作品タイトル不明
第120話 竜王丸
氏親に呼ばれたのは、元伯、貴丸、桂殿、そして泰能の四人だけだった。
先ほどまで賑やかだった広間とは違い、私室には落ち着いた静けさがある。障子越しの光が柔らかく差し込み、香がほのかに漂っていた。
氏親は肩の力を抜いた様子で座ると、懐かしむように元伯へ目を向けた。
「元伯殿。そなたと初めて会うたのは、宗長が連れて参った時であったな」
元伯も小さく笑う。
「もうずいぶん昔の話にございますな」
氏親は頷いた。
「十年以上は経っておろう。あの頃は、まさかこうして元伯殿の孫と会うことになるとは思わなんだ。時というものは面白いものよ」
桂殿が興味深そうに首を傾げる。
「元伯殿とは、そのようなご縁がございましたの?」
氏親は懐かしそうに笑った。
「宗長が白河の関まで旅した折にな。土地の武士どもに囲まれて難儀しておったところを、元伯殿が助けたのよ」
「そのようなことが」
「その後、宗長と気が合ったらしくてな。連歌の旅の護衛として、薩摩まで付いていったと聞いた時は驚いたものじゃ」
桂殿が思わず笑う。
元伯は少し照れたように頭を掻いた。
「あの頃はまだ若うございましたので」
「若いと言うても五十近かったであろうに」
氏親がそう言うと、部屋に穏やかな笑いが広がった。
貴丸は先ほどから気になっていたことを口にした。
「ひとつ、お聞きしてもよろしいですか?」
桂殿が微笑む。
「何でしょう?」
「先ほど広間では京風のお言葉でしたが、今は少し違いますよね?」
その問いに、桂殿は一瞬きょとんとしたあと、くすりと笑った。袖で口元を隠しながら続ける。
「ああ、そのことでございましたか。人が多うございます時は、どうしても昔の言葉が出てしまいますの」
氏親が横で笑う。
「都の癖というやつじゃな」
桂殿は小さく頷いた。
「されど、この駿河へ参ってからもう長うございますればな。普段はこのような話し方の方が楽なのでございます」
「なるほど。じゃあ、無理してたわけじゃないんですね」
貴丸は素直に頷いた。
その言葉に桂殿は楽しそうに笑う。
「無理というほどではございませぬ。ただ、人前では少々気を遣うのでございますよ」
「それは大変だなぁ」
貴丸がしみじみと言うと、氏親が吹き出した。
「十の童が申すことではないのう」
再び部屋に穏やかな笑いが広がった。
しばらく話を楽しんだ後、氏親の表情が少しだけ真面目になる。
彼は隣に座る桂殿を一度見て、それから静かに口を開いた。
「実はな、貴丸殿に聞きたいことがある」
貴丸も姿勢を正した。「何でしょうか」
「わしの嫡男、竜王丸のことじゃ」
その言葉に、桂殿の表情が僅かに曇る。
氏親は続けた。
「今年で六歳になるのだが、幼い頃から体が弱いのだ」
声には父親としての苦しみが滲んでいた。
「泰能から聞いた。貴丸殿は医の知識を持つそうだな」
泰能が軽く咳払いをする。
貴丸はすぐに察した。――また弥太さんかよ。
内心でそう思ったが口には出さない。
氏親は真剣な目で続ける。
「京の名医にも診せた。駿府の医師たちにも診せた。しかし良くならぬ」
桂殿も静かに頭を下げた。
「どうか知恵を貸していただけませぬか」
貴丸は少し考えた後、困ったように頭を掻く。元伯と泰能が嫌な予感を覚える。
「すみません。堅苦しい話し方、疲れるのでやめていいですか?」
案の定だった。
元伯が顔を覆う。泰能は天を仰いだ。
しかし氏親は笑う。「構わぬ。楽に話せ」
貴丸は頷いた。
「じゃあ遠慮なくしますね。俺は医者じゃないからね。確実なことは言えないです。竜王丸くんはどんな様子なのか教えて欲しいんだけど」
氏親と桂殿は真剣な顔になる。
「夜になると咳が出るのだ」「息が苦しそうにもなりますわね」「春と秋によく寝込む」「熱も出しやすいのです。痰も多いし、喉がひゅうひゅう鳴る時もあります」
そこまで聞いた時点で、貴丸の頭にはおおよその見当がついていた。
桂殿が続ける。
「急に息が苦しくなり、動けなくなることもございます」
貴丸は静かに頷く。「今はどんな手当てを?」
奥方が答えた。
「甘草、杏仁、麻黄、半夏、細辛、五味子などを煎じて飲ませております。部屋を暖かくし、灸も行っております」
貴丸は少し考えた。そして正直に言った。
「たぶんね。その病気を完全に治す方法はないと思う」
桂殿の顔が曇る。氏親も目を伏せた。
だが貴丸は続けた。
「でも、楽にする方法はあるよ」
二人が顔を上げる。
「まず今やってる薬は続けた方がいいと思う」
氏親が頷く。
「それと部屋を暖かくするのも良いよ。ただね、風の通りの乾きすぎは良くない」
貴丸は手振りを交えて説明する。
「火鉢や囲炉裏の近くに湯を張った釜を置くんだよ」
「湯を?」
「そう。部屋を少し湿らせるの」
氏親が考え込む。
貴丸は続けた。
「ただし湿らせ過ぎも駄目。説明が難しいんだけど、湿りすぎると別の病を呼ぶこともあるらしいんだ」
実際には黴や細菌の話なのだが、説明しても伝わらない。
氏親は真剣に聞いていた。
「なるほど」
「あと、薄荷も良いよ。少しだけ湯の中に入れると良いと思う」
奥方が驚く。
「そのような使い方があるのですね」
さらに貴丸は言う。
「多少は鼻が通る気がするんだ。蜂蜜と生姜もいいよ。喉にはかなり良いと思う」
そこで貴丸が元伯を見る。
「じいさん、今回持ってきてるよね?」
元伯は頷いた。
「じゃあ、蜂蜜と薄荷と松脂取ってきてくれない?」
元伯は立ち上がった。
「よし、持って参ろう。いばし待て」
元伯が寺へ向かってから戻るまで、それほど時間は掛からなかった。
貴丸は皿を借りると、蜂蜜に少量の薄荷を混ぜる。さらに少しだけ松脂を加えた。
香りが広がる。氏親も奥方も不思議そうに見つめる。
「胸に塗るものだね。薬というよりは、治療を助けるためのものかな」
貴丸は真面目な顔になった。
「でも、いきなり竜王丸くんには使わないでね」
氏親が首を傾げる。
「人によって合う合わないがあるから、まず咳がひどい別の大人に試してみて」
氏親は頷く。「その後はどうするのだ?」
「竜王丸くんの腕の内側にほんの少しだけ塗る。そこで半日ほど様子を見てね」
桂殿が不思議そうに聞いた。
「胸ではなくですか?」
「うん。赤くなったり、痒くなったりしないか確かめるため。もし赤くなったり痒くなったりしたら、それ以上は使わないでね」
氏親が目を見開く。「そのような確かめ方があるのか」
貴丸は肩を竦めた。
「何も出なければ、その後で胸に塗ってみて。たぶん多少は楽になると思うよ」
氏親は静かに頷いた。
その説明は、これまで聞いた医師たちの話より、よほど腑に落ちた。
そして貴丸は突然何かを思い出した。
「あ、そうだ。もう一つ」
「どうした?」
貴丸は和紙を借りる。折り畳み、切り、穴を開ける。紐を通す。やがて奇妙な四角い形のものが出来上がった。
氏親も桂殿も首を傾げる。
「それは何じゃ」
貴丸は自分の口と鼻を覆った。
「こうやって使うんだ」
二人は目を丸くした。
「口を覆うのか」
貴丸は頷く。
「きれいな和紙で作って、毎日新しいものに替えるんだ。塵や煙を吸い込みにくくなるから、多少は楽になると思うよ。あとは目の細かい布でも良いと思う」
奥方は出来上がった和紙の覆いを手に取り、しげしげと眺めた。
万全ではない。だが塵や煙を多少防げる。この時代なら十分意味があった。
桂殿は驚き続けていた。治せないと口にしながら、その後には必ず別の手立てが続く。
気づけば桂殿は深く頭を下げていた。
「貴丸殿。我が子のために、そこまで考えてくださるとは本当に感謝しております」
声が震えていた。
貴丸は慌てて手を振る。
「いやいや、大したことじゃないですから」
だが氏親は違った。彼は貴丸を見つめていた。
症状を聞いただけで見当を付け、治せぬと言いながらも次々と手立てを出してくる。
氏親は静かに思った。
――十の童とは思えぬ。
手力で皆を笑わせていた童と、今ここにいる童が同じ人物とは思えない。
そして同時に確信する。貴丸が語った方法は、おそらく竜王丸を今より楽にするだろう。
それが分かるからこそ。
氏親は感謝とともに、得体の知れぬ畏れを覚えていた。