作品タイトル不明
第119話 貴丸大好き褒美のお話
氏親はひとしきり笑ったあと、機嫌よく頷いた。
「さて、約束の褒美であるが、貴丸殿。そなたは何を望む?」
広間の視線が自然と貴丸へ集まる。貴丸は少しだけ考えるような素振りを見せたあと、静かに頭を下げた。
「恐れながら、二つほどお願いがございます」
「ほう」氏親が興味深そうに続きを促す。
「まず一つ。桂様との誼を頂戴したく存じます」
その言葉に、氏親の隣に座る女性がわずかに眉を上げた。
貴丸は続ける。
「そしてもう一つ。ご嫡男様、ひいては今後も今川家との誼を通じとうございます」
氏親は頷いた。
後者については理解できる。だが前者は少し意外だったらしい。
「今川との誼は分かる。じゃが、なぜ桂なのだ?」
氏親は口元に笑みを浮かべた。広間の者たちも興味深そうに貴丸を見る。
貴丸は一礼してから答えた。
「恐れながら申し上げますれば、今川家をお支えしておられるお方の一人は、大方様にございましょう」
氏親の隣の女性が静かに貴丸を見つめる。
貴丸は続けた。
「杜甫の前出塞に『射人先射馬、擒賊先擒王』とあり、また孫子にも敵の将を制することの大切さが説かれておりますれば」
広間の空気が僅かに変わった。
知っている者は知っている。だが、十歳の童がさらりと引用するような言葉ではない。
貴丸は淡々と続ける。
「ならば、今川家と末永く誼を通じるのであれば、大方様ともご縁を頂くべきかと愚考いたしました。どこの家も、奥方様には敵いませぬゆえ」
一瞬の沈黙。そして。氏親が大きく笑った。
「はっはっはっは!」
広間に響く豪快な笑い声だった。氏親は隣の女性を見た。
「なるほどな! 聞いたか。わしより先にお主、桂を押さえようというらしいぞ」
桂殿も袖で口元を隠しながら笑う。
「それは賢う選び方にございますな」
その声には面白がる色が混じっていた。
氏親は笑いながら頷く。
「違いない。我より恐ろしいやもしれぬからな」
そして肩を竦めた。その一言に広間がどっと沸く。
重臣たちまで笑いを堪えている。しかし、桂殿だけが氏親へ静かな視線を向けた。
次の瞬間、氏親は慌てて咳払いをした。
「……もちろん冗談であるぞ。ははは…」
その慌てぶりに、さらに笑いが広がった。だが笑いながらも、氏親の胸中には別の感情があった。
――杜甫。それも前出塞の一句。
孫子ならばまだ分かる。武家であれば読んでいても不思議ではない。
だが杜甫となると話は別である。しかも『前出塞』の一句を、その場に合わせて引いたのだ。
いったい誰がこの童へ教えたのだろうか。
この広間にいる武士たちの中で、暗誦できる者がどれほどいるだろう。
おそらく数えるほどしかいない。それを、この童は呼吸をするように口にした。
しかも引用の仕方が自然だった。
氏親は改めて思う。(本当に十歳か、この童は)
礼を知り、学を知り、人の機嫌を取る術も知っている。
それでいて褒美の話になると目を輝かせる。理解が追いつかない。だからこそ面白かった。
氏親は思わず口にしていた。
「貴丸殿、そなた、陸奥に置いておくには惜しいのう」
元伯は思わず目を剥いた。(待て待て待て待て、何を仰せになるのだ、この御方は)
嫌な予感しかしない。
氏親は楽しそうに続けた。
「どうじゃ。今川へ来ぬか」
案の定である。元伯は内心で頭を抱えた。
氏親はさらに続ける。
「いや、いっそ娘婿でもよいぞ」
すると泰能が即座に口を開いた。
「殿。そういうことはお控えくだされ」
その一言だけで空気が少し引き締まる。氏親が苦笑した。
泰能は続ける。
「貴丸殿は大和田家の大切な跡継ぎにございます。元伯殿の目の前での引き抜きは、さすがに酷うございますぞ」
広間に再び笑いが起きた。
氏親も肩を揺らす。
「そうであったな」
そして改めて貴丸へ向き直った。
「許せ。思わず口にしてしもうた」
そう言いながらも、その目は本気だった。
「だが、先ほどの手力とよい、今の杜甫と孫子とよい。そなたが優れた童であることは間違いない」
皆の視線が貴丸へ集まる。
貴丸は困ったように頭を掻いた。
「駿河・遠江を治められる今川様にそのようなお言葉をいただくのは、この上ない誉れにございます」
一度頭を下げる。だが顔を上げると、どこか情けない顔で続けた。
「しかしながら、私は根が不精者にございます」
広間から小さな笑いが漏れた。
貴丸は構わず続ける。
「寝て起きて飯を食い、ごろごろしてまた寝る。それが性に合っております」
氏親の口元が緩む。
「毎日あくせく働き、政を行い、時には領民のために戦へ出る。そのような立派なこと、私に出来るはずもございませぬ」
そこで貴丸は少し考えるように視線を上へ向けた。
「先ほど申しました杜甫の『飲中八仙歌』にもございます」
そして静かに詠じる。広間が静まる。
「天子呼来不上船、自称臣是酒中仙」
貴丸は少し笑った。
「天子様がお呼びになっても船に乗ろうとせず、『私は酒の中の仙人でございます』と名乗ったそうで」
そして肩を竦める。
「出来ることなら、私もそのような人生を歩みとうございます」
広間のあちこちから笑い声が漏れた。
「ゆえに、きっと今川様のお役には立ちますまい」
そう言って再び深く頭を下げる。氏親はしばらく貴丸を見つめていた。
断られた。しかも見事に。無礼ではない。謙遜だけでもない。
杜甫の詩まで引きながら、自分は怠け者だから無理だと笑わせて断ってみせたのだ。
(惜しいのう……)氏親は内心でそう思った。
これほどの才を持ちながら、本人にはまるで上へ登る気がない。
だが同時に、その場で杜甫の詩を引いて断り文句に仕立てる機転と教養は、やはり捨て難いものだった。
「ははははは! そこまで申されては仕方あるまい」
やがて氏親は大きく笑った。
そう言いながらも、その顔にはどこか本当に惜しむ色が残っていた。
この童は、ただの不精者ではない。
不精者の皮を被った才か、それとも才の皮を被った不精者か――いずれにせよ、使い方次第で化ける人間である。
だが貴丸は、そのどちらにも乗らぬと言った。
それが、面白い。氏親はふっと息を吐き、やがてゆっくりと口を開いた。
座敷の空気がわずかに改まる。
「よしそなたの“不精”――この今川修理大夫氏親、認めようぞ。無理に働けとも言わぬ。無理に立身出世せよとも言わぬ」
貴丸がわずかに目を上げる。
氏親は続けた。
「傾きて生きよ、と言いたいところではあるがな……」
そこで小さく笑う。
「そなたはそなたのまま、不精を貫け。寝て、食って、また寝る。その道を極めてみよ」
一瞬、座敷に笑いが漏れた。だがその笑いは軽いものではない。
半ば冗談でありながら、半ば本気でもある。氏親は貴丸を指さすでもなく、ただ静かに言い切った。
「ただし、その不精で天下に名を残すならば――それもまた一つの道よ」
貴丸は一瞬ぽかんとした。そしてすぐに、困ったように頭を下げる。
「……恐れ多いことでございます」
だがその顔には、どこか救われたような色も混じっていた。
泰能はその横顔を見て、ほんのわずかに目を細める。
(この殿は……本気で面白がっておられるな)
そして同時に思う。(そしてこの童も、確かに面倒な存在になる)
氏親は満足そうに笑った。
「よい。面白いものを見せてもらった」
その言葉だけが、やけに重く座敷に落ちた。
元伯はその言葉を聞き、胸の奥がわずかに熱を帯びるのを感じた。
今川氏親が、孫を「面白い」と評し、しかもその在り方すら認めたのだ。祖父として、誇らしくないはずがない。
だが同時に、別の感情も混じる。
あの不精を、認めてしまって良いものか。喜んでよいのか、呆れてよいのか、自分でも整理がつかない。
元伯は小さく息を吐き、心の内で結論を曖昧にまとめた。
(……まあ、いずれにせよ)ちらりと貴丸を見る。
(ただ者ではないことだけは、確かよ)そう自分に言い聞かせるようにして、静かに目を閉じた。
すると、それまで静かに見ていた桂様が口を開いた。
「貴丸殿。わらわも、ぜひ貴丸殿とは誼を通じたいと思います。これよりも、よしなにお願いいたしますえ」
柔らかな笑みが浮かぶ。広間の視線が再び貴丸へ集まった。
貴丸は一瞬だけ固まった。相手は氏親の正室である。
将来、今川家を支えることになる人物だ。
逃げ場などない。だから貴丸は大袈裟に平伏した。
「どうかお手柔らかにお願い申し上げます」
そして顔を上げぬまま続ける。
「私はかように弱き童にございますれば」
沈黙。次の瞬間。広間が爆笑に包まれた。
「今一番信用ならん言葉であるぞ!」「先ほどまでの話を聞いておったか!」
重臣たちから次々と声が飛ぶ。
氏親は腹を抱えて笑い、桂様も袖で口元を隠しながら肩を震わせていた。
貴丸は頭を下げたまま首を傾げる。
――何がおかしいんだろう。
貴丸には本気で分からなかった。
だが、それよりも重大な問題がある。
――しまった。
――格好をつけて誼とか言ってしまった。
――銭にしておけばよかったかな。いや、湊の税を軽くしてもらう手もあったな。
――やってしまったな。
広間が笑いに包まれる中、一人だけ別の意味で後悔していたのである。