作品タイトル不明
第114話 チーム・タカマルの栄光
そして、貴丸はしばし傷だらけの男を見つめていた。
荒い呼吸。熱に浮かされた顔。片目へ巻かれた布から漂う膿の臭い。太腿の傷は赤黒く腫れ上がり、触れずとも熱を持っているのが分かる。
このまま放っておけば危ない。貴丸は小さく息を吐き、振り返った。
「弥太さん。この家に酒ってどのくらいあるの? うん。できればいっぱいほしい」
泰能が怪訝そうに眉を寄せる。
「酒?……家にあるのは一升ほどだな」
貴丸は少し考え込んだ。それから顔を上げる。
「できるだけ酒精が強い酒を、二、三升くらい買ってこれる?」
「何に使うのだ?」
「薬作る」即答だった。
泰能は一瞬黙る。だが、貴丸の顔を見て、それ以上は聞かなかった。
いつもの悪戯顔ではない。本気の顔だった。
「……分かった」
泰能は後ろに控えていた家宰へ振り向く。
「酒を買って参れ。できるだけ酒精の強いものを三升ほどだ」
家宰が慌てて頭を下げ、屋敷を飛び出していく。
すると貴丸はさらに言った。
「あと、厨貸して。それと水、鍋、蓋、竹筒、濡れ布、水桶……あと皿みたいなのあるかな」
菫が目を瞬かせる。
「……それで、お薬をお作りになるのですか?」
「うん。たぶんね」たぶんとは言え、だが妙に自信がある顔だった。
泰能は額を押さえた。
「おぬし、本当に何者なのだ……」
貴丸は聞いていない。
すでに厨へ向かって歩き始めていた。
「三ちゃん! じいさん、もう駿府入ってるよね? 泊まる旅籠わかる?」
「はい…おそらくは」
「ドクダミ、ヨモギ、センブリ、松脂、あと蜂蜜持ってると思うから持ってきて!」
三兵衛は一瞬だけ目を細めた。だが何も聞かず頷く。
「承知しました」
そのまま駆けるように屋敷を出ていった。
厨へ入った貴丸は、すぐ周囲を見回した。大鍋。木桶。竹筒。使えそうなものを受け取っていく。
侍女たちは何が始まるのか分からず、おろおろしていた。
貴丸は鍋へ酒を注ぐ。とぷ、とぷ、と白濁した酒が落ちる。
「たしか……酒の蒸気は水より先だよな……八十位だっけ……」
誰へ言うでもなく呟く。そして鍋へ蓋を逆向きに被せ、その隙間へ竹筒を通した。竹筒の先には受け皿。
さらに竹筒へ濡れ布を巻き、水をかける。
即席の蒸留器だった。菫が目を丸くしている。
「……これ、何をしてはるんどす?」
「酒精をもっと強くするんだよ」
「はあ……?」意味が分からない。だが貴丸は真剣だった。
火が入る。やがて鍋が温まり始めると、酒気を含んだ湯気が竹筒を通る。
貴丸は沸騰しないように細心の注意を払っている。すると、濡れ布で冷やされた先端から――。
ぽたり。透明な雫が落ちた。貴丸の目が少し光る。
「お、出たな」
泰能が横から覗き込む。
「……酒か?」
貴丸は雫を指につけ、少し舐めた。次の瞬間、顔をしかめる。
「うわっ、濃ゆっ」
それを見て、泰能の眉が上がった。
「本当に酒なのか……?」
「たぶんね」また、たぶんだった。
だが作業の手は止まらない。酒が届くたび、鍋へ継ぎ足していく。
やがて屋敷中へ酒の匂いが広がり始めた。侍女たちがひそひそ囁く。
「朝比奈様が昼から酒盛りをしてはるんどすか?……」
「違うわよ、あの童が……」「いやでも、三升って……」
菫だけは黙って見ていた。
貴丸の手際が妙に迷いない。だが同時に、どこか危ういようでもあった。
知っているようで、知らぬままやっている。そんな不思議な手つきだった。
やがて――。三升近い酒を使い切った頃。
受け皿へ溜まっていた液体は、ほんの僅かだった。竹筒へ移しても、せいぜい小椀一杯ほど。
貴丸はそれを見て、むう、と唸る。
「……やっぱ効率悪いよな」
泰能は呆れたように言う。「三升の酒を使って、それだけなのか」
「でも濃ゆいからたぶん大丈夫」何が大丈夫なのかは分からない。
そこで貴丸は振り返った。「あ、酢ある?」
菫が「ございます」と答えるより先に、侍女が駆けていく。
しばらくして、小壺に入った酢が運ばれてきた。
貴丸はそれを受け取ると頷いた。
「ありがと」
そして今度は泰能を見る。「弥太さん。薬研ある?」
「薬研まで使うのか……」呆れながらも、泰能は家宰へ命じた。
やがて薬研も運ばれてくる。
ちょうどその頃だった。三兵衛が戻ってくる。
肩で息をしながら、包みを差し出した。
「ドクダミ、ヨモギ、センブリ、松脂、それと蜂蜜です」
貴丸は頷く。
「よし、ありがと。三ちゃん」
その顔から、いつもの子供っぽさは消えていた。そして、そのまま傷だらけの男が眠る部屋へ向かっていく。
まるで、本当に医者のような顔で。
そして、貴丸は薬研の前へ座り込むと、ドクダミ、ヨモギ、センブリを放り込み、ごりごりと力任せに擦り潰し始めた。
薬草の青臭い匂いが部屋へ広がる。
その横では、傷だらけの男が荒い息を繰り返していた。
菫は袖を口元へ寄せ、わずかに顔をしかめる。
泰能も黙ったまま傷を見下ろしていた。
戦場帰りの傷など、いくらでも見てきた。だが、この腫れ方はまずい。
腐り始めているようだ。普通なら、足を落とす相談をする頃合いだろう。
やがて貴丸は薬研を置いた。
「よし」そう呟くと、泰能へ手を出す。
「弥太さん、刃物貸して」
泰能は少し迷った。だが無言で日本刀の小柄を抜き、差し出す。
貴丸はそれを受け取ると、先ほど作った強い酒を刃へ垂らした。
「これ、ちょっと火で焼くね」
そう言って、さらに燭台の火へかざす。刃がじり、と熱を帯びた。
その様子に、泰能の目が細くなる。「……何をしておるのか」
「えぇと、目に見えない悪いものがつかないようにしてる。たぶん、その方がいいからね」
相変わらず曖昧だった。だが妙に理にかなっていそうだ。
貴丸は次に布へ酒を染み込ませ、男の太腿の傷を拭き始めた。
その瞬間だった。
「ぐッ……!」気を失っていたはずの男が低く呻く。
熱で朦朧としているのに、それでも反応するほど痛むのだろう。
だが貴丸は手を止めない。
「めんごめんご。でも、たぶんこれやらないと死ぬからさ」
ぶつぶつ言いながら、膿と汚れを拭き取っていく。
布へ黄ばんだ膿がべっとりと移った。
侍女の一人が思わず顔を逸らす。菫も息を呑んでいた。
そして貴丸は傷をじっと見つめる。赤黒く腫れ、熱を持ち、中心が膨らんでいる。
「……膿、溜まってるな」そう呟くと、刃を持った。
泰能が低く聞く。「切るのか」
「少しだけね」貴丸の額にも汗が滲んでいた。手つきは決して慣れていない。むしろ危なっかしい。
貴丸は一度息を止める。そして、腫れた部分へ浅く刃を入れた。
次の瞬間。どろり、と膿が溢れ出す。強烈な臭気が広がった。侍女が小さく悲鳴を漏らす。菫も思わず顔を背けた。だが泰能だけは眉ひとつ動かさない。
貴丸は布で押し出すように膿を拭っていく。
「うわ、すげぇ出るな……」
嫌そうな顔をしながらも、手は止まらない。膿を逃がし、水で洗い、さらに酒で軽く清める。
男は苦しげに呻き続けていた。その後、貴丸は擦り潰したどくだみとよもぎへ蜂蜜と酢と最後に松脂を混ぜた。
とろりとした、濃い緑色の薬草になる。
「……これで多少は違うはずなんだけどな」
自信があるのかないのか分からない声だった。
それを布へ塗り、太腿の傷へ当てる。さらに視線を顔へ移した。巻かれていた布を外す。
そこには、目の横を深く裂いた古い刀傷があった。周囲は腫れ、膿が滲んでいる。
菫が思わず息を呑む。「まあ……」
だが貴丸は、今度は慎重だった。
「目はやばいな……触りすぎたら駄目だろうな……」
独り言のように呟きながら、酒で軽く周囲を洗う。
そして傷の周りへだけ、薬草と蜂蜜等を塗った布をそっと当てた。
最後に、センブリの粉を水へ混ぜる。途端、とんでもなく苦い臭いが立った。
「うわ、これ絶対まずそうだな。ま、俺が飲むんじゃないから、どうでも良いけど……」
そう言いながらも、貴丸は男の口を開け、水と一緒に無理やり飲ませる。
男の喉が、ごくり、と動いた。
それを見届けると、貴丸はようやく息を吐いた。
「……詳しくは分かんないけど、何もしないよりはマシだろ」
額の汗を袖で拭う。部屋は静まり返っていた。誰も口を開かない。
泰能は、しばらく貴丸を見つめていた。
戦場で傷を負った兵など、数え切れぬほど見てきた。腐った傷。熱を出した兵。足を落とすしかなくなった武者。
そして、そのまま死んでいった者たち。
それが当たり前の時代だ。だが今、目の前の童は、その傷へ迷わず手を入れた。
手つきは未熟。だが判断だけは異様に的確なように見えた。
膿を逃がし。傷を洗い。腐りを止めようとしている。その発想そのものが、この時代では異質だった。
泰能は思わず呟く。
「……貴丸殿。おぬし、本当に何者なのだ」
貴丸は薬草まみれの手を見ながら、けろりと言う。
「ただの攫われっ子だけど?」
泰能は、深く深くため息を吐いた。