作品タイトル不明
第107話 奢られ上手の貴丸さん
そして貴丸は、その男を連れたまま料理屋へ入った。
表の暖簾をくぐると、魚を焼く匂いと出汁の香りが鼻へ抜ける。昼を過ぎた頃合いということもあり、店内にはまだ客の声が残っていた。
だが貴丸は迷わない。慣れた足取りでそのまま店の奥へ進み、帳場近くにいた店主へ声を掛けた。
「奥、空いてる?」
店主が貴丸を見る。子供連れの客にしては妙に堂々としている。だが商人町の店主というものは、変な客に慣れていた。
一瞬だけ目を細めて、後ろの泰能を見たあと、すぐ愛想笑いを浮かべる。
「へい、空いておりますよ」
「じゃあ奥で。ちょっと小腹空いてるから、腹に溜まるもの適当に見繕って」
貴丸はそのまま当然のように続けた。
「まだ日も高いし、酒じゃなくて茶でいいや。最後はさっぱりしたものお願いね」
「へい」店主は自然に頷き、そのまま調理場へ引っ込んでいった。
男は、そのやり取りを黙って見ていた。そして奥の座敷へ通され、ようやく口を開く。
「……慣れておるな」
貴丸は座布団へ崩れるように腰を下ろした。
「ん?」
「ここは、よく来るのか」
「え?」
貴丸はきょとんとする。
「初めてだけど」
「……は?」
「だって清水湊、今日初めて来たばっかだし」
男は絶句した。どう見ても、長年通っている常連の空気だったのである。
店へ入る足取り。店主への声の掛け方。注文の仕方。奥座敷へ座る間。全部が妙に自然だった。旅慣れた商人でも、もう少し遠慮がある。
だがこの童は違った。最初から自分の店のような顔で座っている。
(なんだこの童は……)男はじっと貴丸を見る。歳は十ほど。少しぽっちゃりしているが、顔立ちはまだ幼い。
だが妙に人を呑む。茶屋でもそうだった。気づけば場の流れを全部持っていかれていた。
人前で大声を上げたかと思えば、いつの間にか“知り合い”という形へ落とし込まれている。
あの流れを、この童がやったのだ。今さらながら、得体の知れぬものを相手にしている気がした。
やがて男は、一度だけ息を吐く。
「……名乗るのが遅れたな」
そこで初めて、自ら姿勢を正した。
「某は、今川家家臣。朝比奈備中守泰能と申す」
その名を聞いた瞬間、貴丸の目が少しだけ開いた。
「あー、すごいね。今川さん家の重臣じゃん」
軽い声だった。泰能は思わず固まる。
これでも、氏輝・氏親と二代へ仕え、年は若いが今や家中でも重きを成す宿老である。
家中の若侍など、朝比奈の名を聞くだけで背筋を伸ばす。
だがこの童は、まるで湊で魚屋の親父でも紹介されたような反応だった。
しかも。
「あ、俺は貴丸。陸奥の小領主の小倅。十歳ね」
そこまではまだ良い。問題は、その後だった。
「好きな言葉は、“貰う”“拾う”“飯を馳走になる”です。よろしくお願いします」
泰能の眉がぴくりと動く。
貴丸は平然と続けた。
「朝ちゃんって呼んでいい? それとも、やっちんかな?」
「…………」
絶句だった。
貴丸はそこで、ようやく泰能の顔を見る。
「あ、これ失礼な感じすかね?」
泰能は呆れたように息を吐いた。
「今さらであろう。人前では多少取り繕え。だが、ここまで来れば、もうその口調でよいわ」
「お、やったぁ」
泰能は深く息を吐く。
「普通、朝比奈の名を聞けば、もう少し畏まるものだぞ」
「え、でも怒ってないじゃん」
「怒る暇もなく、お主が次を投げてくるのでな……」
泰能は本気で疲れた顔をした。
泰能はしばらく無言で貴丸を見つめた。(本当に人なのか……?)
そんな考えが、一瞬だけ頭を過る。狐か。化生か。あるいは妙な福神の類か。
それくらい、調子が狂う童だった。だが同時に、別のことも思い出す。
――そういえば。氏親様へ、陸奥から謁見の申し入れが来ていると聞いた。
ならば、この童はその一行の者なのだろうか。
泰能はようやく気を取り直し、改めて貴丸へ向き直った。
「先ほどの茶屋での芸」
「あー、手品?」
「……手力、と申しておったな」
「まあそんな感じかな?」
泰能は静かに頷く。
「あれは面白かった。少なくとも、某は見たことがない」
言葉を選ぶように続けた。
「この今川では、能、連歌、和歌、禅、蹴鞠、香、公家礼法……そういったものは盛んだ。だが、貴丸殿の見せたものは、どれとも違っていた」
そこで初めて、少しだけ真顔になる。
「ゆえに聞きたい。あれは、どこで学んだのだ?」
すると貴丸が、じとっとした目を向けてきた。嫌そうな顔だった。
「……え? 俺の芸、盗むつもり?」
「い、いや違う! そういう意味ではないのだ!」
泰能は思わず首を振る。
その反応を見て、貴丸は少しだけ疑わしそうな顔をした。
ちょうどその時だった。襖が開き、店主が料理を運んできた。
焼き魚。炊いた飯。湯気の立つ汁物。そして小鉢が幾つか並べられていく。
途端。貴丸の視線が、全部そっちへ移った。
すると貴丸が言う。
「じゃあ、熱いうちに食べちゃおう。やっぱ熱い方が美味しいし」
そう言って、いただきます。といって早速食べ始める。
やはり、清水湊の料理屋だけあって、魚介類が新鮮で美味しい。
泰能もさっき茶屋で団子を食べたばかりだというのに、気づけば箸が止まらない。
二人は話すことも忘れて一心不乱に食べた。
そして、最後に出てきたのは、刻んだ香の物と、薄く酢を利かせた小魚だった。
貴丸はそれを見るなり、「あ、こういうのがいいんだよな」と満足そうに頷く。
そして香の物を摘まみながら茶を飲むと、ようやく一息ついた空気になる。
貴丸は湯呑を置き、ぱん、と小さく手を合わせた。
「ごちそうさまでした。じゃ」
そう言うなり、すっと立ち上がる。
そのまま当然のように出て行こうとしたので、泰能は一瞬、本気で呆気に取られた。
だがすぐ我に返る。
「……待たれよ、貴丸殿」
貴丸が振り返る。
「…なんでしょうか?」
「なんでしょう、ではない。飯を食べただけで、まだ何も話しておらぬではないか」
すると貴丸は、きょとんとした顔をした。
「あ、気付きました?」
「最初から気付いておったわ!」
思わず声が強くなる。
貴丸は「仕方ないなぁ」という顔で戻ってきて、再び腰を下ろした。
泰能は深く息を吐く。
「……先ほどの答えは」
「答え? ええと……最後の香の物が美味かったって話?」
「違う」
今度ははっきり言った。
「茶屋での“手力”よ。あれをどこで学んだのか、と聞いたはずだ」
すると貴丸は少し考えるように視線を泳がせた。
少しだけ声を低くすると、貴丸は露骨に嫌そうな顔をした。
「えー……言わないとだめ?」
泰能は無言で頷く。
貴丸はしばらくむむむ、と唸っていたが、やがて「あ」と顔を上げた。
「前にさ、知らない人が家に来たんだよ、です」
「知らない人?」
「うん。なんか変な人」
貴丸は思い出すように宙を見る。
「黒い着物でね。僧っぽいんだけど、僧でもないし、山伏っぽいんだけど、山伏でもない感じ」
そこまでは、まだいい。だが次の言葉で、泰能の眉がぴくりと動いた。
「あと、目のところに変な”びいどろ”つけてた」
「……びいどろ?」
「うん。黒いやつ。向こうの目が見えないの」
貴丸は指で自分の目元を示す。
「こう、目元だけ面頬つけてるみたいな感じ? 撫で付けた黒髪の中に、銀糸のような髪が幾筋も走っていたかな」
泰能の顔から、すっと表情が消えた。
びいどろ自体、そう見かける品ではない。まして黒いびいどろなど、泰能は聞いたこともなかった。
貴丸は気にせず続ける。
「陽に当たると、そのびいどろが鈍く光るんだよね。なんか、すごい怪しかった」
「…………」
「旅芸人みたいでもあるし、異国の妖術師みたいでもあるし」
そこで貴丸は急に声を低くした。
「そしたら、その人がさ」
貴丸は指先を目元へ添え、妙に勿体ぶった仕草をする。
「――“手力にございます”って」
低く言った。それだけなのに、泰能はなぜか言葉を返せなかった。
泰能は思わず口を閉ざした。
貴丸は平然としていた。
「で、教えてもらったの」
「……それだけか?」
「うん」
貴丸は、本当に何でもないことのように言った。だが、泰能の背筋には嫌なものが走っていた。
黒衣。黒いびいどろ。目の見えぬ異形の男。しかも、その得体の知れぬ相手から平然と技を習うこの童。
泰能は、じっと貴丸を見る。どう見ても、気の抜けた童だ。だが時折、底が見えなくなるのも事実。
――これは、本当にただの童なのか?
ふと、そんな考えが頭を過ぎった。
すると貴丸が首を傾げる。
「どうしたの?」
「……いや」
泰能は小さく息を吐いた。
「お主、案外、人ならざるものへ好かれる質なのやもしれんな」
貴丸は少し考えた。
「……うん。わりと言われる」
「言われるのか……」
泰能は頭を抱えた。