作品タイトル不明
第105話 これが手力です
露天の机に並べられた小さな壺が二つあった。
ひとつは、黒く濁った液体が底に沈み、光を受けても鈍くしか反射しない。近づけば鼻の奥を刺すような、焦げた油にも似た、どこか土と煙の混じった異様な臭いを放っている。
もうひとつは、逆に白く乾いた粉で満ちており、軽く舞い上がりそうな気配を漂わせていた。
通りを行く者は、誰もが一瞬だけ視線を落とし、そして微妙に顔をしかめて通り過ぎていく。
その前に、貴丸は立っていた。
「……三ちゃん、二十文ちょうだい!」
あまりにも自然に、当然のように、手が伸びる。にこりとした顔のまま、悪びれも焦りもない。
三兵衛は即座に首を横に振った。ほとんど間もない。
「なりません。あのような出所の知れぬ品、これから駿府へ向かう道中でございますぞ。役人の検めにかかれば厄介ごとになります」
隙がない。理屈としても正しい。
「それに、貴丸様は当初、都まで行く身ではございませなんだ。ゆえに銭も潤沢とは申せませぬ」
つまりは一言でいえば、「無駄遣いするな」である。
貴丸は一度だけ壺と三兵衛を見比べ、少しだけ間を置いたあと、ふっと息を吐いた。
「……わかったよ。『今は』諦める」
やけに妙な言い方だった。
だが、その背中で小さく指が動く。ほんの一瞬、三兵衛の視線が外れた隙に、貴丸は壺の前の商人へ顔を寄せた。
声は低く、三兵衛には届かない。
「あとで銭持ってくるからさ。ちょっとだけ待ってて」
商人は一瞬きょとんとしたが、すぐに面白がるように頷いた。
三兵衛の視線は、そこまでは見ていなかったようだ。
貴丸は何事もなかったかのように背を向ける。
「じゃあ、旅籠戻ろっか」
三兵衛はわずかに眉をひそめながら、その後を追う。
だが――。
途中で、目の前の茶屋を一瞥した後、貴丸の足がぴたりと止まった。
そして、急に尻を押さえてモゾモゾし始める。
「……三ちゃん。んこ、したい…」
あまりにも直截で、あまりにも迷いのない言い方だ。
三兵衛の顔が一瞬だけ崩れる。だがすぐに持ち直し、咳払いひとつ。
「もう少し、言いようというものがございましょう。旅籠まで我慢できませぬか?」
「無理。もう、んこ出そう。……ってか、顔出してる」
「…顔とは何ですか顔とは…」
「ほんとにご対面しそう……もうそろそろ、いらっしゃるかも…」
真顔で言い切る。冗談か本気か判別がつかないが、少なくとも本人は真剣である。
「私があの茶屋に聞いて来ましょう。しばしお待ちください」
「あぁ……もう無理。ちびっと…身が出てきた……俺が行く」
止める間もなく、貴丸は尻を押さえたまま、やや内股で異様に狭い歩幅の速歩きで茶屋へ突入していった。
三兵衛はその場に残され、腕を組むしかない。
中からは店主と貴丸のやり取りらしき声が聞こえ、貴丸は奥へと消えていく。
――やがて静かになる。
時間だけが妙に長く感じる。しばらく待ったが三兵衛は、さすがに不審を覚えた。
店主へ声を掛ける。
「失礼。先ほどの童は、まだ中に?」
店主は困ったように首を傾げた。
「いや……裏の勝手口が開いた音がしたので、出られたのではないかと……」
「……は?」
空気が止まる。三兵衛の顔から、表情がすっと消えた。低い声が落ちる。次の瞬間、短く舌打ちをひとつ。
「……またか…なんと悪知恵の働く童か」
そう吐き捨てると、三兵衛は即座に踵を返し、店の裏手へと足を早めた。
その背には、怒りというよりも――半ば呆れと、半ば確信めいた疲労が滲んでいた。
その頃、茶屋の奥では――。
「いやぁ、助かった助かった。ありがとう」
貴丸は何事もなかったかのように、ひょっこりと奥から顔を出していた。先ほどまで尻を押さえていた童と同一人物とは思えぬ、あっけらかんとした顔である。
店主はちらりと表を見た。
「……あのお方、童殿のお連れだったのでは?」
「違う違う。なんか勝手について来たんだよ。いやぁ、気持ち悪くて。あれは子供好きの変なやつかもしれないな」
店主は一瞬だけ目を泳がせ、それから曖昧に笑った。
「はぁ……左様でございますか。お気をつけなされ」
その返事を聞き流すように、貴丸は茶屋の内外へ目を向けた。
店は悪くない。むしろ人の流れも良い。通りに面しており、ひと声かければ客も吸い込める立地だ。そこへ思いつきがひとつ落ちる。
「……ねぇ、ちょっといい?」
振り返った店主へ、貴丸はまるで雑談の続きのように言った。
「ここでちょっと芸をやってもいいかな? 見てくれた人から銭をもらいたい。俺は二十文くらいでいい。あとは店主にあげるからさ」
店主は眉を上げる。怪しい。あまりに怪しい。だが、損をする話でもない。
「……騒ぎにならねば、構いませぬが」
「蟻が十匹、猿五匹」返事は軽かった。
「なんでございますか?」店主は首を傾げる。
しかし、次の瞬間にはもう貴丸は店先へ出ている。懐から一文銭を取り出し、指先で軽く弾いた。
ざわり、と周囲の視線が集まる。声は思いのほかよく通りそうだ。
「さあさあ、お立ち会い! この銭、ただの銭ではございませぬ! 遥か唐天竺の高僧より授かりし、いわく付きの銭にてございます! 一度見逃せば、次は一年後か十年後か、はたまた一生見られぬやもしれませぬぞ!」
大げさな言葉に、通りの足が止まる。
一人、また一人と貴丸に続いて茶屋へ吸い寄せられていく。
貴丸は入ってきた客を見て、軽く笑った。
「そちらのお方、ここの団子は評判でございますぞ」
「では団子と茶を」
即座に注文が飛ぶ。店主が慌てて動こうとするより早く、貴丸がそっと耳打ちした。
「あとで芸が終わったら、最初の一枚だけ茶碗に入れてくれない?」
店主は半信半疑のまま頷き、奥へ消えた。
貴丸は銭を指先で軽く撫で、ふっと息を整えた。
「よくご覧くだされ。これはただの手の技にあらず」
周囲を見回してから、意味ありげに指を立てる。
「――手力でございます」
誰に向けるでもなく、断言するように言い切った。
指先で銭を軽く摘まむ。
「この銭は、右手へ入れれば――」
そう言って、貴丸は銭を右手へ握り込んだ。
茶屋の客たちの視線が自然とそこへ集まる。
「――左手へ移りまする」
貴丸はまず右手を開いた。
何もない。続いて左手を開く。
そこに、銭が一枚あった。
「おお……」
小さなどよめきが漏れる。
誰もが、“袖の内で右から左へ移したのだろう”と思った。だが、それでも目では追えなかった。
貴丸はすぐには次へ行かない。
客が「ああ、そういうものか」と半ば納得する、その間を少しだけ待った。
「では、この左手の銭は――」
銭を指先で摘まみ上げる。
「見えているものばかり追っていては、追いつけませぬぞ」
貴丸はそう言って、ゆっくり手を動かした。
「――耳の後ろへ参りまする」
次の瞬間。耳の後ろから、銭が現れる。
「えっ」「なんだ今のは」
空気が少し揺れた。
先ほどまでは、“手の中で移しただけ”で説明できた。
だが今度は違う。目の前で見ていたはずなのに、いつ移ったのか分からない。貴丸は止まらない。
銭を指先で転がしながら、今度は客へはっきり見せる。
「そして、目の前から消えまして――」
銭を握る。開く。消えていた。
「お?」「どこいった」
客たちの目が、貴丸の袖や膝元へ走る。だが見当たらない。
貴丸は、その視線が迷い始めたところで、ようやく口元へ指を添えた。
「さて、どこへ参ったかと申しますと――」
そして。「――こちらでございます」
口の中から、銭を取り出す。
「うわっ!?」「なんだ今の!」
茶屋の空気が一気に騒めいた。だが貴丸は平然としている。
「では、もう一枚」
そう言って指を開く。銭が二枚あった。
「……増えた?」「いつの間に」
今度は、“移した”では説明がつかない。ざわめきが広がる。気づけば、外から覗き込む者まで増えていた。
「おい童、見物料はどうする!」
誰かが笑いながら声を飛ばす。そこで初めて、貴丸は客席へ向かって笑った。
「では、その茶碗へお納めくだされ。本日の私の夕餉となりまする」
その一言で空気が変わる。
最初の客を装った店主が、笑いながら銭を一枚入れた。ちゃりん。その音をきっかけに、他の客も次々と続く。
「なら儂も」「もう一つ見せろ!」「今のどうやったんだ!」
銭の音と笑い声が重なり、茶屋の熱が一気に上がっていった。
貴丸はその様子を見回し、一度だけ間を置く。
「では、特別に」
そう言って懐へ手を入れた。その動きだけで、客の視線がまた一点へ集まる。
貴丸は静かに言った。
「私の指は――取れるのでございます」
次の瞬間。親指が外れた。
「…………は?」
一拍遅れて、茶屋が爆笑に包まれる。
「なんだそれは!」「いや取れとるな!」「取れとるけど絶対なんか違うぞ!」
笑い声が広がる中、貴丸は平然と親指を戻した。
そして今度は、小さな木札を取り出す。掌に収まるほどの薄い札だった。
そこには一本、矢の印が描かれている。貴丸は札を軽く掲げる。
「では、最後にもう一つ」
さっきまで騒がしかった茶屋が、少しずつ静かになっていく。
「これは、ただの木札でございます」
客へ見せながら、ゆっくり回す。
「ご覧の通り、矢の印が描かれているだけ」
誰が見ても、それだけだった。貴丸は札を持ち直す。
「では、よくご覧くだされ」
そう言って、もう一度ゆっくり回した。
矢は横を向く。さらに回す。今度は上を向いて見えた。
「……あれ?」誰かが声を漏らす。
もう一度回る。今度は下を向いた。
「いや待て」「なんで向き変わるんだ」「同じように回してただろ」
ざわめきが広がる。貴丸は説明しない。ただ、もう一度だけ札を回した。
また矢の向きが変わる。客たちの目が札へ吸い寄せられる。だが、分からない。どこを見ても仕掛けが見えない。貴丸は静かに札を下ろした。
「このように――」
そして、少しだけ笑う。
「見えているものが、真とは限らぬのでございます」
それだけ言って、札を懐へ戻した。
「――これもまた、手力」
一瞬、茶屋が静まる。
次の瞬間。
わっと拍手が起こった。
だがそれは、“理解した拍手”ではない。
分からぬまま呑み込まれ、気づけば見入っていた者たちの熱だった。
やがて茶碗は満ち、底が見えなくなるほど銭が積まれていた。
貴丸はその中から二十文だけを取り、残りを店主へ押しやった。
「これ場所代ね。あとはどうぞ、ありがとねー」
店主は慌てて手を振るが、貴丸はもう興味を失ったように外へ向かう。
「さて、と。じゃあ、あれを買いに行こうかな」
露天の小さい壺を思い浮かべていた。
そして、軽く手を振って茶屋を後にした。
その背中を見送る店の中で、一人の男が静かに立ち上がる。
「店主、馳走になった。代はここへ置く」
銭を置き、すっと外へ出る。身なりは悪くない。だが、目だけが妙に鋭かった。
貴丸はまだ気づいていない。
男は人混みに紛れながら、その背を静かに追い始めていた。