作品タイトル不明
第118話 手力披露
そして氏親が、興味深そうに貴丸を見た。
「泰能から聞いたのだが、“手力”と言うたかのう。その技、一つ見せてもらえぬか」
その言葉に、貴丸は内心で盛大に顔をしかめた。
――うわっ……面倒くさ。
――弥太さん、余計なこと言いやがって……。
思わず上座へ視線を向ける。
重臣の席に座る泰能は、氏親に気づかれぬよう周囲をちらりと見回すと、そっと両手を合わせて貴丸を拝む真似をしていた。
――頼む。何かやってくれ。そんな心の声が聞こえてきそうである。
貴丸は心の中でため息を吐きながらも、表情には出さず頭を下げた。
「恐れながら申し上げます。氏親様にお目にかけるほどのものではございませぬ」
すると氏親は少し残念そうに言った。
「そうか。残念であるな。面白ければ褒美でも取らせようと思うたのだが」
その瞬間だった。貴丸の目がぴくりと動く。
氏親は見逃さなかった。傍らに座る氏親の正室である桂様もまた、口元へ袖を添える。
そして貴丸は改めて深く一礼した。
「そこまで仰せいただけるのでございましたら、生涯の冥利にございます。お目汚しとは存じますが、いくつかご披露仕りたく存じます」
あまりにも鮮やかな手のひら返しだった。桂様が思わず笑みを漏らす。
「ふふ……面白き童にございますね」
広間にも小さな笑いが広がった。
貴丸は何事もなかったような顔で近くの小姓へ向き直る。
「恐れ入ります。大きめで厚手の和紙を十枚ほど。それと筆、細い紐、それから小刀をお借りできませぬでしょうか」
小刀という言葉に小姓が一瞬だけ動きを止める。視線は自然と氏親へ向かった。
氏親が頷く。
「よい。持って参れ」
「はっ」小姓は頭を下げ、足早に下がっていった。
しばらくして頼まれた品が運び込まれる。
貴丸は丁寧に礼を述べると和紙を広げた。
「少々お時間を頂戴いたします」
そう言って筆を取り、さらさらと何やら書き始める。広間にいる者たちは不思議そうにその様子を眺めていた。
やがて六枚の和紙が数字で埋め尽くされる。貴丸は筆を置いた。
「お待たせいたしました」
そう言って氏親へ向き直る。
「では、まず氏親様にお願いがございます」
「申してみよ」
「一から六十三までの数字の中で、お好きな数字をお一つお決めくだされ。その数字は決して口になさらぬようお願い申し上げます」
氏親は面白そうに頷いた。
「うむ」
貴丸はさらに続ける。
「その数字を、こちらの紙へお書きくださいませ」
和紙と筆を小姓へ渡す。
「恐れ入りますが、大方様だけにご覧いただけますでしょうか。私には見えぬようお願い申し上げます」
貴丸はすぐに後ろを向いた。
「念のため、私は目も閉じております。書き終えましたらお声がけください」
そのまま静かに待つ。
やがて氏親の声が響いた。
「貴丸殿、もうよいぞ」
貴丸は振り返り、改めて一礼する。
「では始めます」
そう言うと六枚の紙を順に広げた。
「氏親様。この中に、お決めになった数字はございますでしょうか」
氏親は紙へ目を落とした。
「あるな」
貴丸は頷く。
二枚目。
「こちらはいかがでしょう」
「ない」
三枚目。四枚目。五枚目。六枚目。
広間はいつしか水を打ったような静けさに包まれていた。誰もが氏親と貴丸のやり取りを見守っている。
貴丸は六枚の紙を一瞥してから静かに重ねた。
そして一度だけ目を閉じる。考えているように見える。実際には頭の中で足し算をしているだけだった。
やがて目を開く。広間の視線が一斉に集まる。
貴丸は静かに口を開いた。わずかな間。
「失礼ながら――氏親様がお選びになった数字は、四十八ではございませぬか」
その瞬間だった。桂様の目が大きく見開かれる。
氏親も驚いた顔で伏せていた紙を持ち上げた。
そこには確かに、『四十八』と記されていた。
「おおっ!」
広間がどよめく。
「当たったぞ!」「見事!」「なんということだ!」
家臣たちの驚きが一斉に広がった。
泰能などは、なぜか自分が褒められたかのように胸を張っている。
氏親は愉快そうに声を上げて笑った。
「見事である!」
その一言に広間の空気がさらに和む。
元伯と忠家もようやく肩の力を抜いた。どうやら今回は余計なことを言わずに済んだらしい。
二人はそっと胸を撫で下ろす。
だが当の貴丸はというと、
――よし、褒美確定。そんなことしか考えていなかったのである。
氏親はまだ興味を失っていなかった。貴丸の脇に残された紐へ目を向ける。
「そういえば先ほど、紐も所望しておったな」
貴丸が顔を上げる。
「紐でも何か出来るのかのう?」
その問いに貴丸は小さく頷いた。
「簡単な手力でしたら、いくつか」
氏親の目が愉快そうに細まる。傍らの桂様も興味を隠さず身を乗り出していた。
「ならば見せてもらおうではないか」
貴丸はちらりと氏親を見る。
「それは……追加の褒美を期待してもよろしいので?」
広間が静まり返った。
元伯が顔を覆う。忠家は天井を見上げた。泰能などは「やはり言ったか」という顔である。
しかし氏親は腹を抱えて笑った。
「はっはっはっ! 抜け目のない童よ! よい。期待して構わぬ」
広間にも笑いが広がる。その言葉を聞いた瞬間、貴丸の目が明らかに輝いた。
「ありがたき幸せ」礼だけは妙に立派である。
貴丸は紐を手に取った。
「まずはこれを適当に切りまして」
小刀で紐を断つ。小姓が思わず身構えるが、貴丸は気にする様子もない。
やがて紐の両端を結び、一つの輪を作った。
「ご覧くだされ」輪になった紐を掲げる。
そして自分の首へするすると巻きつけた。
「さて、このまま引っ張ればどうなりますかな」
重臣の一人が即座に答える。
「首が締まるであろう」「左様左様」
貴丸は頷く。
「普通ならばそうですな」
次の瞬間だった。
貴丸が紐を引く。誰もが首へ食い込むと思った。
しかし――。するり。
紐は何事もなかったように首を抜け、貴丸の両手の間へ現れた。
「なにっ!?」「おおっ!」
広間がどよめく。氏親も思わず前へ身を乗り出した。
貴丸は得意げに顔の前に両手を広げて言う。
「これが”手力”にございます」
今度は拍手が起こった。氏親も笑いながら手を打つ。
大方様も楽しそうに微笑んでいる。
貴丸はさらに隣の小姓を呼んだ。
「少々お借りいたします」
小姓は緊張しながら前へ出る。
貴丸はその腕へ紐を掛けた。誰が見ても腕に引っ掛かっている。
「では」
軽く引く。ただそれだけだった。
だが紐は腕をすり抜けるように消え、貴丸の手元へ戻っていた。
「おお!」「どうなっておるのだ!」
再び広間が沸く。
今度は家臣たちまで前のめりになっている。氏親は完全に子供のような顔になっていた。
「まだあるのか?」
「では、最後に一つだけ。これは正面からご覧になる方だけがお楽しみいただけます」
貴丸は頷いた。
そう言って氏親の方へ向き直る。両手を大きく開いた。真顔で続ける。
「実は私の親指は不思議にございまして。伸びたり縮んだり、時には取れたりいたします」
広間のあちこちで失笑が漏れた。
何を言っているのだこの童は。そんな空気だった。だが次の瞬間。
氏親の目が見開かれる。
親指が――伸びた。
あり得ぬほどに。そして縮む。
さらに。ぽろりと取れた。
「ひっ!」思わず桂様が小さな悲鳴を上げた。
氏親も絶句する。
ところが横から見ていた家臣たちは、
「ああ!」と一斉に声を上げた。
仕掛けに気づいたのである。
「なるほど!」「そう見せるのか!」「見事なものよ!」
感嘆が広がる。
貴丸は今度は横を向き、ゆっくりと種明かしになるような動きを見せた。
すると今まで驚いていた氏親も、「そういうことか!」と膝を打つ。
だが仕掛けが分かってなお感心は消えない。
むしろ増していた。氏親は立ち上がった。
顔には心から楽しそうな笑みが浮かんでいる。その声が広間へ響く。
「見事! 貴丸殿、天晴なり!」
続けた。
「これほど人を驚かせ、広間を笑わせた者は久しく見ぬ 日の本一の手力よ!」
氏親は大きく頷く。
広間中から拍手が巻き起こった。泰能も笑っている。
元伯と忠家は苦笑していた。
「まったく……相も変わらず」そう呟きながらも、口元は緩んでいる。
元伯はというと、誇らしいような、頭が痛いような、なんとも言えぬ顔だった。
孫が褒められるのは嬉しい。
だが、その褒められている理由が手力というのが何とも言えなかった。
そして当の貴丸は。
深々と頭を下げたまま、誰にも見えぬよう口元を緩める。
――よし。
――褒美マシマシ確定。
それだけを考えていた。