作品タイトル不明
第108話 弄られ上手の泰能さん
料理屋を出ると、潮混じりの風が通りを抜けていった。
昼を過ぎた清水湊は、行き交う荷運びや商人の声で賑わっている。港町独特の喧騒が絶え間なく流れていた。
貴丸は満足そうに腹をさすりながら歩く。
「ごちそうさまでした。では」
そのまま旅籠へ戻ろうとしたところで、後ろから泰能が声を掛けた。
「待たれよ。清水湊は比較的落ち着いてはおるが、何があるか分からぬ。童一人で歩かせるには、少々物騒だ。それがしも旅籠まで付き添おう」
貴丸は少しだけ目を丸くした。
「お、案外優しいね」
「誰のせいで気苦労しておると思っておるのだ」
泰能は呆れたように息を吐く。
そうして二人は並んで歩き始めた。
しばらくしてから、貴丸がふと思い出したように顔を上げる。
「やっぱり、やっちんって呼んでいい?」
泰能の眉がぴくりと動いた。
「……その呼び方はやめよ」
「えー」
「弥太郎と呼べ」
「やたろう?」
「うむ。人前ではそう名乗っておる」
貴丸は少し考え込む。
「じゃあ、弥太さんだね」
泰能は何か言いかけた。だが途中で諦めたように肩を落とす。
「……もうよい。好きに呼ぶがよいわ」
「やった」呼び名が決まった貴丸は、妙に満足そうだった。
そんな様子を横目で見ながら、泰能が尋ねる。
「しかし、なぜ陸奥から京へ向かうのだ」
「あー、褒美」
「褒美?」
「城取ったら褒美くれるって殿様が言ったから、褒美は何が良いって聞かれたから、帝に献上したいって言ったんだ。そしたら殿様が船出してくれるって」
泰能は思わず笑う。
「さも自分が城を取ったように申すのだな」
「え? 取ったの俺だけど?」
「ははは、それはさすがに大きく出たな」
泰能は完全に冗談だと思っていた。
十の童が城を落とすなど、与太話にもならない。
貴丸は一瞬、「本当なのに」と言いたげな顔をしたが、すぐに口を閉じた。
(……まぁ、別に言わなくていいか)どうせ信じないし、変に広まるのも面倒だった。
そのまま泰能が続ける。
「だが、京まで連れてゆくとは、お主の父は随分期待しておるのだな。路銀も馬鹿にならぬであろうに」
すると貴丸が、急に苦い顔をした。
泰能は首を傾げる。
「どうした」
貴丸は視線を逸らした。
「……いや。俺、本当は来るはずじゃなかったんだよ。爺様の着物が入った木箱で寝てたら、そのまま船に積まれてた」
一瞬、泰能の動きが止まる。
「……は?」
「気付いたら海の上だった」
沈黙。次の瞬間だった。
「ぶっ……ははははははは!!」
泰能が腹を抱えた。
「木箱!? お主、木箱で寝ていたのか!? ははははは!!」
最後には涙まで浮かべ、呼吸を乱しながら笑っている。
「なんだそれは! そんな面白い話があるか! ははははは!!」
貴丸はじとっとした目を向けた。
(……このおっさん、笑いすぎだろ)貴丸は半眼になる。だが、そんなふうに腹を抱えて笑いながらも、泰能の胸には妙な感覚が残っていた。
最初に会った時から、この童は妙に落ち着いていた。人を食ったような口を利き、大人相手にも臆さず、場の流れを平然と掴む。
本当に十の童なのか疑いたくなるほどだった。だが今、こうして拗ねた顔をしている姿を見ると、やはり年相応の子供にも見える。
この乱世では、武家の子は幼い頃から大人として振る舞うことを求められる。
もしかすると、この童もまた、そうして無理に背伸びしてきたのかもしれぬ――そんなことが、ふと頭を過った。
その時だった。貴丸の視線が、道端へ向く。貴丸はぴたりと立ち止まる。
そして、くるりと振り返り、両手を広げた。
「弥太さん」
「なんだ?」
「ねむつかれた」
「……なんだそれは」
「眠くて疲れた」
泰能は思わず吹き出す。
「くく……お主、本当に妙なことばかり申すのう」
貴丸は真顔だった。
「おんぶして。旅籠まで」
「は?」
泰能は目を瞬かせる。だが次第に、その顔へ苦笑が広がった。
「貴丸殿も、こうして見るとまだまだ童だのう」
「おんぶ」
「分かった分かった」
泰能はしゃがみ込む。貴丸は当然のように背へ乗った。
十歳にしては少し丸い体つきだが、武人である泰能には大した重さではない。
「よいしょ、と」
そのまま歩き始める。
背へ掛かる重みは、思っていたよりずっと軽い。だが、その体温だけは妙にはっきり伝わってきた。
泰能はまだ妻を迎えたばかりで、子もいない。だが、もし己に子が出来れば、いつかこんなふうに背負って歩く日が来るのだろうか――ふと、そんなことを思った。
先ほどまで得体の知れぬ童に見えていた貴丸が、今は妙に幼く思える。少し甘えてくるようなその重みが、どこか微笑ましかった。
背中の貴丸は妙に静かだった。しばらくしてから、不意に両手が伸びてくる。
「む?」
泰能の目が覆われた。
「だーれだ?」
泰能は思った。大人びた顔をしていても、やはりこういうところは子供なのだな、と。
「……貴丸殿に決まっておろうが」
「ぶー、はずれ」
「当たっておるわ。やめぬか、危ないであろう」
だが貴丸は離さない。
泰能は苦笑しながら歩き続けた。
「ははは、まったく、お主という童は――」
その瞬間だった。
むにゅっ。
妙に柔らかい感触が足裏へ広がった。
「……む?」
貴丸が、ぱっと手を離す。
泰能がゆっくり視線を落とす。そこには。見事な馬糞があった。しかも、しっかり中心を踏み抜いている。
沈黙。通りの喧騒だけが遠く流れていく。
背中では、貴丸が口元を押さえていた。
「…………」
肩が震えている。
泰能は呆然としたまま、自分の足と馬糞を見比べた。
そしてようやく、理解する。
「……貴丸殿」
背中の童が、にやりと笑った。
「いっぱい笑ったお返し」
泰能はしばらく無言だった。
やがて深く息を吐く。
「……先ほどまで、少しでも“健気な童かもしれぬ”などと思ったそれがしが馬鹿であった」
「えへへ」
「まったく可愛げがない」
そう言いながらも、泰能の口元には苦笑が浮かんでいた。
先ほどまで、乱世に無理をして背伸びしている童なのかもしれぬ――などと思っていた自分が馬鹿らしくなる。
――いや、やはりこんな妙に質の悪い悪戯をする童など、そうそう居るはずがない。
朝比奈泰能は、この時まだ知らない。
己がこれから先も、幾度となくこの童に振り回されることになるということを。