作品タイトル不明
第111話 傷だらけの男
街道を進むうち、空気もすっかり和んできていた。
馬の歩みもゆるやかだ。川を越えてからは道幅も広くなり、荷駄や旅人たちと時折すれ違いながら、一行は駿府へ向かって進んでいた。
そんな中、貴丸がふと何か思い出したように懐を探り始める。
「あ、そうだ」ごそごそと着物の前を漁る姿に、泰能が半ば警戒した顔を向けた。
「……今度は何だ」
「昨日と今日、一緒にいてくれたお礼」
そして貴丸は、妙に得意げな顔で言った。
「銭の手力、教えるよ」
その瞬間だった。泰能の顔色が、分かりやすいほど変わる。
「おお! 本当か!」
食いつきが早かった。昨日から気になって仕方なかったのだろう。あの“銭が消える術”は、泰能の中で半ば怪異扱いになっていたらしい。
貴丸はそんな反応へ満足そうに頷く。
「本来こういう芸は、簡単に人へ教えないんだからね。だから弥太さんも、誰かに教えてくれって言われても、絶対漏らしちゃ駄目だよ」
「うむ。心得ておる」
泰能は真面目な顔で頷いた。
すると貴丸が、不意にすっと真顔になる。
「もし約束破ったら――尻から手を突っ込んで、奥歯をガタガタ言わせるからね」
空気が止まった。泰能の顔が引き攣る。あまりにも物騒だった。しかも妙に具体的で、想像してしまう類の脅しだ。
三兵衛など後ろで「ひぇっ」と小さく肩を震わせている。
泰能は数瞬黙ったあと、真顔のまま腰の刀へ手を添えた。
「……分かった。この刀に誓って、誰にも漏らさぬ」
「よろしい」
貴丸は満足そうに頷いた。完全に立場が逆転していた。
そして懐から一文銭を取り出す。
「まずね、こうやって中指と薬指で隠すの。ほら、見えないでしょ」
貴丸はわざとゆっくり手を動かしてみせる。
小さな指の間で、一文銭がするりと消える。いや、消えたように見える。
泰能は思わず目を凝らした。
「……ぬ」
「見せる時は、薬指と小指の間へ滑らせる感じ」
そう言いながら、貴丸は器用に銭を指の間で転がす。
銭は現れ、消え、また現れる。昨日まで怪異にしか見えなかったものが、今はただの“技”として目の前にあった。
泰能は感心したように息を漏らす。
「……なるほど。そうか、そうやって隠しておったのか」
そして、どこか安心したような顔になった。
「私は本当に銭が消えたのかと思っておったぞ。物の怪の類ではないかと疑ったくらいだ」
そこまで言ってから、少し声を落とす。
「誰かへ害をなしてはならぬと思い、昨日はお主を見張っておったのだ」
それは半ば本気だったのだろう。
泰能は真面目な男である。得体の知れぬ力を持つ童など、放置できる性分ではなかった。
だが貴丸は、けらけら笑った。
「弥太さん、疑いすぎだよ」
「お主が怪しすぎるのだ」即答だった。
三兵衛も馬の轡をとりながら何度も頷いている。
すると貴丸は満足げに胸を張った。
「というわけで、これで弥太さんは俺の弟子ね」
「誰が弟子なのだ」
「じゃあ今日から弥太郎だね。今後も励むのだぞ、弥太郎よ!」
呆れながら返す泰能だったが、その口元には苦笑が浮かんでいた。気付けば、最初に会った時のような警戒はもうかなり薄れている。
馬は初冬の街道を進み続ける。
その背で、貴丸だけが妙に偉そうにふんぞり返っていた。
街道をしばらく進んだ頃だった。
貴丸は馬の上で揺られながら、ぼんやり周囲を見回していた。
その時だった。道の先に、一人の男が蹲っているのが見えた。ぼろぼろの浪人姿だった。
肩口の布は擦り切れ、着物もそこはかとなく黒ずんでいる。頬や腕には幾筋もの古傷が走り、片足をわずかに引きずっていた。片目には薄汚れた布が巻かれている。
だが、残った片目だけは獣のように鋭かった。ただ道端へ倒れているだけの男ではないと、一目で分かる目だった。
男は貴丸たちを見るなり、声も出さず、低く身を伏せるような仕草をする。
「……?」貴丸が首を傾げる。
だが泰能は、その動きの意味を即座に察したらしい。
表情が変わった。
「林へ入るぞ」
短く言うと、すぐ手綱を引き、馬を街道脇の木陰へ寄せる。
三兵衛も慌てて周囲へ視線を走らせながら身を低くした。
空気が変わっていた。先ほどまでの穏やかな旅路の空気ではない。
林へ入ると、傷だらけの男がようやく低い声を漏らした。
「……この先で、山賊が商人を囲んでおる」
その瞬間、泰能の目が鋭くなる。
「何だと」反射的に馬を進めかける。
だが男は即座に手を出した。低く、乾いた声だった。
「待て。数がおかしいのだ」
男は林の奥を睨んだまま続ける。
「三十……いや、それ以上いる」
泰能の眉が寄る。この辺りの山賊としては多すぎた。
しかも男はさらに続けた。
「動きも妙だ。囲み方に無駄がない。ただの飢えた野盗ではない」
風が木々を揺らした。葉擦れの音がざわりと鳴る。
その向こうから、怒鳴り声がかすかに聞こえてきた。
「荷と銭を置けぇ!」
「大人しくしてりゃ命だけは助けてやる!」
「おい、その女――見目が良いな。人買いにゃ高く売れそうだ」
続いて、悲鳴混じりの男の声。
「ま、待ってくだされ! 荷も金も差し上げます! 妻だけは……妻だけはお許しくだされ!」
声が震えていた。今にも泣き崩れそうだった。だが、まだ斬り合いにはなっていないらしい。
山賊たちも、出来るなら荷と人を傷つけず奪いたいのだろう。
その様子を見ながら泰能が淡々と言った。
「……今ならまだ間に合う。ならば助けねばなるまい」
だが男は首を横へ振った。冷え切った声だった。
「違う。今飛び込めば囲まれるぞ」
男は即座に否定した。片目だけで林の奥を睨む。
「奴らは慣れている。恐らく見張りもおる。商人を襲わせたあと、気が緩んだところを突く。それが最も確実だ」
つまり――。
商人夫婦を囮にしろ、と。だが男はまるで気にした様子もない。
「このご時世に、あれだけの人数しかいないのに、女連れで山道を越えようなど甘いのだ」
情のない声だった。だが、それは戦場を知る者の声でもあった。
甘さで死ぬ人間を、何度も見てきた人間の声音だった。
泰能の顔が険しくなる。
「それでは、あの商人は死ぬではないか」
「機会を待つ。死なんかもしれん。だがこちらが飛び込めば、全員死ぬ可能性が高いぞ。そなたらも童を連れておる時点で無理をする場ではない」
男は即答した。そこに迷いはなかった。
助けたいではなく、生き残れるかで話している。
泰能は唇を強く結ぶ。今にも飛び出しそうだった。
武士として、見過ごせぬのだろう。だが同時に、三十以上という数の異常さも理解していた。
林の空気が重く張り詰める。
その時だった。
「あ」貴丸が声を漏らした。
全員の視線が向く。
だが当の本人は、山賊のいる方角を見ながら、何やら指を折って思案していた。
「……?」
泰能が眉をひそめる。
貴丸は少し考え込むように顎へ手を当てた。
そして。
「……一個、試したいことあるんだけど」
妙に楽しそうな顔でそう言った。
嫌な予感しかしなかった。