作品タイトル不明
第112話 山賊と草生水
貴丸は、ふと思いついたように馬へ括りつけていた小壺を指差した。
「三ちゃん。あの草生水の壺、取って」
その瞬間、三兵衛の顔がわずかに曇る。あの壺の中身が何か、三兵衛は知っている。
昨日、貴丸が買った“草生水”だ。近寄るだけで鼻が曲がりそうな代物であり、旅の途中も三兵衛はずっと「あれをどうする気なのか……」と密かに頭を抱えていたのだ。
だが結局、何も言わず馬の腰から外して壺を渡す。
「……何をなさるおつもりで?」
貴丸は壺を受け取りながら、にやりと笑った。ろくでもない時の笑い方だった。
「ふふふ」
三兵衛が無言になる。泰能も眉をひそめた。
一方で、傷だらけの男だけは片目を細め、黙って様子を見ている。
貴丸はどこか得意げだった。
「俺に考えがある」
その“考え”が信用できないのが問題だった。貴丸は道端の枯れ草をむしり始めると、それを小壺の口へ押し込んでいく。
「誰か火種持ってる?」
傷だらけの男が、無言で火打石と火打金を差し出した。
「お、ありがと」
貴丸は嬉しそうに受け取り、かちかちと火花を散らす。
貴丸が数度、硬い音を鳴らす。火花が火口へ落ち、ようやく小さな煙が立った。
それが枯れ草へ小さな火が移った。ぱち、と音を立て、壺の口で頼りない炎が揺れる。
それを見た瞬間、泰能の顔が露骨に曇った。
「……嫌な胸騒ぎしかしないのだがな。大丈夫なのか?」
「大丈夫大丈夫」
まったく信用ならない返事だった。しかも貴丸本人だけが妙に自信満々である。
そして燃える小壺を、ぽん、と三兵衛へ渡した。
「三ちゃん。これを山賊のど真ん中へ投げてきて。早くしないと燃えて爆ぜるかもよ。知らんけど」
三兵衛は少しだけ沈黙した。
貴丸は止まらない。ならば、その命令通り動くしかない。
三兵衛は静かに頭を下げた。
「……承知しました」
三兵衛は身を低くすると、林の中を音もなく進んでいく。枝を踏む音すらほとんどない。
やがて木々の隙間から、山賊たちの姿が見えた。刀や槍を持った男たちが、荷車を囲んでいる。
商人夫婦と幼い子供は地面へ座らされ、顔を青くして震えていた。
「だ、だから! 荷も銭も全部置いていきますゆえ!」
商人が涙声で叫ぶ。
「妻だけは……どうか妻だけはお許しを!」
「黙れ!」
山賊の怒声が飛ぶ。だが、まだ誰も斬ってはいない。
三兵衛は木陰へ滑り込み、静かに息を整えた。
そして――。思い切り腕を振り抜く。燃える小壺が弧を描いた。
見事、山賊たちの中心へ落ちる。
「がしゃん!」
壺が砕け散る。山賊たちの視線が、一斉にそこへ向いた。
そして――。
ぽっ。
小さな火が上がった。……それだけだった。
「…………」
山賊たちが沈黙する。商人たちも沈黙する。林の中の泰能たちも沈黙した。
ぼう、と小さな火だけが頼りなく揺れている。燃えている範囲など、せいぜい足元ほど。しかも火は弱い。
ぱち……ぱち……。情けない音を立てたあと――。すん。消えた。静寂。
風だけが木々を揺らしている。
遠くで鳥が鳴いた。山賊たちは砕けた壺と黒ずんだ地面を見下ろし、微妙な顔をしている。
「……何だこれ?」「油か?」「いや、臭ぇぞ……」「誰だ!?」
ようやく騒ぎ始める。だが恐慌どころではない。ただ普通に困惑していただけだった。
林の中では、誰も口を開かなかった。
泰能など、ものすごく言いたそうな顔をしている。傷だらけの男は無言のまま片目だけで貴丸を見ていた。
三兵衛はすぐに戻ってきたあと、静かに口を閉じた。
そしてようやく。貴丸が、ぽつりと言う。
「あれ?」
全員の視線が向く。貴丸は本気で困惑した顔だった。
「……こんなもんなんだな……」
どうやら本人の想像では、もっと凄いことになる予定だったらしい。
誰も、何も言わなかった。
そして次の瞬間だった。
「敵襲かぁぁぁ!!」山賊の怒号が林へ響き渡る。
砕けた壺を囲んでいた連中が、一斉に武器へ手を掛けた。
誰かがこちらへ気付いたのだ。空気が一気に張り詰める。
泰能は即座に判断した。
「貴丸殿は馬へ乗っておれ! 敵が近づけば逆方向へ逃げよ!」
そう叫びながら、自らは腰の太刀へ手を掛ける。
三十を超える賊。童を連れて飛び込む状況ではない。まず貴丸だけでも安全圏へ離脱させる。それが泰能の結論だった。
だが――。次の瞬間貴丸が叫ぶ。
「いけっ! 俺のナイト・オブ・ゴルドー!(K.O.G.)」
貴丸が何を思ったのか、馬の脇腹を思い切り蹴った。
もう貴丸に残された切り札などあるわけがない。こんな危ないところはさっさと逃げるに限るのに、だ。
貴丸にとっては”逃げるは恥じるでもなく、役にしか立たない”。孟子の”知命者、不立於巖牆之下”なのである。孫子の兵法もまた、、三十六計、走為上計なのだから。
三兵衛もいる。泰能もいる。ついでにあの片目の怖い浪人もいる。
多分なんとかなるだろう。きっとなる。なるはずだ。だから自分は逃げる。
貴丸の人生方針は極めて明快だ。
――いのちだいじに。なのだから。
ぶひひんっ!!馬が大きく嘶いた。そして駆け出す。
だが。走った方向が最悪だった。逆ではない。横でもない。真正面だった。
山賊どもの真ん中へ向かって一直線だった。
「なっ――!? 何をやっておるのだ!!」泰能の顔色が変わる。だが、もう遅い。
馬は止まらない。耳を伏せ、目を剥き、半ば暴走するように土煙を上げて駆けていく。
先ほどの草生水による火と騒ぎで、すでに神経が張り詰めていたのだろう。貴丸の蹴りが最後の一押しになったらしい。
「違う、そうじゃない!」
貴丸は馬上で激しく跳ねた。
「違う! そうじゃない! そうじゃないって!」
必死に手綱を引く。だが効かない。
馬はますます加速する。
「おおおおおっ!? 全然制御できねぇぇぇ!!」
がくん。どんっ。鞍の上で上下左右に振り回される。
もはや騎乗ではない。
「祇妃ぃぃぃーーーっ!!」
情けない悲鳴が街道へ響き渡った。
その声を聞いた泰能は額を押さえた。三兵衛は青ざめた。片目の浪人は無言だった。
その光景を見送りながら、三兵衛だけはその場の貴丸の行動の真意を知り、深々とため息を吐いた。
「……ですから、日頃より皆様が乗馬を練習しておけと言っていたのに…」誰に聞かせるでもない独り言だった。
泰能は思わず額を押さえかけた。だが、すぐ表情を切り替える。
「ええい! こうなれば突っ込むしかない!」
そのまま太刀を抜き放った。
「三兵衛殿! それとそこの男も! 参るぞ!」
そう叫び、山賊へ向かって駆け出す。傷だらけの男も舌打ちした。
「……阿呆が」
だが置いていく気はないらしい。片足を引きずりながらも、すぐ泰能の後を追った。
その頃、貴丸の乗った馬は完全に山賊の中央へ突っ込んでいた。
「馬だ!?」「な、何だぁ!?」「童が乗ってるぞ!?」
山賊たちが目前へ迫った瞬間、馬の視界に入る。馬が突然、前脚を高く上げて嘶いた。
驚いたのだろう。貴丸が「ひぇぇっ!?」と情けない声を上げた瞬間――。
馬の腰へ括りつけられていた、もう一つの小壺が外れた。
そのまま地面へ叩きつけられる。ぱりんっ!!壺が割れた。
中から大量の白い粉が舞い上がる。風に煽られ、辺り一面へぶわっと広がった。
白い粉が一気に舞い上がる。砕いた貝殻の粉だった。
「なっ……!?」「ああっ……目がっ…!目がぁあっ!!」「ぐおっ、何だこれ!?」
山賊たちの視界が、一気に白へ染まる。
その瞬間だった。泰能の目が鋭く光る。
「――今だ!! 山賊の親玉を倒すぞ!」
迷いなく飛び込んだ。白煙を裂くように駆け込み、そのまま横列へ斬り込む。
太刀が一閃した。血飛沫が舞う。
「ぎゃあっ!?」
一人が崩れ落ちる。続いて三兵衛が林から飛び出した。
低い姿勢のまま踏み込み、山賊の脇腹へ刃を突き込む。
さらに――。少し遅れて傷だらけの男も突っ込んだ。片足を引きずっているとは思えぬ速度だった。
踏み込みが鋭い。その太刀筋は、場数を潜った人間の剣だった。
「ちぃっ!」
傷だらけの男の刃が、山賊の首筋を浅く裂いた。血が噴き、男が喉を押さえて崩れる。
混乱は一気に広がった。白煙の中、誰が敵かも分からぬ。
しかも突然、武士が三人も突っ込んできたのだ。山賊側の統率が崩れる。
一方で。貴丸だけが馬の上で呆然としていた。
「……あれ?」
自分の想像では違った。
本来の予定では、――ぼおおおおおっ!! と派手に燃え広がり、山賊どもが阿鼻叫喚になるはずだったのだ。
だが現実は。火は、焚き火にもならぬ程度で消えた。
しかも馬が暴走し、偶然壺が割れ、たまたま白煙が広がっただけである。
貴丸は真顔になった。「……なんか思ってたのと違うなぁ……」
その時だった。白煙の向こうから泰能の鋭い声が響く。
「こいつが頭だ!! 一斉にかかれ!!」
見ると、大柄な山賊が部下へ怒鳴っていた。恐らく頭領だ。
その声を聞いた瞬間、泰能、三兵衛、傷だらけの男が一斉に殺到する。頭領も応戦しようと刀を振り上げる。
だが遅い。泰能の斬撃を受け止めた瞬間、横から傷だらけの男の刃が脇腹を裂き、さらに三兵衛の一撃が脚を払った。
大男が崩れる。次の瞬間。泰能の太刀が振り下ろされた。
どさり、と頭領が倒れる。
そして――。「親玉を討ち取ったぞ!!」
泰能の声が響き渡った。それが決定打だった。山賊たちの顔色が変わる。
「やべぇ! 逃げろ!!」「ちくしょう!!」「頭がやられた!!」
統率は完全に崩壊した。山賊たちは蜘蛛の子を散らすように林へ逃げ込んでいく。
追撃はしない。今の人数では深追いは危険だった。
静寂が戻る。泰能が、大きく息を吐いた。そしてすぐ商人たちへ駆け寄る。
「無事か! 怪我はないか!」
商人の男は涙を浮かべながら何度も頷いた。
「あ、ありがとうございます……! みな無事でございます!」
妻も子も、生きている。それだけで十分だった。
周囲には山賊の死体が転がっていた。討ち取ったのは五人ほど。
さらに傷ついて動けぬ者が五人。そのうちの一人が震えながら縋る。
「ゆ、許してくれ……!」
だが泰能の顔は冷たかった。「このまま連れて行くのも骨だな」
淡々と言う。「三兵衛殿、そこの男殿。始末する」
迷いはなかった。この時代、山賊を生かしておけば再び人を襲う。
泰能は静かに刀を振るった。命乞いの声は、長くは続かなかった。
やがて死体は道脇へまとめられる。泰能はそれを見下ろしながら言った。
「先の関所へ伝えよう。後ほど回収させる」
そして振り返り、商人たちへ告げる。
「我らはこのまま駿府へ向かう。同行するなら付いて参れ」
商人は何度も頭を下げた。
「は、はい……! 本当にありがとうございます……!」
その後。
ようやく泰能は、未だ馬の上で呆然としている貴丸へ近づく。
貴丸はまだ状況を整理しきれていない顔だった。
泰能はそんな貴丸を見上げ、真面目な顔で言う。
「貴丸殿。大活躍だったではないか」
「へ?」
「貴丸殿の機転がなければ、こちらも危うかった。あの白煙で敵の目が潰れたからこそ、一気に崩せたのだ」
さらに続ける。「咄嗟にああした策を思いつくとは……見事だった。礼を言う」
深く、真っ直ぐな声音だった。
貴丸は固まった。
本人としては、偶然、馬が暴走し、偶然、壺が落ち、偶然、白煙が広がっただけである。
むしろ途中までは完全に失敗だと思っていた。
だが――。ここまで真面目に礼を言われると、「あれ偶然なんだよね」とは、さすがに言いづらかった。
貴丸はしばらく口をぱくぱくさせたあと、
「……ま、まぁね」
とりあえず、偉そうに頷いておいたのだった。