作品タイトル不明
第109話 貴丸、泰能に取り憑く
そして料理屋を出て、旅籠へ戻る道すがらだった。貴丸は当然のように泰能へおんぶされていた。
最初こそ「少しだけだぞ」と言っていた泰能だったが、一度背へ乗せてしまえば、もう貴丸は降りる気配を見せない。
すっかり落ち着いた顔で、泰能の肩へ顎を乗せ、ぶらぶらと足を揺らしていた。
そんな中、不意に貴丸が「あっ」と声を上げる。
「しまった。まだ小壺買ってなかったな」
泰能が片眉を上げた。
「……壺?」
「うん。草生水と、貝の粉が入った壺」
「何に使うのだ、それは」
「手力用。露店で売ってたから欲しかったんだよ。そもそも茶屋で芸を見せたのも、その銭を稼ぐためだったの忘れてた」
泰能はしばらく黙っていた。
それから深く息を吐く。
「……どこだ」
貴丸はぱっと顔を上げ、湊の方を指差した。
「あっち。露店がいっぱい並んでるとこ」
「仕方あるまいな……」
そう呟くと、泰能は進路を変え、そのまま湊沿いの露店通りへ向かった。
夕方前の市場は、まだ賑わっている。魚を捌く音、値を張る声、潮の匂い。雑多な熱気が通りへ溜まり、人々が肩を擦り合わせるように歩いていた。
そんな中、貴丸は泰能の背で揺られながら、目当ての露店を見つけてぶんぶん手を振る。
「おーい、おっちゃん! 来たぞー!」
店主が顔を上げる。そして貴丸を見たあと、その背負っている泰能へ視線が移った瞬間、顔色が変わった。
「お、お武家様のお子でございましたか。これは大変失礼いたしました」
すると泰能が即座に言った。真顔だった。
「違う。この童はわしの子ではない。このような童と血が繋がっておるなど、考えただけで頭が痛くなるわ」
「弥太ちゃんも、言うじゃないのぉ?」
貴丸はへらへら笑いながら、両手を伸ばして泰能の目を隠そうとする。
「やめよ。また目隠しされて変なものを踏みたくはない」
「一回しかやってないじゃん」
「一回で十分だろうに」
店主は小壺を持ったまま、何度か瞬きをした。
すると貴丸が、急に真顔になる。
「ちなみに今、絶賛、俺、攫われ中」
店主の目が見開かれた。
「ひ、人攫いなのでございますか!?」
泰能は、本日何度目か分からぬ大きなため息を吐く。
「そんな人攫いがあるか。このように呑気に喋っておる時点で違うであろうが」
「あ、確かに」
店主は妙に納得した顔で頷いた。
貴丸はおんぶされたまま、取りづらそうにごそごそと懐を漁り、ようやく銭を引っ張り出した。
「はい、二十文。おっちゃんありがと」
「まいどあり!」
店主は嬉しそうに笑い、小壺を二つ差し出した。
だが、そのまま手を止める。
「……あの、これ、どう渡しましょう」
貴丸は即座に泰能の背へ顔を擦りつけた。
「ぼく、もう疲れて歩けないよぅ」
「急に幼子ぶるな」
泰能は呆れた声を出したが、降ろそうとしても貴丸は背へしがみついたまま離れない。
結局、泰能は片手で貴丸を背負い、もう片手で小壺を二つ抱える羽目になった。
貴丸は満足そうに頷く。
「さすがっす、お父様」
「私はつい先日婚姻したばかりだ。このような得体の知れぬ子はおらぬ」
「ひどい」
「事実だ」
店主はとうとう堪えきれず、肩を震わせて笑っていた。
そのまま泰能は歩き出す。
貴丸は背の上から「あっちー」「こっちー」と好き放題に指図していた。
そしてようやく旅籠へ辿り着いた時だった。
入口に、三兵衛が仁王立ちしていた。
腕を組み、無言で立っている。
その姿を見た瞬間、貴丸の顔が引きつった。
「やばっ」
そのまま泰能の背へ隠れようとする。
だが泰能は無言で半歩ずれた。
綺麗に貴丸が見える位置へ出されたのである。
「裏切った!」
「当然であろう」
三兵衛が気づき、ずんずん歩いてくる。
「貴丸様!! もういい加減になさいませ!!」
貴丸は即座に泰能を指差した。
「この弥太ちゃんが俺を攫って、あっちこっち連れ回したんだよ!」
三兵衛の視線が、すっと泰能へ向く。
「……あなた様は?」
空気がわずかに張った。だが泰能は、疲れ切った顔のまま答える。
「この童の性格は知っておろう。私が振り回されておった側だ」
三兵衛は数秒だけ黙った。
それから「ああ……」と深く頷く。
完全に納得した顔だった。
「申し訳ございませぬ。うちの貴丸様は、まあ……ご覧の通りで」
「まともではない」
泰能が即答する。
「はい」
三兵衛も否定しなかった。
泰能は小壺を渡そうとし、ようやく貴丸を降ろそうとする。
だが貴丸は、まだ降りない。
「ねえ弥太さん。うちで夕餉食べていかない?」
「行かぬ」
即答だった。
「本来、こんなところで油を売っておる場合ではないのだ。明日には駿府へ戻らねばならんのでな」
すると三兵衛が反応した。
「貴方様も駿府へ?」
「うむ」
「実は我らも、明日駿府へ向かう予定なのでございます」
泰能が目を細めた。
「ほう」
三兵衛は貴丸を見ながら続ける。
「桑折様と元伯様は、先に駿府入りして謁見の準備を整えております。私と貴丸様は、明日遅れて向かう予定で」
そこで貴丸が口を挟んだ。
「あ、三ちゃん。この弥太さん、今川のすごい人らしいよ。朝比奈ピッチャーなんとかさん」
泰能の眉がぴくりと動く。
「“なんとか”ではない。それに、”ぴっちゃぁ”とは何だ?」
だが三兵衛は、その名を聞いた瞬間、目を見開いた。
「えっ……朝比奈様!? まさか、元伯様がおっしゃっていた今川家重臣の、朝比奈備中守様でございますか!?」
泰能は無言で頷く。
三兵衛は慌てて小壺を地面へ置き、貴丸を引き剥がすように受け取ると、その場で深々と頭を下げた。
「これはとんだご無礼を……!」
「気にするな」
泰能は苦笑する。
そして三兵衛を見た。
「……貴丸殿の世話役というのは、大変であろうな」
その声音には、本気の同情が混じっていた。
三兵衛は遠い目で頷く。
「ええ……」
妙な連帯感が生まれていた。
泰能は小さく笑う。
「明日、駿府へ向かうのであれば、途中まで同行しよう」
三兵衛が目を瞬かせた。「よろしいのでございますか?」
「なに、領内は平穏とはいえ、山賊や野盗がおらぬとも限らぬ。氏親様へ謁見する使者に万が一があれば、今川の名折れとなるのでな」
そう言ったあと、泰能はちらりと貴丸を見る。
「……それに、この童を放っておくと何をしでかすか分からぬ」
「た、確かに……それは、ありがたき幸せにございます」
三兵衛が再び頭を下げる。
その横で、貴丸だけは呑気だった。
三兵衛に抱えられたまま、ぶんぶん手を振る。
「じゃあ、また明日ねー!」
泰能は苦笑しながら軽く手を上げ、そのまま夕暮れの道へ去っていった。
そして、その後。
旅籠へ戻った貴丸へ、三兵衛の説教が延々と続いたのは言うまでもない。