作品タイトル不明
第116話 源助の「正直、すまんかった」謝罪
そして貴丸は挨拶もそこそこに、元伯に猫の子のように首根っこを掴まれ、そのまま連れ帰られていった。
騒がしかった一日がようやく終わり、部屋には静けさが戻る。泰能は疲れたように大きなため息を吐いた。
その様子を見ていた菫が苦笑する。
「難儀でござりましたな」
だが、その場で一人だけ浮かない顔をしている者がいた。林宗閑である。先ほどからずっと難しい顔をしたまま黙り込んでいる。
泰能は不思議そうに声を掛けた。
「どうなされました、宗閑殿」
宗閑はしばらく考えるように視線を落としていたが、やがて静かに口を開いた。
「あの童は……いったい何者なのでござろうな」
菫が首を傾げる。
宗閑は真剣そのものの表情だった。
「泰能殿。あれは本当に人でござるか? 神仏の御使いであると言われても、今の私は否定できませぬ」
菫が思わず目を丸くした。
だが泰能も笑えなかった。確かに貴丸は常人とはどこか違う。
考えることも、やることも、言うことも訳が分からぬ。それでも、今までは変わった童だと片付けていた。
しかし今日の療治だけは違う。
あの傷を見た時、泰能は足を切り落とすことになるだろうと見ていた。それを、あの童は迷いなく処置してみせた。しかも何をしているのか誰にも分からぬままに。
宗閑は静かに息を吐いた。
「まあ、今は考えても仕方ありますまい」
そう言うと傷だらけの男へ視線を向ける。
「ここから先は拙者が診ましょう。今のところ容態は安定しております。傷の周囲の熱も少し落ち着いておりますゆえ、このまま数日もすればだいぶ癒えましょう」
泰能は安堵したように頷いた。
「明朝また参ります」宗閑はそう言い残して帰っていった。
その夜は何事もなく更けていった。
翌朝。約束通り、宗閑が再び屋敷を訪れていた。
男の様子を見に行った侍女が突然声を上げた。
「なりませぬ! なりませぬ!」
慌てて泰能が部屋へ飛び込む。すると傷だらけの男が身を起こし、這うようにして部屋を出ようとしていた。
立ち上がることすらできない。それでも必死に進もうとしている。
「何をしておるのだ」
泰能が慌てて止める。
男は驚いたように顔を上げた。
そこでようやく、自分が泰能の家で寝かされていることを理解したらしい。
泰能は苦笑した。
「まだ寝ておりなされ。傷が癒えるまでここにいて構わぬ」
男はしばらく黙っていたが、やがて深々と頭を下げた。
「かたじけない。挨拶が遅れ申した。拙者、三河国宝飯郡牛窪の者にござる。名を大林源助と申す」
掠れた声だった。そう名乗ると、さらに頭を下げる。
「この度は命を救っていただき、誠にありがとうございます。この御恩、生涯忘れませぬ」
だが顔色は悪い。まだ熱が残っているのだろう。無理に動いたせいか、左腿に巻かれた布から血が滲み始めていた。
泰能は呆れたように笑う。「だから寝ておれと言うておる。もうすぐ薬師も来る。まずは体を休めなされ」
そして寝具へ戻させた。
その言葉に緊張の糸が切れたのか。源助は再び深い眠りへ落ちていった。
やがて宗閑が訪れる頃には、源助も目を覚ましていた。
「そのまま寝ておりなされ」
宗閑は傷口を確認すると、小さく頷いた。傷の周囲を指先で確かめ、熱の具合を見た後、ようやく口を開く。
「容態は安定しておりますな」
泰能が尋ねる。「助かるか?」
「命はまず大丈夫でしょう。ただし、はっきりとは申せませぬが……その左足は治ったとしても引きずるやもしれませぬ」
宗閑はそう答えたが、表情は少しだけ曇った。
源助は黙って聞いていた。
「それと目でございますな。こちらは治ってみねば分かりませぬ」
源助は静かに頭を下げた。
「それでも十分でござる。ありがとうございます」
すると泰能が笑った。
「礼を言う相手が違うぞ。そなたの傷を手当てしたのは、ほれ、あの童よ」
源助が顔を上げる。
「……童?」
源助は目を見開いた。
宗閑も頷く。
「そのまま放置しておれば命を落としたか、あるいは左足を切り落とすことになったやもしれませぬ」
源助は目を見開いた。あの気の抜けた童が。あの小さな手で、自分の命を救ったというのか。
それからしばらくして。表の方から誰かを迎える声が聞こえてきた。
菫が席を立ち、玄関へ向かう。やがて足音が近づき、障子がすっと開いた。
「こんちゃー」
間の抜けた声と共に、貴丸がひょっこりと顔を覗かせる。
途端に部屋の空気が少しだけ緩んだ。その後ろでは三兵衛が申し訳なさそうに深く頭を下げている。
貴丸はそんなことなど気にも留めず、ずかずかと部屋へ入り、真っ先に宗閑へ視線を向けた。
「どすか?」
宗閑は小さく頷く。
「どうやら峠は越えましたぞ」
「おー、よかったね」
貴丸は素直に笑った。その笑顔には打算も見返りを求める気配もない。
ただ純粋に助かったことを喜んでいるだけだった。
そして安心したように肩の力を抜くと、その場へぺたりと腰を下ろした。
すると泰能が源助へ視線を向けた。
「ところで、その怪我はどこで負ったのだ」
源助はしばらく黙り込んだ。話すべきか迷っているようにも見えたが、やがて観念したように息を吐き、静かな声で語り始める。
「武者修行にござる。拙者、立身出世を志し、家を飛び出して諸国を巡っておりました」
そしてため息を一息ついた。
「その途中、伊賀を通った折に道端で行き倒れている母子を見つけましてな。痩せ細り、今にも死にそうな有様でございました」
そこまで言うと、源助は苦く笑った。
「放ってはおけませなんだ。食を分け、水を飲ませました。すると母親が涙を流して礼を申すのです。そして礼をするものがないと言い、その身を預けるとまで申しました」
この時代、それ自体は決して珍しい話ではない。飢饉や戦で家を失った者は多く、女が生き延びるために身を売ることもあった。
源助は続ける。
「さらに家が近くにあるから送ってほしいと頼まれましてな。情も通じたことですし、そのまま付いて行ってしまったのでござる」
そこまで聞いたところで、泰能が大きく息を吐いた。
「それで付いて行ったのか」
「……はい。今思えば愚かでございました」源助は視線を落とした。
だが泰能は首を横に振る。
「助けようとしたことまで愚かとは思わぬ。だが世の中には恩を仇で返す者もおるからな」
源助は力なく笑った。「まことに、その通りでござる」
そして再び語り始める。
人気のない場所へ案内されたこと。そこで野武士どもが現れたこと。そして、その母子もまた仲間だったこと。
誰も口を開かなかった。宗閑は視線を落とし、菫も言葉を探すように黙り込む。
「十人ほどに囲まれましてな。左足を斬られ、顔にも傷を負いました。持ち物も金も全て奪われ申した」
淡々とした語り口だったが、その光景の悲惨さは十分に伝わった。
泰能が腕を組む。
「……生きているだけでも大したものだな」
だが源助は首を横へ振った。
「運が良かっただけにござる。あの時は死ぬと思いました」
話し終えると、源助は天井を見上げながら自嘲するように笑った。
「見事なまでに騙され申した。されど今さら故郷へ戻ることもできませぬ。立身出世すると大口を叩いて家を出た身にござるゆえ」
誰もすぐには言葉を返せなかった。源助はしばらく沈黙した後、さらに続ける。
「志摩から船に乗り、清水湊へ流れ着きました。せめて駿府ならば何か道があるやもしれぬと思いましたが、道中で力尽きたという次第にござる」
語り終わると部屋は静まり返った。その沈黙を破ったのは泰能だった。
「なるほどな。ならば、これからどうするつもりだ」
源助は少し驚いたような顔になる。
傷の話を聞かれることはあっても、その先を問われることはなかったのだろう。しばらく考え込んだ後、ゆっくりと首を振った。
「分かりませぬ。今は命を拾ったばかりにござる。まずは歩けるようにならねば何も始まりませぬ」
その言葉には実感がこもっていた。足が治らねば働くこともできない。働けなければ食うこともできない。立身出世など、その遥か先の話だった。
泰能はしばらく源助を見つめていたが、やがて尋ねる。
「仕官口を探すつもりか」
「できることなら。それが叶わぬなら雑兵でも、荷運びでも構いませぬ。食っていかねばなりませぬので」
源助はそう答えた。
泰能は小さく息を吐く。「仕官というものは簡単な話ではない」
「承知しております」源助も苦笑した。
それでも諦めるつもりはないのだろう。
その返答を聞き、泰能の表情がわずかに和らぐ。
「まあ、今は先のことを考えるより療治に専念せよ。歩けぬ者を召し抱える家は少ない。まずは体を立て直すことだ。話はそれからでも遅くはあるまい」
源助は深く頭を下げた。「かたじけない」
「礼なら傷が治ってからでよい。まずは生き延びることを考えよ」
その時だった。横で話を聞いていた貴丸が、ぽつりと口を開く。
「とりあえず峠は越したみたいだし、よかったよかった」
その一言で張り詰めていた空気が少しだけ緩む。当の本人は満足そうに立ち上がると、そのまま帰ろうとした。
すると泰能が思い出したように声を掛ける。
「そうだ、貴丸殿。氏親様との謁見は明日だったな。私も同席することになっておる。よろしく頼む」
「あー、うん。そだね。よろしくっすー」
返事は相変わらず軽い。まるで近所の知り合いと約束でもしているような気安さだった。
その後ろで三兵衛が丁寧に頭を下げる。
「失礼いたします」そして二人は部屋を後にした。
残された源助は、その背中をしばらく見つめていた。命を救ってくれた不思議な童。
源助は障子の向こうへ消えた背中を見つめていた。あれほど気の抜けた童は初めて見た。だが、自分は今も生きている。その事実だけは変わらない。
やがて泰能も見送りのため玄関まで出る。
貴丸の後ろをついて歩いていると、貴丸がふと思い出したように振り返る。
「あの人さ、弥太さんの口利きで仕官とかできないの?」
唐突な問いだった。だが泰能は少し考えた後、首を横に振る。
「難しいな。私はこれでも今川家の家臣だ。その者がどのような人物かも知らずに推挙はできぬのだ。腕が立つのか、忠義者なのか、あるいは問題を起こす者なのかも分からぬ者を薦めることはできん」
そして少し真面目な顔になる。
「軽々しく人を薦めれば、何かあった時には薦めた者以外に、一族の者にまで類が及ぶこともある。人を推挙するというのは、それほど軽い話ではない」
それはこの時代では当たり前の認識だった。人を薦めるということは、自らの名と信用を差し出すことでもある。
貴丸は素直に頷いた。
「そっかー。そういうものなんだ。難しいね」
「そういうものだ」泰能も頷く。
それ以上の話は続かなかった。貴丸も納得したのだろう。
「そっかー。じゃあ今は無理か」
少し考え、「でも、元気になれば何とかなるかもしれないね」
泰能はその背中を見て苦笑した。
世の中はそんなに甘くない。だが、この童が言うと、不思議と本当に何とかなるような気がしてしまう。
そんなことを考えながら、泰能もまたその後を追って歩き出した。