軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第106話 貴丸を付け狙う男

そして貴丸が歩いていくと、背後から声がかかった。

「卒時ながら、少しお尋ねしたい。そこの童よ。先ほどの茶屋のことであるが」

街道は人の流れが絶えない。荷を背負う商人、桶を抱えた女、駕籠を避けて端へ寄る旅人たちが、それぞれの速度で擦れ違い、声と足音が重なっては消えていく。

そのざわめきの中で、その声だけは妙にはっきり耳へ届いた。

だが貴丸は振り返らない。歩幅は一切乱れない。聞こえていないのではない。最初から相手にする気がない歩き方だった。

男はわずかに眉をひそめると、足を速め、半ば人の流れを割るようにして貴丸の前へ回り込んだ。

「少し良いだろうか」

影が前に立っても、貴丸は止まらない。視線も向けず、ほんの半歩だけ横へずれて通り抜けようとする。

「ちょっとよろしいか!」

声が一段強くなった。

その瞬間、貴丸の足がぴたりと止まる。

ゆっくりと顔を上げる。驚きはない。恐れもない。ただ目の前の男を、一度見ただけの視線。

そして小さく息を吐く。

「そういうの、間に合ってるんで」

言い終えると同時に、再び歩き出そうとする。

その瞬間だった。男の手が、貴丸の肩を掴んだ。布越しでも分かるほど、握力は強かった。

だが貴丸は動かない。振りほどきもしない。ただ掴まれたまま、止まっていた。

次の瞬間。ふっと一歩だけ後ろへ下がった。そして、空気を大きく吸い込む。

「誰かー! 誰かおらぬかー!」

その声は、通りの喧騒を一瞬で切り裂いた。

売り声が止まり、荷車の軋みが止まり、歩いていた人々の足が半拍遅れて止まる。視線が一斉に、声の方向へと集まった。

貴丸はその“間”を逃さない。

「これは人攫いか、追い剥ぎか、野盗か山賊か、海賊か、流れ者の無頼か! あるいは昼日中から人の銭を狙う摺りか!」

通りの奥まで抜ける声だった。ただ大きいのではない。子供の声とは思えぬほど通る声だった。

男の手がわずかに緩む。その一瞬の揺れを、貴丸は見ている。

「いやそれだけでは足りぬ! 鬼か、夜叉か、もののけか、地より出でし化生か! 欲に目の眩んだ亡者の類か!」

ざわり、と周囲が一段深く反応する。笑う者、眉をひそめる者、完全に興味を持った者の視線が、二人に止まる。

「とにかく人の道を外れた者に違いない! 誰か助けよ! このままでは身ぐるみどころか命まで持って行かれるぞ!」

その瞬間、通りを歩いていた者たちが、完全に足を止めていた。

男は、周囲の視線が自分に集まっていることに気づいた。

慌てて声を落とす。

「ま、待て。違う。ただ話があるだけだ」

その言葉に、貴丸の目が初めて男へ向いた。

一瞬、静まり返るような間。そして貴丸は、当然のように手を差し出す。

「情報料ちょうだい」

「……は? じょうほうりょう?」男の思考が止まる。

貴丸は構わず続ける。「人に話を聞くなら銭でしょ」

理屈ではない。まるで、銭を払わねば口を開かぬと決めているようだった。

男の眉がわずかに動く。

その隙に、貴丸は一歩だけ距離を取っていた。再び貴丸の肩に男の手が伸びる。

その瞬間。貴丸はもう一度、先ほどと同じように声を出す。

「誰かー! 誰かおらぬかー!」

さっきよりも、さらに遠くまで届く声だった。

男の苛立ちが表に出る。ついに正面へ回り込み、両腕を広げた。

「待て、待ってくれ。怪しい者ではない」

その言葉を聞いて、貴丸は小さく笑った。

ほんの一瞬だけ、口角が上がる。

「怪しくないかどうかは、俺が決めることでしょ」

少し首を傾ける。

「そもそも“怪しくありません”って言いながら近づいてくる人って、大体怪しい側でしょ?」

周囲で、小さなくぐもった笑いが起きる。男の体が、ほんの少しだけ揺れた。

先ほどまで男に向いていた視線が、貴丸へと戻っていた。

男は一度だけ深く息を吐き、懐から一文銭を取り出した。

だが貴丸は、その銭を見ただけで動かない。受け取るでもなく、近づくでもなく、ただ一度視線を落として、それきり興味を失ったようにそらす。

「一枚で済む話じゃないと思うけど」淡々とした一言だった。

男の眉がわずかに動く。

その反応を見て、貴丸はもう一度だけ様子を見た。

次の瞬間、銭が増えた。二枚、三枚、四枚。

そこで貴丸の目が、一瞬だけ細くなる。(この人、ここまで払うんだ。チョロインさんだな)

それだけを確認すると、貴丸はあっさりと銭を受け取り、何事もなかったように懐へと入れた。

そして貴丸は、揉め事が何でもないように言う。

「あっ、思い出した。あなた、いつぞやのおじさんではありませぬか。お久ぶりでございます!」

周囲の視線が、先ほどまでとは変わっていた。

つい先ほどまで揉め事に見えていたものが、今ではただの知り合い同士の立ち話にしか見えない。

男は一拍遅れて、その変化に気づく。

――今の一言で、自分の立場が変えられた。

加害かどうかの境目にあったものが、いつの間にか知り合い同士のやり取りとして見られている。

男は小さく息を吐き、低く呟いた。

「……とんでもない童だな」

貴丸はそれを聞かないふりをする。そして、内心で思う。(……もっと引き出せそうだな。こりゃ)

そう判断しただけで、貴丸の興味は次の段階へ移っていた。

軽く手を振る。

「話なら、こんな道のど真ん中じゃなくてさ」

一度だけ周囲を見渡す。先に動いた方が自然になっていた。

貴丸はそのまま歩き出す。

「向こうで飯でも食べながら、ゆっくり話しましょう」

男は一瞬だけ迷う。

だが背中に視線が集まっていた。止まれば目立つのは自分だ。男は歩き出すしかなかった。

「……厄介な童だ」

怒りというより、半ば呆れに近い声だった。

実は貴丸は最初から見ていた。

茶屋の奥。団子と茶の湯気の向こう。

入口脇へ立つ男を。旅人にしては視線が落ち着きすぎていた。

身のこなしにも隙がない。貴丸が店を出ようとした瞬間、男もまた動いた。偶然ではなかった。

だから貴丸は、この男が後ろから付いてくるだろうと思っていたのである。

そして案の定、男は一定の距離を保ったまま背後を歩いていた。

先ほどの大声。銭のやり取り。知り合いという形へ持ち込んだこと。

男はまだ、自分が主導権を握っているつもりでいた。

あれらは全部、貴丸が場の空気を先回りして動かした結果だった。

つまり。これはもう、かなり良い鴨だった。しかも普通の鴨ではない。葱を背負って来るどころでは済まない。

薪を抱え。鍋を持ち。だし汁まで用意して、ついでに飯まで炊いて、「さあ食え」と言いながら自分から付いて来ているようなものである。

――これは、なかなか良い獲物かもしれない。

貴丸は歩きながら、わずかに口元を緩める。背後の足音は、まだその意味に気づかぬまま付いてきていた。

……などと、それらしく考えてはいるが。

実際のところ、貴丸の頭にあったのは、「なんか飯奢ってもらえそう」程度の期待だったのだ。