軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第46話 コネ作り01

そして――数日後。

一行は見送りのため、龍長おじさんの船が留まる船着場へと出ていた。

朝靄がまだ薄く残る浜辺に、ゆるやかな潮の音が重なる。舫が外され、舟は静かに水面へと滑り出す準備を整えていた。

その少し前。大和田館の一角では、小さな騒ぎが起きていた。

本来であれば、商人役として富岡へ向かう修平に付き添う「小者役」は、貴丸の役目であったはずだ。

はずなのだが、当の本人は最後までそれを明言せず、誰が行くとも言わないまま曖昧にしていた。

露骨ではないが、確実に押し付けようとしている気配があった。当然貴丸は、静かに算段を巡らせていた。

やがて、頃合いを見て口を開く。

「で、だ。富岡に乗り込む修平に付き添うのは――敦丸か希丸か、どっちなんだ?」

軽く、にこやかに。

あまりに自然な言い方だったため、一瞬それが既に決まっていることのようにすら聞こえた。

敦丸はその場で顔色を変え、明らかに狼狽する。

一方で希丸は、ぱっと表情を輝かせた。

「面白そうだな!」

貴丸は思った――よし、いけるぞ。と。

内心で小さく 拳を握る(ガッツさんのポーズ) 。この流れは悪くない。このまま軽く背中を押せば、そのまま決まるはずだ。と思った。

だが、その時。ふと、別の考えが頭を 過(よ) ぎる。

(……いや、敦丸、希丸よりお佳の方がいいんじゃないか? 頭は二人よりも回るだろうし、この頃は作法もかなり身についてきてる。それに修平の妹だ。そっちの方が自然に見えるかも……)

思考は滑らかに形を取り、ほとんど言葉になりかけた。

その瞬間。お佳が、何も言わずにこちらを見た。ただ、それだけだった。だが、その視線は冷えていた(…いつも貴丸に対してだけだが)。

刃のように鋭く、静かに突き刺さる。

言葉はない。それでも、十分すぎるほどに伝わってくる。

――それ以上、踏み込むな。危険だ。貴丸の思考が、そこでピタリと止まる。

開きかけていた口が、そのまま動かなくなった。(……やめておこう)

頭のどこかで、 犯都乱普(パトランプ) が光り、 裁嗹(サイレン) が鳴る。脳裏に、以前の出来事が走馬灯のように駆け巡る。

(前のあれも……偶然じゃない気がするしな……桶で済んでるうちは、まだいい。もし、あれがもっと重かったら――)

そこまで想像しかけて、貴丸は思考を切った。本能が、これ以上考えるのは危険だと告げていた。

結局、その場では言葉を引っ込めるしかなかった。だが――逃げ道は、すぐに塞がれる。

母、琴である。事情を見抜いているのか、静かに言った。

「貴丸、よく聞いて、心に描いてみなさい。敦丸と、希丸の場合がいかなる事態になるかを」

貴丸は渋々、頭の中で思考を並べていく。

まず、敦丸。

素直すぎる。天然。緊張すれば顔に出る。嘘など続くはずもない。

――顔で全部バレる。即座に結論が出る。ダメポか……。

次に、希丸。

好奇心が強く、場の空気より面白さを優先する。思いつきで喋る。余計な一言を必ず挟む。

――これはこれでアウトだな…。別の意味で危険だ。

そこまで思考して、貴丸は肩をすくめる。

そして、最後の逃げ道として選んだのは――

「じゃあ――修平との富岡行き、母上、お願いします」

それを言い終える前だった。

遠間(とおま) にいたはずの琴が、音もなく瞬間的に間合いを詰めてくる。

次の刹那、どこからともなく現れた 張扇(ハリセン) 擬(もど) き(貴丸が遊びで作って琴に没収されたやつ)が、乾いた音とともに振り下ろされた。

「パシン!」妙に軽快な音が響く。

思わず頭を押さえ、貴丸は顔を上げた。

「……痛っ! 母上! それはチャイルド・アビューズでござるよ!」

抗議は妙に堂々としていたが、周囲の反応は冷ややかだった。

敏も、お佳も、元伯も、空然も――ただ首を傾げる。何を言っているのか分からない、という顔である。

貴丸はしばし黙り込み、やがて小さく息を吐いた。(……通じないよな…)当然だった。

そして、逃げ道は完全に消えた。

仕方がない。自分で行くしかない――そう諦めかけた、その時。

ふと、最後の可能性に縋る。隣に立つ修平へと顔を向けた。

「修平……一人で行ってきて」

軽く、投げるように。

修平は一瞬だけこちらを見る。

そして。

「無理」

たった一言。

敬語もなければ、感情もない。ただ事実だけが告げられた。

それで終わりだった。あまりにも即答で、貴丸は何も言い返せない。

逃げ道は、完全に断たれた瞬間だった。

そうして――観念した貴丸は、修平の傍に立つことになる。

海は静かで、風は穏やかだった。

白く薄い霧が水面をなぞり、小舟は音もなく沖へと滑っていく。だが、その舟の上に立つ貴丸の胸中だけは、やけに重く沈んでいた。

そして、戦場…のメリーク………。ではない。

船上である。だが、当然、海の上なのでピアノなどは当然弾くこともできない。

山田龍長の船は、漁にも商いにも使い慣らされた造りで、無駄がない。

板張りは潮に洗われて艶を帯び、帆は何度も繕われた跡を残しながらも、しっかりと風を孕んでいた。

今日はとりあえず少量の雑穀が積まれているだけだ。

貴丸はいそいそと着物を、それっぽいものへと着替える。

あとは、貴丸の胸には竹の皮に包まれた例の物。

波が船腹を叩くたびに、低い音が腹に響いた。甲板の上で、貴丸は手すりに顎を乗せ、何も言わずに海を見ていた。

その横で、修平は緊張を隠しきれず、何度も指先を擦り合わせている。

「……そんなに構えなくてもいいよ」

ぽつりと、貴丸が言った。

「目標は武士に取り入ることだけど、とりあえず今日は僧侶に取り入る。俺らは商人っていう体だから、多少の無礼は問題ない(…はず)」

その言葉に、修平は小さく息を吐いた。だが、その胸の内のざわめきが消えたわけではない。

やがて、船は富岡の湊へと差し掛かる。沖合で一度、船足が緩んだ。

船縁に立った水主が、岸へ向けて声を張る。それに応じて、小舟がひとつ寄せてきた。役人らしき男が乗っている。

修平は、あらかじめ用意していた包みを開いた。

中から取り出されたのは、八田屋の名を記した過所であった。

それを差し出す。男は無言で受け取り、目を走らせる。紙の端、印、書き付け――ひとつひとつを確かめるように見た後、小さく頷いた。

「……よし」

短い声。続いて、修平は銭を差し出す。

津料――この湊へ船を入れるための対価である。

男はそれを受け取り、懐へ収めた。

「入れ」

それだけで十分だった。

小舟が離れる。船は再び動き出し、そのまま静かに港の内へと滑り込んでいった。

岸へ近づくにつれ、音が増えていく。

荷を運ぶ人足の声、縄を引く軋み、木箱が打ち付けられる乾いた音。それらが重なり合い、湊はひとつの生き物のようにうねっていた。

潮の匂いに、干物と穀の匂いが混ざる。雑多で、生々しい空気だった。

船が着けられる。縄が投げられ、杭に掛けられ、固く引かれる。

一行は荷を整え、喧騒の中へと降り立った。

そのまま、足を止めることなく――寺へと向かう。

この地で最初に通すべき筋は、すでに決まっていた。

宝泉寺は、町の外れにひっそりと構えていた。

石段は古び、苔が薄く張り付いている。だが手入れは行き届いており、荒れた印象はない。山門をくぐれば、外の喧騒が嘘のように遠のく。

今は花を落としているが、枝垂れ桜の巨木が境内を覆い、その影が静かに地に落ちていた。風が木々を揺らす音だけが、ゆるやかに満ちている。

修平は一度、深く息を吸い、姿勢を正した。

その背後に、少しだけ背を丸めた貴丸が、小者のように控えている。

通された座敷で待つことしばし。

やがて案内されて現れたのが、住職の観海であった。

年の頃は六十を過ぎている。背はやや低いが、腰は曲がらず、歩みには無駄がない。

細い目が、こちらを静かに値踏みするように見ていた。

「……京・妙心寺からの文、とな」

低く、落ち着いた声。

これでも貴丸の祖父元伯は、かつて宗長とともに各地を巡った折、大宗玄弘のもとで修行を積み、印可を受けたという経歴を持つ。その後は、妙心寺にも一時身を寄せていたという。

修平は丁寧に頭を下げ、元伯の名を添えて書状を差し出す。観海はそれを受け取り、ゆっくりと開いた。

紙の擦れる音が、やけに大きく感じられる。一行の視線が、その手元に集まる。

やがて観海の目が、わずかに細められた。文面を追う指が止まり、次に、ふっと口元が緩む。

「……なるほど。京の風を、こちらへ運んでくれると」

完全に警戒が解けたわけではない。だが、明らかに興味は引かれていた。

――陸奥のような地に、京で名の知れた寺からの書が届くことは滅多にない。しかもそれが、ただの挨拶ではなく、人物を推す文であればなおさらだ。

禅僧というものは、ただ経を読むだけの存在ではない。漢の書を解し、他国の事情にも通じ、時に大名の相談役ともなる。とりわけ都に根を張る者は、情報の流れの中心にある。

その中で名を持つ者――京妙心寺の禅僧が認め、わざわざ文を寄せた相手。

それは観海にとって「中央からの目がここへ向いた」という意味を持つのだ。軽々しく扱えるものではない。むしろ、それを受け入れること自体が、寺の格を上げることにも繋がる。

さらに言えば、そこから得られるであろう京の情勢、他国の動き――それらは、この地にあっては得難い価値を持つ。

観海の中で、すでに秤は動いていた。

そこで、修平が次の一手を出す。静かに差し出されたのは、竹の皮に包まれた品であった。

開かれた中から現れたのは、見慣れぬ白い丸みを帯びた菱形の飴。淡く光を含み、わずかに白みを帯びたそれは、ほのかに甘い香りがして、この地ではまず見ぬ質感だ。

「ほう……」観海の眉が、わずかに上がる。

修平が告げる。

「この地では珍しき甘味にございます」

試しに修平が毒味を兼ねて一つ口へ運ぶ。

それにつられて観海も一口。歯が触れた瞬間、軽い音とともに割れ、内から甘みが広がった。その変化に、観海の目がわずかに見開かれる。

「……これは」声が低く落ちる。

それ以上は言わないが、その一語で十分だった。

続いて差し出されたのは、雑穀米の袋。質の揃った粒が、布袋の中で静かに音を立てる。

「寄進にございます。ご紹介が成りましたら、今後も定期的に…」

修平の言葉は、過不足なく整っていた。

観海はしばし考え、やがて頷いた。

「ありがたく」

その一言で、場の空気が決まる。

すぐさま筆が用意され、硯に水が落とされる音が響く。観海は迷いなく筆を取り、紙へと向かった。

墨が滑る。一画一画に力があり、無駄がない。

それは単なる紹介状ではない。

寺という「網」の中で通じる、確かな重みを持つ文――折紙であった。

書き終えたそれを軽く乾かし、修平へと差し出す。

「これで、会えるな」貴丸の誰にも聞き取れないほどの短い呟き。

修平は深く頭を下げる。

その横で、貴丸は一度だけ観海を見上げ、何も言わずに視線を落とした。

その仕草を、観海は見逃さなかった。

小坊主にしては、妙に落ち着いている。だが何も言わない。ただ、口元にわずかな笑みを浮かべるだけだった。

観海はわずかに眉をひそめる。

なぜこのような子供が――言葉にせずとも、その色が滲んでいた。

旅の汚れもあり、視線には露骨な値踏みが混じる。

――無論、請戸からの短い船足を、それらしく見せているだけだが。

――ああ、そういう目か。場違いなものを見る目。

ついでに連れてこられた何かを見る目。

(……皇帝の弟扱いかよ)

こうして一行は――無事に折紙を受け取り、翌日には城の内へと続く、最初の扉を静かに開いた。