“あじへん”って言って、きなこ、胡麻、よもぎ……薄荷や胡桃風味を足すと味の幅が広がってもっと売れると思うよ」

寝転がったままの、軽い一言。だが琴は、それを聞き逃さなかった。

即座に紙が用意され、条件が書き足される。

品目の追加、利益の再配分、供給の取り決め。

もはや迷いはない。

貴丸はそれを横目で眺めながら、内心でほくそ笑んでいた。面倒なことは、すべて誰かに任せればよい。

――もっとも。その契約の中身までは、見ていない。

利益は確かに定期的に入る。だが、その受け取り先は「大和田家当主」となっている。

当主になる気のない貴丸に、それが渡る日は来るのか。

琴は静かにその背を見つめる。

床の上、だらしなく寝転がるその姿を。

そして、ふっと口元を歪めた。

普段、散々振り回されている鬱憤。それを、ほんの少しだけ返してやる。

その笑みは、勝ち誇ったようで――

どこか底の見えぬ、静かな悪意を含んでいた。

さて――問題は薄荷である。

この名を知る者は、誰もいなかった。

呼ばれた実右衛門は、膝を正して座りながら、貴丸の言葉をひとつひとつ噛み砕くように聞いていた。

葉の形、匂い、触れたときの感触――断片的な説明。だが、その途中でふっと目を細める。

「ああ……あの、変わった匂いのする葉ですな」

思い当たった、という確信の色が滲んでいた。

「それなら、川沿いや湿地、田の畦に……いくらでも生えておりますな。昔に旅の僧侶が持ち込んで広まったとか」

その一言が落ちた瞬間、空気が変わる。

それまでどこか様子見であった八田屋の背が、わずかに前へ出る。

実右衛門もまた、顎に手を当てながら視線を落とし、すでに頭の中で量と手間を計算し始めている。

二人の目が、同時に光った。金になると分かった瞬間の、隠しきれない反応である。

その中心にいるはずの貴丸は――

すでに、完全に横になっていた。

広間の端、柱にもたれるようにして、すずちゃんを抱え、ごろりと寝転がっている。陽の光が障子越しに柔らかく差し込み、その上でぼんやりとした影が揺れていた。

本来なら、まだ寝床の中にいた時間だ。それを琴に半ば引きずられるようにして連れてこられたのである。

「……めんどい」

低く、やる気のない声が漏れる。だが、その言葉は誰にも拾われない。

あるいは、拾う価値すらないものとして処理された。

琴は小さく息を吐く。呆れとも諦めともつかない、短いため息だった。

だが、その目は緩まない。

――必要なのは、情報だけ。それさえ引き出せれば、あとはどうとでもなるのだ。

勘定奉行の大和田・春央・琴は心の中で呟いた。「貴丸と油は絞れば絞るほど出るものなり」と。

「で、どうやるのですか?」

声は静かだが、逃げ道を塞ぐように真っ直ぐだった。まるで獲物を見据える鷹のように、貴丸を射抜く。

貴丸は目も開けない。

すずちゃんを抱えたまま、顔を少しだけ横に向け、気の抜けた声で答える。

「たしか……洗って、干して……煮るんだよ」

指先で畳を軽く叩きながら、思い出すように続ける。

「で、色が……茶色っぽくなったら、布で濾せば終わり」

途切れ途切れで、曖昧な説明。

確証も自信もない。

だが――それで、十分だった。

八田屋と実右衛門は顔を見合わせる。

一瞬の間。すぐに、小声で言葉を交わし始めた。

どこで採るか。

どれほどの量が必要か。

乾燥の場所、煮るための釜、売り出す時期――

話は、すでに“やる前提”で進んでいる。

その横で。

琴は、まったく別のところを見ていた。

視線は落ちている。だが焦点は、目の前ではない。

――この技で、いかほど取れるか。

流通。

加工。

利益配分。

契約の上書き。

頭の中で、数字が静かに組み上がっていく。

表情は変わらない。だが、その内側では、すでに次の金の流れが形になりつつあった。

広間には、複数の思惑が重なっている。

商いの匂いに反応する者。

それを統べる形を作る者。

そして――その中心にいながら、何も考えていない者。

すずちゃんを抱えたまま、貴丸は小さく寝返りを打つ。

誰も、それを気にしない。

静かに。

だが確実に。

この場から、次の流れが動き出していた。