作品タイトル不明
第115話 宗閑とおじじ
そしてようやく、傷だらけの男の治療を終えた。
貴丸たちは手や顔を洗い、身を清めると、ようやく一息つく。
男は今、別室の寝台で眠っていた。熱はまだ高い。だが先ほどまでの苦しげな唸り声は幾分落ち着いている。
やがて侍女たちが握り飯と汁物を運んできた。
貴丸は途端に顔を輝かせる。
「ごちになりやす!」元気よく叫ぶなり、握り飯へかぶりついた。
先ほどまで真剣な顔で傷を診ていたとは思えない。
三兵衛も恐縮しながら箸を取ったが、腹は正直だったらしい。二人とも夢中になって食べ始める。
泰能はそんな様子を見ながら苦笑した。
「先ほどまで人の命がどうこうと言っておった者とは思えぬな」
「お腹減ったんだもん」貴丸は口いっぱいに握り飯を詰め込みながら答えた。
菫は思わず袖で口元を隠す。
「ふふ……本当に不思議なお子どもどすな」
そうして慌ただしい食事が終わった頃だった。
泰能の家宰が、この地にいる薬師を伴って戻ってくる。やがて現れたのは、三十半ばほどの僧形の男だった。
派手さはない。だが、その名は駿府ではよく知られている。
京へ上り、かの田代三喜のもとで学び、今は今川家へ仕える薬師。
林宗閑であった。
「朝比奈様。お呼びと聞き参りました」
静かに一礼する。田代三喜は明の医学を学び、日本でも指折りの名医として知られる存在だった。
宗閑はその門で学び、今川家に仕える薬師の中でも一目置かれる男である。宗閑は挨拶もそこそこに、寝かされている男のもとへ歩み寄った。
熱に浮かされた顔。赤く腫れた目元。そして太腿の刀傷。
宗閑は膝をつくと、慎重に包帯をずらした。
その瞬間だった。宗閑の眉が、ぴくりと動く。
膿は既に抜かれている。傷も洗われていた。
本来なら最初に目にするはずの膿や汚れが見当たらない。その代わり、傷口には何やら薬草らしきものが塗られていた。
宗閑はしばらく無言で傷を見つめる。そして思わず口を開いた。
「……誰が膿を抜いたのでしょうか」
部屋の空気が少し変わった。貴丸がひょいと手を挙げる。
「あ、俺っちです」
その瞬間、泰能が呆れたように額へ手を当てた。
「なんだ、その『俺っち』とは……」
貴丸は悪びれもせず、えへへへ、と笑う。
だが宗閑は笑っていなかった。むしろ絶句していた。
目の前にいるのは、どう見ても十にも満たぬ童である。医家の弟子にも見えなければ、薬師見習いにも見えない。
宗閑は貴丸と傷口を何度も見比べる。やがて信じられぬという顔のまま呟いた。
「その童が……?」
その声には戸惑いが滲んでいた。だが宗閑はすぐ気を取り直し、改めて傷口へ視線を落とす。
「どのような処置をなされたのですかな」
貴丸は指を折りながら思い出すように答えた。
「ええと、まず傷を洗って、濃い酒を作って、それで傷の周りをきれいにして、刃物で膿を出した。それからドクダミとヨモギとセンブリを潰して、蜂蜜と酢と松脂を混ぜて傷へ塗ったかな」
そして少し考え込む。
「あ、あとセンブリを飲ませた」
宗閑は何も言わなかった。傷口を見る。薬草を見る。脇へ置かれた酒の器を見る。
そして再び傷口へ目を戻した。そのまま腕を組み、長いこと考え込む。
「むう……」低い唸り声だけが漏れる。
泰能も菫も、その反応を固唾を呑んで見守っていた。
やがて宗閑はゆっくりと口を開いた。
「手際は荒い」
その一言に、部屋の空気がわずかに張り詰める。だが宗閑は首を横へ振った。
「しかし、やっておること自体は間違っておりませぬ」
泰能の眉が上がる。宗閑は傷口を指し示しながら続けた。
「膿を抜いた判断は正しい。このまま放置しておれば、熱はさらに上がっていたでしょう。傷を洗ったのも良い」
そう言って薬草の残りへ目を向ける。
「蜂蜜も悪くない。ヨモギも理解できます」
だが、そこで言葉を切った。
「ただ、ドクダミはあまり傷へ使いませぬな。少なくとも私は聞いたことがない。センブリも本来は胃の腑を整える薬です。酢も腐りを抑えるために用いると聞いたことはありますが、このような使い方は珍しい」
そこまで言うと、宗閑は脇に置かれていた酒の器を手に取った。
匂いを確かめる。そして指先へ少量つけ、慎重に舌へ乗せた。次の瞬間、その表情がわずかに変わる。
「……濃い」
驚きは小さい。だが確かに驚いていた。宗閑は改めて器を見下ろした。
「これほど濃い酒は見たことがありませぬ」
泰能が苦笑する。「私もだ」
宗閑は再び酒へ目を落としたまま尋ねた。
「これを使って傷を洗ったのですかな」
「うん」
「しかも、自ら作ったと?」貴丸は少しだけ視線を逸らした。
「うん……一応」
宗閑はしばらく黙り込んだ。田代三喜のもとで学び、多くの病人や傷病人を診てきた。
戦場帰りの武者も見た。膿んだ傷も見た。命を落とした者も見た。だが、目の前の処置は妙だった。
理解できる部分もある。理解できない部分もある。理屈として説明できぬ箇所が少なくない。
それなのに、結果だけを見るなら悪くない。それが余計に不可解だった。
やがて宗閑は改めて貴丸へ向き直る。先ほどまでの半信半疑な目ではない。本気で相手を見極めようとする目だった。
「貴丸殿。これらの処置は、どなたに教わったので?」
貴丸はきょとんとした。そして首を傾げる。
「いや? 誰にも?」
宗閑の眉がぴくりと動く。「誰にも、ですかな?」
「うん」
貴丸はあっさり頷いた。
その瞬間、宗閑の顔が固まった。傷を洗う。膿を抜く。薬草を選ぶ。濃い酒まで作る。
それを目の前の童は、なんとなくの一言で片付けたのである。
宗閑は何度か口を開きかけた。だが言葉が出ない。
開いては閉じ、閉じては開く。やがてようやく絞り出した。
「……そんな馬鹿な話がありますか」
本気で言っている声だった。
するとその時、廊下の方から侍女の声が聞こえてきた。
どうやら来客らしい。泰能と菫は顔を見合わせる。
「少し見て参る」
二人は席を立ち、部屋を出ていった。
残された宗閑は腕を組んだまま、じっと貴丸を見つめている。まるで珍しい薬草か、見たことのない生き物でも観察するような目だった。
貴丸は少し居心地が悪くなったらしい。
もぞもぞと身体を動かし、視線を逸らした。
泰能と菫が玄関へ向かうと、そこには一人の老人が立っていた。
旅装を整えた僧形の老人である。その顔を見た瞬間、泰能の目がわずかに見開かれた。
「……元伯殿ではございませぬか。なぜこちらへ?」
思わず一歩前へ出る。すると元伯は少しばつの悪そうに頭を掻いた。
「どうやら、うちの孫がこちらでご迷惑をお掛けしておると聞きましてな」
その言葉に泰能はきょとんとした。
「お孫さん?」
元伯は苦笑する。
「落ち着きのない童です」
その瞬間、泰能の中で何かが繋がった。
「まさか……では貴丸殿は、元伯殿のお孫さんでしたか」
思わず目を丸くする。
元伯は観念したように頷いた。
「そういうことですな」
泰能は何度も頷いていた。
氏親へ陸奥の領主が謁見に来るとは聞いていた。だが、それが元伯一行だとは知らなかったのである。
元伯はかつて宗長とともに駿府を訪れた高僧として知られていた。
だからこそ、領主の一族と結び付かなかったのだ。だが今になってみれば妙に納得できる。
泰能は苦笑を浮かべた。
「なるほど……そういうことでしたか。貴丸殿が元伯殿のお孫さんだと聞いて、ようやく合点がいきました」
「何がですかな?」
元伯が怪訝そうに尋ねる。
泰能は少し肩を竦めた。
「正直なところ、あのような童は初めて見ました」
元伯が目を閉じる。嫌な予感しかしない顔だった。
泰能は構わず続けた。
「手力などという妙な芸を見せたかと思えば、山賊の真ん中へ馬で突っ込み、挙げ句の果てには薬師でもないのに傷の手当てまで始めましてな」
そこまで聞いた元伯は額へ手を当てた。
「……やはり何かやりましたか」
疲れ切った声だった。
泰能は真面目な顔で頷く。
「大いに」
元伯は深々とため息を吐いた。
その様子に、今度は泰能が苦笑する。
「なんと言いますか……破天荒なお孫さんですな」
元伯も観念したように頷いた。
「否定できませぬな」
二人の目が合う。そして揃って苦笑した。
短い時間ではあったが、貴丸という存在がどれほど規格外かについては、互いに十分理解していた。
やがて泰能が懐かしそうに目を細める。
「そういえば元伯殿。宗長様とともにこちらへお越しになったのは、もう十年以上前になりますかな」
元伯も静かに頷いた。
「そうですな。わしも歳を取りました」
そこで少し笑う。だがその笑みはどこか寂しげだった。
「あの後も色々ありましてな。今では右腕も、ご覧の通りです」
そう言って、あるはずのない右腕の先へ視線を落とした。
泰能は何も言わない。ただ静かに頷くだけだった。
しばし流れた沈黙を破ったのは菫だった。一歩前へ出ると、柔らかく微笑む。
「お孫様なら奥にいてはりますえ。どうぞこちらへお上がりやす」
京育ちらしい穏やかな言葉だった。
元伯は軽く頭を下げる。
「かたじけない」
そして菫の案内に従い、屋敷の奥へと歩き出した。
泰能もその後ろへ続く。やがて三人は、貴丸たちの待つ部屋へ向かうのだった。
そして入ってきた人物を見た瞬間、貴丸の顔がぱっと明るくなる。そこに現れたのは元伯だった。
「あっ、おじじ」
元伯は部屋へ足を踏み入れるなり、薬草の匂いと寝かされている傷だらけの男を見て、目を閉じる。
そして深々とため息を吐いた。
「お前はまた何をやっておるのだ……まったく…」
呆れ半分、諦め半分の声だった。
貴丸は少し考える。それから自分なりに結論を出した。
「えぇと……人助け、かな?」
元伯はしばらく貴丸を見つめていた。
そして再びため息を吐く。
今度のため息は、先ほどのものよりずっと長かった。