作品タイトル不明
第104話 清水湊
そして、二日ほどの船旅を経て、一行を乗せた船はようやく駿河国有度郡――清水湊の沖へ辿り着いた。
朝靄の向こうに、ぼんやりと陸影が見え始めた頃である。
「見えてきたな」船頭が低く呟く。
冬前の空は白く霞み、海と空の境目すら曖昧だった。その薄靄の中から、ゆっくりと湊の姿が浮かび上がってくる。
沖には大小様々な帆船が幾つも停泊していた。千葉湊でも船は多かったが、こちらはまた少し空気が違う。
関東の武士たちの荒々しさよりも、どこか落ち着いた雰囲気があった。
沖で順番を待つ船。小舟で荷を運ぶ人足。浜で馬を引き回す馬借。そして、荷の種類ごとに動く問屋衆。
それらが雑然としているようで、不思議と噛み合って動いている。
「船、いっぱいだな……」貴丸は船縁へ身を乗り出した。
沖合には、大きな帆を畳んだ廻船が幾つも並び、その間を小舟が忙しなく行き来している。
中には伊勢風の船もあれば、西国風の造りの船も混じっていた。さらに岸近くでは、漁船らしき小舟が網を干している。
潮の匂い。魚の生臭さ。濡れた木材の香り。焚火の煙。それらが入り混じった湊独特の空気が、風に乗って流れてきた。
怒鳴り声まで聞こえてくる。船が岸へ近づくにつれ、その喧騒はどんどん大きくなっていった。
やがて船頭が舵を切る。清水湊は遠浅で、大きな船はそのまま接岸できないらしい。
そのため沖で停泊し、小舟へ荷を積み替えて陸へ運ぶのである。
「面倒そうだなぁ……」
貴丸がぼやくと、治兵衛が苦笑した。
「どこの湊も似たようなものです」
「いやでも、これ絶対落とす人いそうでしょ」
実際、少し離れた場所では、荷樽を海へ落としたらしい人足が怒鳴られていた。
その間にも、小舟が横付けされ、八田屋の荷が次々移されていく。
治兵衛は既に仕事の顔になっていた。
「その反物は濡らすな!」「帳面と照らせ! 一つでも足りなければ後で大事になるぞ!」「今川方への届けは先に出せ!」
普段の柔らかな商人の顔とは違う。番頭として場を仕切る声だった。
元伯はそんな様子を見ながら、呑気に笑っている。
一方、忠家は周囲を静かに観察していた。
「役人が多いですな」
その言葉通り、浜には今川方の役人らしき者たちが何人も立っていた。
荷を確認し、船頭と話し、怪しい者がいないか目を光らせている。勝手な抜荷や密売を防いでいるのだろう。
やがて荷下ろしが一段落し、一行はようやく小舟へ乗り換えて浜へ渡った。足元の板がぎしぎし揺れる。
貴丸は少し顔を顰めながら浜へ飛び降りた。
途端。清水湊の熱気が、一気に身体へ押し寄せてきた。
治兵衛は着くなり忙しく立ち働いている。
荷の確認、船頭との話、今川方への届け出――八田屋の者たちも慌ただしく走り回っていた。
元伯と桑折忠家は、そのまま八田屋の清水店へ向かい、到着早々、駿府への謁見願いを出すための使者を立てるという。
その結果。当然のように、貴丸だけが暇になった。
「じゃ、ちょっと見てくるよ」
そう言い残し、三兵衛と八田屋の小僧を案内役に湊へふらふら消えていく。
浜には魚の匂いと潮の香り、濡れた縄の臭い、干物を焼く煙が混ざり合い、絶えず人の怒鳴り声が飛び交っていた。
「おいそっち運べ!」「米俵濡らすな!」「馬借呼んでこい!」
湊の周囲には問屋や馬借の小屋が並び、海から来た荷が次々と馬へ積み替えられていく。それらは駿府や山間部へ運ばれていくらしい。
市場には近海の魚介だけではなく、塩、米、干物、布、油、薬種まで並び、諸国の商人が入り乱れていた。
貴丸は目を細める。
「なんか、ここ、ごちゃごちゃしてるね」
「清水はそういう場所です」
案内役の八田屋の小僧が、少し誇らしげに言った。
「三河や遠江だけじゃありません。伊勢や近江から来る船もおります。“面白い物”が集まる湊なんですよ」
「へぇ……」
だが同時に、貴丸は別のものにも気づいていた。
「あれ何かな?」
「役人です。勝手な商売をすると、座銭や通行銭を厳しく取られますので。ですが、その代わり治安は良いんです」
小僧は続けた。
「盗賊や海賊が勝手できぬのも、“今川様が睨んでおるから”です。だから皆、安心して商売ができるので」
貴丸は、なるほどな、と少し感心した。
ただ人が集まるから栄えるのではない。守る力があるから、人も銭も集まるのだ。
そんなことを考えながら歩いていると。
ふと、露天の机に並べられた奇妙な品へ目が止まった。
小さな壺だった。ひとつには、どす黒く粘ついた液体。もうひとつには、真っ白な粉。
近づいた瞬間、鼻へ妙な臭いが刺さる。
「くっさ」「へい。草生水ですよ」
店番の商人が笑った。
「地面から湧いてくる臭ぇ油でさ。火がよう燃えるんで、松明や火付けに使う者もおりますな」
貴丸は興味津々で覗き込む。
「へぇ……アスファルトみたいな臭いがするな……」
そして白い粉の方を見る。
「これは?」
「貝灰です。貝を焼いて砕いた粉でさぁ。壁塗りや漆喰に使うそうなんですがね」
商人は肩を竦めた。
「駿河の浜で作った品で壁に使えるとか聞いて、駿府の普請方へ見せたんですが、量が揃わねぇって追い返されまして。固まるらしいんですがねぇ。俺ぁ詳しく知りません」
「壁なぁ…」
つまり、売れ残りだった。
商人は面倒そうに頭を掻く。
「持って帰るのも荷になるんで、片方十文ずつ、まとめて二十文でいいですよ」
その瞬間。貴丸の目が妙に輝いた。
三兵衛が嫌な予感を覚える。
「……若様、また何を考えておられますか?」
「いや?」貴丸はにこにこしながら壺を持ち上げた。
草生水。貝灰。どちらも、この時代の人間にはありふれた半端物でしかない。
だが貴丸の目には、まるで宝物のように見えた。
「なんか面白そうだなって思ってさ」
その笑顔を見た三兵衛は、静かに空を仰いだ。
――また何か始まる。
この道中で培われた勘が、そう告げていた。