作品タイトル不明
第117話 挨拶だけでブチかまし
そして一行は、今川氏親との謁見の日を迎えていた。
今川家よりあてがわれていた寺を後にし、朝の冷気の残る外へ出ると、今川方の案内役が待っている。礼節を崩さぬ武家の男であり、挨拶を終えると、淡々とした口調で「こちらへ」とだけ告げると、一行を先導して歩き始めた。
寺から今川館までは、さほどの距離ではない。駿府の町は整然と区画され、道は無駄なく伸び、家々は過不足なく並び、行き交う人の動きすらどこか規律を帯びている。
貴丸は最初こそ源助の負傷もあって周囲を見る余裕がなかったが、改めて目を向けると、そこには戦の気配よりも、人の手で整えられた静かな秩序が広がっていた。
「……へぇ」
思わず小さく声が漏れる。川筋を活かした水路、商人の屋敷、寺社の配置、そのどれもが無駄を避けて組み上げられている。勢いで広がった城下というより、最初から形を決めて作られた町という印象だった。
やがて道の先に、今川館の姿が現れる。
それは一般に想像されるような城ではなかった。高い天守もなければ、むき出しの軍事要塞でもない。
ただ堅牢な塀と堀が館全体を囲み、その内側に落ち着いた大きな屋敷が据えられている。守りと政と暮らしが一体になった“武家の館”だった。
さらに北側には、ひときわ目立つ砦が見える。厚い壁と高低差を活かした造りで、いざという時に最後に立てこもるための場所だと分かる構造だった。
貴丸はその配置を見て、妙に納得していた。
――――ここは、慌てて守る場所じゃない。最初から守れる形に組み上げてあるのだと。
館の門を抜けると、内側には整えられた庭が広がっていた。石と松と水の流れが計算されたように配置され、小さな橋が庭を渡している。建物だけでなく、空間そのものが秩序として出来上がっていた。
案内役に控えの間へ導かれる。入ると室内は静かで、火鉢の熱がほどよく空気を満たしていた。茶と菓子が用意され、待つだけの部屋なのに、不思議と落ち着いた空気が流れていた。干菓子のほか、焼き栗の素朴な香りも混じっている。
やがて元伯がふと貴丸へ視線を向ける。
「貴丸はここで待っているのか? 無理には誘わぬがな」
貴丸は茶をひと口すすり、肩をすくめた。元伯へだけ小声で言う。
「なんか、めんどそうだから、ここでお茶と菓子食べて待ってるよ」
即答だった。脇でそれを聞いた桑折忠家が苦笑しながら言葉を挟む。
「今川様とお会いする機など、そうはござらぬぞ。……お会いして見るのも一つではござらぬか」
貴丸は即座に首を横へ振った。
「いやー、ここで待ってます! 俺、たぶん余計なこと言うんで!」
その言葉に忠家は一瞬だけ視線を外す。これまでの騒動を思い返したのだろう。
「……まあ、そう言われると、否定しづらいですな」
ぽつりとそう漏らし、諦めたように頷いた。元伯も小さく苦笑する。
控えの間は、茶は香り高く菓子は素朴ながら上質だった。寺よりも整えられたもてなしの中で、貴丸はふと息を吐く。
「ここも悪くないなぁ」
外では駿府の町が規律正しく流れ、今川館では政が動き始めている。その中心へ向かう者と、ここに留まる者。その中で、貴丸だけが平然と菓子をつまんでいた。
そして元伯と忠家が呼ばれて席を外すと、控えの間には今川の接客役の者だけが残された。
静けさが落ちた途端、貴丸は気が抜けたように横になった。干菓子をぼりぼりと噛み、焼き栗を指で放り上げては口に入れる。まるで謁見が遠い場所の出来事のような、だらけきった姿である。
そこからどれほどの刻が過ぎただろうか。
やがて、襖が静かに開いた。泰能だった。
だが貴丸はそれに気づかない。半ば横に体が寝たまま菓子を食べ続けている。
泰能は無言で近づき、その肩を軽く叩いた。
「――っ」貴丸は驚いて喉を詰まらせる。
「おいおい」泰能は慌てて背を叩いた。すると咳とともに、焼き栗がいくつか口から転がり出る。
泰能は呆れたように息を吐いた。「……いったい何個食うておるのだ」
ようやく貴丸が顔を上げる。「あっ、弥太さ……いや、朝比奈様。どうしたの?」
泰能は少し声を落とした。
「殿が貴丸殿に興味をお持ちになってな。呼んでおられる。一緒に来てもらう」
その言葉に、貴丸は露骨に嫌そうな顔をした。
泰能は小声で続ける。
「私の前ならよいが、殿の前ではその顔はするなよ」
貴丸は渋々立ち上がり、菓子の皿から手を離そうとしたが、最後に焼き栗を一つ口に放り込んだ。
控えの間を出ると、廊下の空気は一段と張り詰めている。貴丸は大広間の前で足を止めると、小さく頬を両手で叩いた。
その横へ、泰能が歩み寄る。声を落とし、短く釘を刺すように言った。
「貴丸殿。殿の前では大人しくしていろよ」
そして、視線をわずかに細める。
「ただ、礼を尽くして頭を下げておればよい。それ以上は要らぬ」
それだけ言うと、泰能はすぐに身を引いた。
「私は先に入っておる」
そう言い残し、静かに広間へ向かう。
貴丸の表情がすっと変わる。
次の瞬間には、さきほどまでの不精な童ではなく、礼を心得た者の顔になっていた。
そして静かに入室する。
所作は過不足なく、礼儀は寸分の乱れもない。まるで古今の典礼を身に染み込ませたかのような動きだった。
その姿を見た氏親は、思わず目を細める。
京より下向した公家の礼法にも通じる者がこの駿府にはいるが、そのいずれにも劣らぬほどの完成度であった。
「……ほう」泰能もまた、内心で息を呑む。
先ほどまで干菓子を転がしていた童と、今目の前にいる人物が同一とは思えない。
元伯と忠家は背後でその変化に気づかぬまま、ただ「また何かやらかしたのでは」とだけ冷や汗を浮かべていた。
だが貴丸の内心は一つだった。
――あー、めんどいな。それだけである。
氏親の視線が、なおも貴丸に注がれていた。
その空気の中で、貴丸は一度だけ息を整えると、すっと姿勢を改めた。
静かに、しかし淀みなく口を開いた。
「――恐れながら申し上げます」
場の空気が一段締まる。
「陸奥国標葉郡請戸を知行いたします、大和田玄蕃之丞慶久が嫡男、貴丸にござります」
一言一言に無駄がない。声は幼さを残しながらも、礼法としては寸分の乱れもなかった。
「今川修理大夫様には、初めての御目通りを賜り、恐悦至極に存じます」
言い終えると、深く一礼する。
深く頭を下げる。幼いながらも乱れのない最も整った礼だった。
泰能がわずかに目を見開いた。(……ここまで出来るのか)
控えていた者たちの間にも、微かなざわめきが走る。
氏親はしばし沈黙していた。そして、ゆっくりと息を吐く。
「……見事であるな」静かな一言だった。
貴丸が顔を上げる。
氏親はそのまま続けた。視線が鋭さを帯びる。
「先ほどの入室の所作とよい、今の名乗りとよい、どこでそのような礼を身につけたのだ?」
氏親は小さく笑った。
「公家衆の礼法に通じる者は我が館にもおるが……今のそれは、彼らのものともまた違う」
少し間を置き、言葉を重ねる。
「武家の礼でありながら、無駄がない。崩れもない。かといって固くもない」
氏親は貴丸を見据えたまま、静かに結論を落とした。
「幼き身にして、よくぞそこまで整えたものよ」
泰能の背中に、じわりと冷や汗が滲む。(あれは……普段の顔ではない。いや、普段がどちらなのだ)
貴丸はというと、褒められているのは分かっているが、実感が薄い顔でぽつりと呟いた。
「いや……別に、普通に挨拶しただけですけど」
その一言に、氏親はわずかに目を細める。
「“普通”とは、面白いことを申すな」
だがその声には、すでに興味だけでなく、確かな観察の熱が混じっていた。
ふと貴丸の視線が、氏親の傍らへ向いた。一段高い座には、一人の女が静かに坐している。
年齢はよく分からない。年若く見えるが、漂う気配は落ち着いていた。腹はわずかに大きく、懐妊していることが見て取れた。
派手な装いではない。むしろ色合いは落ち着いている。しかし、その場にいるだけで自然と目が向いてしまう不思議な存在感があった。
整えられた衣、乱れのない姿勢、指先に至るまで隙のない所作。そして白粉を引いた顔。
灯りを受けた肌は白く滑らかで、まるで磁器細工のように見える。だが貴丸の目を引いたのは、その白さではなかった。
静かな眼差しだった。氏親が話している間も、家臣たちが息を潜めている間も、その女は何一つ口を挟まない。ただ黙って場全体を見渡している。
まるで一人ひとりを見ているようでいて、同時に場そのものを眺めているような目だった。
(うわ……)貴丸は思わず内心で呟く。
この時代の白粉って、たしか鉛入りだったよな……いや、そんなこと考えてる場合じゃないか)
――あれが、えぇと、確か、寿桂尼? さんかな。
まだ確信はない。だが、この場に流れる空気だけで分かることがあった。
この広間の主は氏親である。だが、その隣に坐る女にもまた、人を黙らせる何かがあった。
女は何も語らない。それでも、その沈黙には妙な圧があった。
視線が一度だけ貴丸へ向けられる。探るでもない。試すでもない。ただ静かに覚えておく。そんな目だった。
その一瞬だけで、貴丸は妙な確信を抱く。
――この人、絶対に頭が良さそうだな。しかも敵に回したら厄介だ。そう思った。
元伯は正面に座る氏親の顔を見ながら、内心では気が気ではなかった。
貴丸が呼ばれた時から嫌な予感はしていたのである。あの孫は確かに利発だ。だが同時に、何を言い出すか分からぬ。
これまでにも幾度となく周囲を驚かせてきた。本人に悪気はないのだが、思いついたことをそのまま口にする癖がある。相手が村人であろうと武士であろうと変わらない。
ましてや今の相手は今川氏親。天下にもその名を知られた名門今川家の当主である。
(頼むから余計なことは申すなよ……)元伯は表情こそ崩さなかったが、内心では何度もそう念じていた。
だが、不思議なことに氏親の機嫌は悪くなるどころか、むしろ良い。
視線は後ろの貴丸へ向けられ、口元には興味深そうな笑みすら浮かんでいる。氏親ほどの人物が、一人の童の所作にここまで目を留めること自体が異例だった。
(いったい何をしたのだ?)気になって仕方がない。
しかし謁見の最中である以上、後ろを振り返るわけにもいかない。元伯は氏親の反応から推し量るしかなかった。
やがて氏親の口から称賛の言葉が聞こえた時、元伯はわずかに目を見開く。
同時に胸の奥が熱くなった。誇らしかった。
普段は縁側で寝転び、妙なことばかり考えている孫である。だが、その孫が今、今川氏親に認められている。
それは祖父として素直に嬉しいことだった。
同時に思う。あやつは本当に何者なのだろうな、と。
以前、誰かが冗談半分に言ったことがあった。
――神仏の御使いではないのか、と。
元伯はその時こそ笑い飛ばした。だが今は、ほんの少しだけ、その言葉を思い出してしまう。
もちろん本気で信じているわけではない。
それでも。(あやつは、本当に何者なのだろうな……)
氏親の称賛を聞きながら、元伯は静かにそう思うのだった。