軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第51話 戦02

――時は、少し遡る。富岡の軍が発して、まだ数刻ほどの頃。

大和田館の一室は、光が差し込んでいるにもかかわらず、どこか夜の延長のような静けさに包まれていた。

障子越しの光は柔らかい。だが、その中に満ちる空気は張り詰めている。

机の上には幾つもの紙が重ねられていた。

それらは遠く離れた戦場の動きを伝える報であり、この場では出来事の記録ではない。

これからの手を決めるための材料として扱われているのだ。

元伯はその一枚を取り、流れるように目を走らせた。

隣では空然が届いた報を並べ替え、時刻ごとに整理している。

声はほとんどない。紙の擦れる音と、短い確認の言葉だけが、この場の緊張を支えていた。

「――富岡が、ようやく動いたか」

低く落ちた声に、空然が一枚の紙を差し出す。

本日午前、富岡大和守隆時、騎馬五十騎、兵六百を率いて日向館を発す――

その一文に、元伯の指がわずかに止まる。

すでに起きた事実だが、この場ではそこから先を読むための起点に過ぎない。

「思ったより多いのう……これなら、夕刻前には夫沢(現在の福島県双葉郡大熊町大字夫沢周辺)へ入るであろうな」

断定ではない。だが、迷いもない。

空然は別の紙に視線を落とし、静かに頷いた。

「はい。浜街道(現在の国道六号線)を東へ取り、丘にかかる頃合いは、その頃になるかと」

富岡から北へ進む軍勢は、川を越え、やがて海と丘に挟まれた細い道へ入る。

逃げ場はない。進むほどに列は伸び、兵六百は細く引き延ばされていく。

「……抜ければ広いが、そこまでは窮屈だろうのう」

元伯の呟きに、空然が短く応じる。

夫沢に差し掛かれば、道はさらに狭まり、見通しも利かなくなる。

兵は分断され、前後の連携も鈍る。

元伯はしばし沈黙し、その地形と動きを頭の中でなぞるように目を伏せた。

「貴丸の策では、初日は……富岡の軍を止めるだけでよいということだが…」

その一言で、この日の役目は定まる。討つ必要はない。押し返す必要もない。

ただ進みを鈍らせ、流れを乱す――それで足りるのだ。

すでに丘の両側には手が入っている。

配置された兵は多くないが、この場では位置こそがすべてだった。

時刻は夕刻前後。

陽が傾き、視界も判断も鈍り始める頃合いだろう。

「富岡は……焦れるじゃろうな」

元伯は小さく笑う。

数が多いほど、止められたときの苛立ちは強くなる。

押せば抜ける――そう思わせておいて、抜けさせない。

空然は紙の上に指を滑らせ、時刻ごとの動きをなぞった。

「そのままでは詰まりますゆえ、一度退かせ、夫沢の平地で野営に入らせる形でしたな」

「うむ」

短い返答。進ませず、退かせる。足を止めたまま、日を落とさせる。

それが、初日の役目であった。

「……そして朝、富岡軍が動き直しますな」

「そうなるの」

富岡ほどの兵が、この程度で引くことはない。

陣を立て直し、朝には再び進む。

元伯は紙の上に視線を落としたまま、小さく息を吐いた。

すでに、次の手は決まっている。

富岡軍がそのまま進めば、新山(双葉郡双葉町新山)を抜け、大和田館の目前――標葉郡郡山郷(双葉郡双葉町郡山周辺)にまで迫る。

ゆえに、止めるのは夫沢を抜け、新山へ入った直後。

富岡の兵が展開して広がる前に、足を止める策なのだ。

元伯は椅子に背を預け、静かに息を吐いた。

「抜ければ広い。あっという間にここまで迫ってくるだろうからのう」

先ほどの言葉を、確かめるように繰り返す。

夫沢を越えれば視界は開け、兵は横に広がり、騎馬も活きるのだ。

――だから、そこへは出させない。

敦丸と希丸が集めておいた草木――漆、山椒、芥子、ドクダミ、ヨモギ。

乾かして焚けば、煙となって目と喉を焼き、動きを鈍らせる。

そして、修平の一言で投入されたスズメバチの群れ。

だが、それだけでは足りない。

そこから進軍したら、前面には拒馬を据え、騎馬の足を止める。

兵は道脇に設けた浅い塹壕に潜み、弓や印地で揺さぶる。

そして――束ねられた茨。

野に自生する棘の強い枝を刈り取り、あえて乾かさず、そのままの鋭さを残したもの。踏めば刺さり、払えば絡む。簡素でありながら、進軍の足を確実に鈍らせる。

「……妙なものを思いつくものだ」

空然がわずかに苦笑する。

その発端は、些細な光景であった。

ある日、敦丸や希丸を中心とした領の子どもたちが、大和田館の一角で草木を干していた。漆や山椒、芥子を集め、風に当てて乾かしていたのだ。

まだ青さの残る葉や枝が並び、風に揺れるたびにかすかな匂いが立つ。

その様子を、貴丸は縁側に寝転び、指が第二関節まで入りかねないほど鼻をいじりながら、気の抜けた顔で眺めていた。

富岡から商人の真似をして戻ったばかりで、特に口を挟むでもなく、ただ視線だけを遊ばせていたのだが――

特に口を出すでもなく、ただぼんやりと見ていたが――ふと、口を開いた。

「茨とか、ちくちくした草……道に置けば嫌がるんじゃね?」

何気ない一言だった。

だが、その場にいた者たちは手を止め、次いで動き出した。単純で、だが確実に効く。そう判断されたからだ。

そしてその一言で、子どもたちの仕事は増えた。

集めるものは、薬草だけではなくなる。棘のある枝、踏めば痛む草、絡みつく蔓――そういったものが次々と刈り取られ、束ねられていった。

そうして用意されたのが、この茨である。

無造作に見えるように、しかし意図をもって。踏み抜けば、確実に刺さるように。

「子どもの発想とは思えんのう」

元伯はそう言いながらも、その有効性を疑ってはいなかった。

そうして集められた茨が、今回使われる。

無造作に見えるように、しかし意図をもって落とす。踏み抜けば刺さる位置に、確実に。

前は拒馬、視界は煙、足元は棘。

「進めば崩れ、止まれば詰まる」

そこへ――横から慶光が出る。

慶光の新山城を背に、側面からの圧をかける布陣。正面では慶久が控え、後ろに印地と弓を置く。三方から形だけを整える。

「包む形にはなるが、潰さぬ」

あくまで目的は壊滅ではない。混乱を最大にし、統制を失わせること。

一度、足を止める。

それだけで、次の流れは決まる。

元伯は机上の紙に指先で触れた。

夜のうちに整える配置。

進路に沿って置かれる障り。

準備は、すでに進んでいる。

そして――元伯は、そこでわずかに言葉を切った。

「……とはいえ、本命はそこではないのじゃな」

視線を紙の上に落としたまま、静かに続ける。

「外でいくら足を止めても、それだけでは終わらぬ。結局は――城を落とさねば、この戦は片がつかぬ」

空然もまた、無言で頷いた。

ここまで積み上げてきたものは、すべて“外”の話である。

進軍を鈍らせ、流れを乱し、苛立ちを積もらせる。

だが、本当に崩すべきは――別にある。

富岡軍が進軍を開始した、その日の夕刻。

龍長の船で運ばれた雑穀が、戦の備えとして富岡城へと運び込まれる。しかも、いつもより多く。

「……富岡領内は、わしも出ばらなければのう――言うは易いが、気を抜けばそれで終いじゃ」

小さく笑う。だが、その声に迷いはない。

日が落ち、城内が静まる頃。その中で、内と外が繋がる。

銀四郎が導き、動かす。

そして――城を落とす。

早朝、足止めしていた富岡軍が再び動き出し、大和田へ踏み込もうとする、その直前。

戻らざるを得ぬ状況を、内から作る。

「……もし、城を落とせずに、失敗した場合はどうするのですか」

空然が静かに問う。

元伯は肩をすくめた。

「その時は――城をそのまま焼くそうじゃ。あの子は、どうにも城を焼くのが好きらしい」

苦笑が混じる。

「油を運び込み、火を放つ。煙を上げて混乱を広げる。城が落ちようと、燃えようと、どのみち富岡は引かねばならぬだろうよ」

どちらに転んでも、立て直しには時がかかる。

それで十分だった。

部屋の外では、日が高くなり始めている。

だがこの室内では、すでに一日が終わり、次の一日が始まっていた。

すべては、まだ起きていない。

だが――流れだけは、すでに定まっている。

「……これで、よいかのう。抜けはなかろうな」

元伯が低く呟く。

空然は一礼した。

「万全にございます。必ずや」

ゆっくりと立ち上がる。その動きに、もはや迷いはない。

「では、ワシも準備に入るかの。じっとしておる柄でもないしな」

その一言で、この場の役割は分かれる。

空然は残り、報を受け、流れを繋ぐ。

元伯は――戦の内へ入る。

衣の裾を払うと、出口へと歩き出した。廊を抜けながら、肩を回し、ぼやく。

「……箱の中は、どうにも性に合わん。息が詰まりそうじゃ」

だが、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。

やがて姿は消える。

その先には、龍長の船と、積み込まれる無数の箱。

静かに――だが確実に、策は動いていく。

戦は、まだ始まっていない。

だが――

すでに、動いていた。