軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第102話 千葉氏との謁見

そして、旅籠へ戻ってからも、しばらくは誰もが疲れを引きずっていた。

中でも元伯の疲労は隠しようがない。囲炉裏の火に照らされた顔には、深い皺がいつも以上に濃く落ち、肩もわずかに沈んでいる。

長旅の疲れもあっただろう。千葉家との対面による気疲れもあったはずだ。だが何より、その疲労へ最後にとどめを刺したのが、自分の孫が番屋の牢へ放り込まれていたという事実だった。

しかも理由が。――博打の胴元ではないかと疑われたから。

あまりにも馬鹿げている。だが、実際に起きている以上、笑い話として流しきれる類のものでもない。

旅籠の大部屋には、これから訪れる冬の冷えを感じる。障子の隙間から入る夜気は細く冷たく、火の近くにいても足先はじんわり冷えるほどだった。

その火を囲みながら、三兵衛が疲れ切った顔で事情を説明し始める。

「まず、朝から若様が……その……」

言い淀む。既にこの時点で、言いづらそうだった。

「ごろごろと寝転がっておりまして。なので、少しは庭で身体でも動かされよ、と申したのでござる」

すると、ほんの少し目を離した隙に、貴丸の姿が消えていたらしい。

最初は、どうせまたどこかで寝転がっているのだろうと思った。だが、いくら探しても見つからない。しかし、草履は残っていた。

庭にもいない。厠にもいない。炊事場にも裏口にもいない。旅籠中を探し回るうち、三兵衛の顔色は段々悪くなっていったという。

「まさか、本当に攫われたのではと……」

そこまで言って、三兵衛は深く息を吐いた。だが、当の本人へ事情を聞けば。

「寒かったから、奥の部屋の木箱に入って寝てた」

などという、実に暢気極まりない返事が返ってきたのである。しかも、その木箱が妙に暖かく、狭さも程よかったらしい。

貴丸はそのまま丸くなって眠り込み、気づけば夜になっていた。

「猫かお前は……」元伯が思わず呻くように漏らす。

忠家が顔を背け、肩を震わせていた。しかし問題は、そこからだった。

目を覚ました貴丸が、のそのそ木箱から顔を覗かせると、すぐ傍で博打が開かれていたのである。

薄暗い灯りの中、荒くれた男たちが車座になり、一文銭を投げ、酒臭い息を吐きながら怒鳴り合っている。

そんな場へ、木箱から子供がひょこり顔を出したのだ。

見つからぬはずがなかった。

「で、そのまま何故か混ざることになったんだよ」

貴丸は悪びれもせず言った。

元伯が無言で目を閉じる。

「いや、儂はもう聞きとうないぞ……」

本気でそう思っている顔だった。だが、話はまだ終わらない。さらに問題だったのは、その後である。

貴丸が、遊び半分で思いついた博打を披露し始めたところ、これが異様に当たり始めた。勝って。また勝って。さらに勝った。

当然ながら、貴丸は本当のこと――つまり、いかさまで勝ち続けていたとは言えない。

最初、博徒たちは笑っていた。「なんだこのガキは」「運だけは良いな」

そんな程度だった。だが、勝ちが重なるにつれ、空気が変わり始める。

笑っていた目が細くなり、声が低くなる。酒臭かった空気へ、じっとりとした猜疑が混じっていった。

「……おい」「こいつ、妙じゃねえか」「こやつ、本当に童か?」

そして気づけば、貴丸の脇には、誰よりも多くの銭が積み上がっていた。

元伯が額を押さえる。

三兵衛も、あの時の光景を思い出したのか、引き攣った顔で頷いた。

「影盛……銀四郎殿から、“本当に困った御方”と聞いておりましたが、まさかここまでとは……」

どう見ても只者ではなかった。

幼子が賭場の真ん中に座り込み、銭を山積みにしながら、得体の知れぬ満足げな笑みを浮かべているのである。

役人が踏み込めば、胴元と疑われても仕方がない。

貴丸としても、途中で抜けたかったらしい。だが、もう空気がそれを許さなかった。

負けた男たちの目が据わり始めていたのだ。

そのため、「厠へ行きたい」と席を立ち、その隙に三兵衛へ役人を呼んでくれと頼んだらしい。

だが。役人が来た頃には、既に遅かった。どう見ても現場の中心人物は貴丸だったのである。

結果――そのまま番屋送り。三兵衛はそこまで話し終えると、がっくり肩を落とした。

「……まぁ、役人衆から見れば、疑われても仕方なかったようでござる」

囲炉裏の火が揺れる。しばし沈黙が落ちた。

その後、貴丸が何気なく口を開く。

「でもさ、初日は早く迎えに来てほしかったけど、二日目からは、あの牢も案外居心地よかったよ」

その発言を聞き、元伯は深々と額を押さえた。指の隙間から漏れる吐息が、やけに重い。

「……お前は、牢屋が居心地良かったなどと……儂は本当に、お前の将来が心配じゃ…」

心底からの声だった。

すると貴丸は、どこか納得いかぬ様子で口を尖らせる。

「いや、今回はちゃんと、じっとしてたんだよ? 木箱の中で」

「そもそも、木箱に入って隠れようなどとするから始まったのであろうに」

「うっ」即座に潰された。

忠家がとうとう堪えきれず吹き出す。治兵衛まで俯き、肩を震わせていた。

だが、当の貴丸は全く懲りていない。

「でもさ、あの銭の扱い、かなり腕が上がったよ。やっぱり実際にやるのが一番だね。習うより慣れよだよ!」

「なんじゃ、その言葉は……なぜにそんなものの腕を上げておるのじゃ、お前は……」

元伯は呆然とした顔で言った。大きく、深いため息。もはや怒る気力すら削れている。

そして囲炉裏の火を見つめながら、ぼそりと呟いた。

「倒るる所に土を掴むを、ここまで地で行く者も珍しい……」

すると忠家が苦笑混じりに続ける。

「倒るる所に土を掴むなど、賭博で牢へ入れられておらねば、誠に殊勝な心掛けでございましたのにな」

「まことにな……」元伯は遠い目をした。

囲炉裏の火だけが、静かに揺れていた。

その後。

貴丸が膝を抱えたまま、ふと思い出したように口を開く。

「そういえば、帰り遅かったね」

その言葉に、忠家が「ああ」と頷いた。

夜も更け始めている。旅籠の外では風が板壁を撫で、時折、軒先が小さく軋んだ。薄暗い室内には炭の赤い光が揺れ、人の顔を半ばだけ照らしている。

忠家は湯呑を手にしたまま、静かに言った。

「思いのほか、歓待されましてな」

「歓待?」

「ええ。やはり元伯殿は、京のみならず、日の本中を巡り、高山国にまで渡ったお方ゆえ。千葉勝胤様も、大層お気に召されたようでございました」

そう言って忠家は、どこか感心したように元伯を見る。

実際、あの場での元伯は見事だった。古河の話をすれば、関東の諸勢力の動きを語り。京の話を振られれば、公家や寺社の空気を語る。

果ては海の向こう――高山国で見た異国の風俗にまで話が及び、勝胤は目を細めながら何度も酒を勧めていた。

戦国の世において、「広く見聞を持つ」ということは、それだけで一つの力だった。

だが、その言葉を聞いた元伯は、すぐには頷かなかった。

囲炉裏の火を見つめたまま、静かに目を細める。火の赤が、その皺深い横顔へゆらゆらと揺れていた。

「……いや」低い声だった。

先ほどまで貴丸へ向けていた呆れ混じりの声音とは違う。もっと重く、もっと乾いている。

「あれは単なる歓待ではない」

室内が静かになる。貴丸も自然と口を閉じた。

元伯は炭火へ一本の薪を寄せながら、ゆっくり続ける。

「千葉殿は今、非常に難しい立場に置かれておるのだ。だから……ああいう話にでも、しばし逃げたかったのであろう」

ぱちり、と火が鳴った。その小さな音が、妙に耳へ残る。

元伯の目は火を見つめていたが、その視線はもっと別のもの――乱れ始めた坂東の情勢を見ているようでもあった。

「今の千葉家は、古河公方を支えておる」

静かな声。だが、その一言だけで、場の空気は少し張り詰めた。

「元を辿れば、千葉家は平氏嫡流。坂東における名門中の名門よ。鎌倉以来の家柄と言ってよい。かつては、この関東で千葉の名を知らぬ者などおらなんだ」

そこで元伯は、一度言葉を切る。炭が崩れ、小さく赤い火の粉が舞った。

「だが……時代が変わりつつある」

その声音には、古い秩序が軋む音が滲んでいた。

「近頃、急に力を伸ばしてきた北條、山内上杉、扇谷上杉。その争いへ、千葉殿も巻き込まれておるのだ」

貴丸は黙って聞いていた。名前だけは知っている。だが、それぞれがどう絡み、どう争っているかまではまだ実感として掴めない。

ただ、元伯の口ぶりから、それが相当に厄介な話なのだということだけは伝わってきた。

忠家が低く問う。

「家中も、一枚岩ではござらんので?」

元伯はゆっくり頷いた。

「原、高城などの有力土豪どもは、もはや勝胤殿の指図を待たぬであろう。己の領地を守るため、それぞれ勝手に北條へ寄ったり、上杉へ寄ったりしておる」

そこには、どこか諦めにも似た響きがあった。

「守護としての威は、既に大きく揺らいでおるよ」

名門。それ自体は確かだ。

血筋も、家格も、歴史もある。だが、その“名”だけで人が従う時代は、既に終わり始めているのかもしれなかった。

そこで貴丸が、ふと顔を上げる。

「確か、爺さんも一時は北條に身を寄せてたんだよね」

元伯は、囲炉裏の火を見つめたまま、少しだけ目を細めた。

「ああ。早雲様には、ほぼ仕えていたと言っても過言ではなかったな」

その名を口にした時だけ、元伯の声にはわずかな敬意が混じった。

伊勢宗瑞――北條早雲。

今なお坂東で、その名を恐れぬ者は少ない。

「もっとも、儂は正式な家臣ではなく、客分のような立場で何年かおっただけだがの」

そう言って、元伯は火箸で炭を軽く崩した。赤い火が、ふわりと明るくなる。

「千葉との戦そのものへ直接出たことはない。だが、武田が動けば厄介ゆえな。北條方として、その抑えに回されたことはあった」

「武田って、甲斐の?」

「うむ。今もだが、誰がどこと結ぶかで、坂東の有様などすぐ変わるからな。北條が坂東で事を構えれば、背後の武田や今川まで気を配らねばならぬ。戦とは、目の前だけ見ておればよいものではないのだ」

元伯はそこまで言うと、少しだけ遠い目をした。

「……早雲様は、その辺りをよう見ておられた御方だった」

だが、その後に続く氏綱の名が出た途端、元伯の口調は僅かに淡くなる。

「そして、氏綱殿の代になってから、銀四郎と共に北條を去ったのだ」

そこから先は語らない。

貴丸は口を開きかけて、やめた。

何となくだが。そこから先は、あまり踏み込んではならぬ話のような気がしたのである。

室内へ静けさが落ちる。遠くで風が鳴った。

貴丸はぼんやりと思う。名門であることと、人が従うことは別だった。戦国とは、きっとそういう時代なのだろう。

すると元伯が、少し空気を変えるように続けた。

「もっとも、勝胤殿ご自身は、本来は武辺一辺倒のお方ではない。京より歌人を招き、自らも和歌や連歌を愛されておったな。宗長殿とも深い付き合いがあったそうでな」

元伯は少し笑う。

「儂は今回、初めてお会いしたがのう。佐倉歌壇にも、宗長殿はよく顔を出していたらしい」

貴丸の中で、武家の棟梁と聞けば、槍と鎧と血の匂いばかりだった。だが実際には、こうして歌を詠み、連歌を楽しみ、文化へ心を砕く者もいる。

貴丸は少し意外そうに目を丸くした。

「へぇ……」

すると、その流れで忠家が何気なく言った。

「そういえば、真理谷が支えている足利義明様。近頃、失踪したとか、病が重いとか、妙な噂を耳にしますな」

その瞬間だった。元伯の顔が、わずかに曇った。

いや。曇ったというより、一瞬だけ、苦いものを噛み潰したような顔をした。

ほんの僅かな変化。だが、貴丸はそれを見逃さなかった。

火が揺れる。

赤い光が、元伯の沈んだ横顔を静かに照らしていた。