作品タイトル不明
第110話 西を睨む城
翌日――。旅籠の朝は早い。
まだ陽は高くなりきっておらず、廊下には湿った木の匂いと、炊き立ての粥の湯気が薄く漂っていた。
表では荷車の軋む音や、商人たちの怒鳴り声が遠く混じり始めている。清水湊は、朝から動いていた。
貴丸と三兵衛も、駿府へ向かう支度を整えていたところだった。すると突然、廊下をばたばたと走る足音が近づいてくる。
やがて襖の外から、やや上擦った旅籠の者の声が響いた。
「お客様、お客様! 表に、お武家様がお見えでございます! お馬もご一緒に!」
その言い方が妙に慌てていて、三兵衛はすぐ姿勢を正した。
「迎えに来てくれたんかな」貴丸は気楽に言い、そのまま草履を引っ掛けて外へ出る。
旅籠の前には、すでに泰能が立っていた。
連れている馬は艶のある青毛で、静かに鼻を鳴らしている。泰能自身も昨日と変わらぬ端正な出で立ちだったが、腰の刀と馬が加わるだけで、町中にいる侍とは空気が違った。
通りを歩く町人たちが、ちらちらと様子を窺っている。
三兵衛はすぐ深々と頭を下げる。
「朝比奈様。本日は何卒よろしくお願い申し上げます」
一方で貴丸は、まるで近所の知り合いでも見つけたように片手を上げた。
「おはよー、又ちゃん」
「誰が又ちゃんだ。昨日は弥太と呼んでいただろうが」
泰能は即座に眉を寄せた。だが、完全に怒っているわけではない。もう半ば、この小僧に調子を狂わされることへ慣れ始めていた。
貴丸はけろりとしている。
「だって弥太さんだと漢字で書きずらいし」
「漢字で書く場などないであろう」
「じゃあ又やん?」
「なんで、”やん”なのだ…」
三兵衛が横で申し訳なさそうに頭を下げていた。
そんなやり取りをしながら、一行は湊の出口へ向かって歩き始める。
街中で馬を飛ばすわけにもいかず、泰能は手綱を引いて歩いていたが、その姿だけで周囲の人間が自然と道を空けていく。
やがて湊口が見えてきた。そこには長い列ができている。
荷駄を積んだ馬、魚を積んだ荷車、旅人、行商人、僧――様々な人間が順番を待ち、役人や番兵たちが荷改めを行っていた。
木箱を開かせ、棒で突き、怪しい者がいないか細かく目を光らせている。
戦乱の世では、人も物も、そのまま素通りなどできない。だが、その時だった。
番所の役人が泰能へ気付き、ぎょっと目を見開く。
「こ、これは朝比奈様……!」
空気が変わった。先ほどまで威丈高に荷を改めていた役人たちが、一斉に背を正す。
「いつもご苦労様にございます!」「ど、どうぞお通りくださいませ!」
列に並んでいた商人たちまで慌てて脇へ避けた。そのまま一行は、何一つ咎められることなく湊口を抜ける。
貴丸が素直に感心した声を漏らした。
「おぉー……。弥太さん、めちゃくちゃ顔パスやん」
「”かおぱす”とは何だ?」
「偉い人ってこと」
「まあ、顔が利かねば困る立場ではあるがな」
泰能は咳払いした。だが、口元はほんの少しだけ緩んでいる。悪い気はしていないらしい。
湊を抜け、街道へ出ると、ようやく泰能は馬へ軽やかに跨った。流れるような動きだった。
鐙へ足を掛ける所作にも、手綱を握る角度にも、一切無駄がない。幼い頃から馬と共に育った武士の身体だった。
そして泰能は手綱を軽く引きながら、言う。
「貴丸殿も乗るか?」
「乗る! ありやとやす!」
返事だけは異様に早い。
「その妙な言葉は一体どこの国のものなのだ……」
苦笑しながらも、泰能は貴丸を軽々と抱え上げ、自分の前へ乗せてやる。
貴丸は目を輝かせながら鞍へしがみついた。
一方、三兵衛は自然に口取りへ回る。馬はゆっくりと街道を進み始める。
駿府までは、およそ四里弱。
すでに午前もだいぶ回っている。この調子なら、着く頃には夕刻近くになるだろう。
ときおり遠くから潮の香りが流れてくる。馬の歩みに合わせ、景色がゆっくり後ろへ流れていった。
やがて巴川へ差しかかる。
川には今川が管理する木橋が架けられており、人も荷も絶え間なく行き交っていた。橋前には関所が置かれ、ここでも旅人たちが荷改めを受けている。
だが――。
「朝比奈様!」
またしても番兵たちの顔色が変わった。慌てて頭を下げ、そのまま道を開ける。
貴丸は振り返りながら、妙に感心した顔をする。
「やっぱ弥太さん、ほんとにすごい人なんだねぇ」
「……今さらか」泰能は呆れたように息を吐いた。
しばらく街道を進んだ頃だった。
馬の揺れにも慣れてきたのか、貴丸は泰能の前でぶらぶらと足を揺らしながら、ふと思い出したように口を開く。
「そういやさ、弥太さんくらい偉い人って、普通もっとこう……後ろにぞろぞろ人が付いてるもんじゃないの?」
言いながら、手で大名行列のような動きをしてみせる。
泰能は少しだけ目を細めた。
「よく知っておるな。本来なら供回りはおる。昨日と今日は城中の務めも軽かったのでな。城中で詰める役目ではなく、公の場へ出る務めも薄かったゆえ、供も連れず一人で清水へ来ておったのだ」
「へぇー」
貴丸は素直に頷いた。だが興味はもう次へ移っている。
「弥太さんの城ってどこなの?」
「掛川だ」
その瞬間、貴丸は妙に分かったような顔をした。
「あー、掛川かぁ。いいとこだよねぇ」
明らかに薄い。薄すぎる相槌だった。
泰能がじろりと横目で見る。
「……知っておるのか?」
貴丸は間を置かず答えた。
「名前だけ」
「適当に申したな、お主」泰能は呆れたように息を吐く。
貴丸がふと、今度は少し真面目な声音になる。
「でも、遠江を押さえるには大事な場所なんでしょ?」
「……ほう?」泰能の眉がわずかに動いた。
貴丸は指を折りながら続ける。
「駿河から西へ行く時って、だいたい掛川の辺り通るんでしょ? だから大事なんじゃない?」
泰能は少し感心したように眉を上げた。
「まあ、その通りだ。東海道を押さえる上でも重要だし、遠江を治める上でも要になる城だからな」
「ほぉ」貴丸は素直に頷く。
泰能は前方へ視線を向けたまま続けた。
「今川が遠江を治めているとはいえ、どこもかしこも思い通りというわけではない。国人衆もおるし、西との境もある。掛川はそうした場所へ睨みを利かせるための城でもあるのだ」
「ふーん、じゃあ結構大変なんだね」貴丸は分かったような、分かっていないような顔で頷いた。
「大変だからこそ任されておるのだ」泰能はそう言って苦笑した。
この頃の今川は、駿河を治め、遠江にも勢力を及ぼしていたが、後世のように盤石というわけではない。
遠江にはなお有力な国人衆が残り、西方との境も決して穏やかではなかった。
だからこそ掛川は重要だった。
駿河と遠江を結ぶ要であり、西を監視する拠点でもある。朝比奈家が代々重きを置かれているのも、その城を任されているからに他ならない。
泰能はふと貴丸を見た。
「しかし、お主は妙なところで勘が良いな。掛川が大事な城だと気付く童などそうはおらぬ」
「だって通り道じゃん」
あまりにも気軽な返事に、泰能は思わず眉をひそめた。
「それだけで分かるか」
「うーん、なんとなく?」貴丸は首を傾げる。
泰能は半ば呆れたように息を吐いた。
「なんとなくで済む話ではなかろう」
貴丸はけろりとしたまま続けた。
「だから今川さんとしては、信頼できる家じゃないと任せにくい場所なんじゃない?」
その言葉に、泰能は思わず黙り込んだ。
図星だった。掛川は単なる地方の城ではない。
遠江支配の要であり、西方監視の楔でもある。朝比奈家のような重臣に任せる意味は大きかった。
しばらくして泰能は苦笑する。
「……誰に聞いたのだ?」
「聞いてないよ?」
即答だった。
泰能は貴丸の横顔をしばらく眺めた後、諦めたように肩を竦めた。
「まことに妙な童よ」
貴丸はえへへと笑った。
馬は変わらぬ歩みで街道を進み、冬の陽光を受けた駿河の景色がゆっくりと流れていく。