作品タイトル不明
第101話 牢屋噺
そして、貴丸は牢へ入れられた。
もっとも、流石に役人たちも多少は考えたらしい。
博徒どもと同じ牢へ入れれば、口裏合わせをされる恐れがある。あるいは、無体な暴力がないとも限らない。
結果として、貴丸は別の牢へ押し込まれることになった。
ぎぃ、と重い木戸が開く。湿った空気が流れ出てきた瞬間、貴丸は眉をしかめる。
中は薄暗かった。高い位置に小さな格子窓が一つだけあり、そこから細い光が斜めに差し込んでいる。だが陽はほとんど届かず、床はじめじめと湿っていた。
藁筵は黒ずみ、隅には得体の知れぬ染みが広がっている。
そして何より。臭い。汗。垢。糞尿。湿気。咳き込んだ痰。
それらが長年染みついた臭気が、まるで澱のように牢の中へ溜まり続けていた。
二十人近い囚人たちの目が、一斉に貴丸へ向く。
刺すような視線だった。無精髭を伸ばした男。鼻の潰れた男。片目の濁った男。痩せ細った男。
皆、牢暮らしの疲れを顔へ刻み込んでいる。
その視線を受けた貴丸は、一瞬だけ固まった。だが次の瞬間には、にへらっと愛想笑いを浮かべていた。
「えへへ……どもども」
すると後ろの役人が鼻で笑う。
「博打場にいたらしいぞ。しかも一番勝ってたそうだ。この童が胴元だったのかもな」
ガチャン、と木戸を閉めながら続けた。
その言葉に、牢内の空気がわずかに変わる。だが。貴丸はそれどころではなかった。
牢へ一歩踏み込んだ瞬間、顔をしかめる。
「くっさ」
あまりにも率直だった。囚人たちが「は?」という顔をする。だが貴丸は気にしない。鼻を押さえながら周囲を見回した。
「こりゃ駄目だなぁ……ねぇ、みんな、お腹しょっちゅう壊したり、咳止まらなかったりしない?」
そして平然と続ける。
しん、と空気が止まった。囚人たちは顔を見合わせる。思い当たる節がありすぎたのだ。
貴丸はさらに続ける。
「あと、体痒くない? 病になりやすかったりしない? それと、この四六時中臭いの、嫌じゃない?」
何人かが無意識に腕を掻いた。また数人が視線を逸らす。
そこかしこで、頷くものがいた。
牢番たちが気づかぬ程度の、小さな同意だった。すると貴丸は、突然牢の格子へ駆け寄る。大声だった。
「ねぇー! 門番さーん! おーい! ねぇってばー!」
囚人たちがぎょっとする。何度か続けたところで、ようやく奥から面倒臭そうな足音が近づいてきた。
「なんだよ…うるせぇな……」
顔を出した門番は、露骨に嫌そうだった。だが貴丸は気にしない。
「あのさ、この牢の人たちって、しょっちゅう腹壊したり病になったりしてない?」
門番が眉をひそめる。
「……まぁ、そりゃ」
「もしも誰かが死んだりしたら片付けるのも大変でしょ? 手続きしたり、埋めたりするの、一日仕事だったりする?」
「……そりゃいつも大変だよ…」
どうやら図星だったらしい。
貴丸はさらに言葉を重ねる。
「それに門番さんたちも、よく風気引いたり、お腹壊したり、体が痒くなったりしてない?」
「……」
「あと、この臭いの中ずっといるの嫌じゃないの?」
門番は黙った。全部、思い当たるからだ。
すると貴丸が、得意げに胸を張る。
「これ、簡単に変える方法あるよ。しかも銭、ほとんどかからない」
「……は?」
今度は門番の方が興味を持った。
「何をすればいいんだ」
貴丸は指を立てる。高い位置の小窓を指差した。
「まず、あの小窓を開ける。それと、昼になったら筵を外へ干して、お日様に当てる」
囚人たちがざわつく。
「あと厠の場所決めて、壺を置いて、そこへ灰をかける」
「灰?」
「厨から出るやつ、それだけで臭いが減るよ」
「……」
門番は半信半疑だった。だが、貴丸は止まらない。
「あと、水は煮て飲む。火なんか使えないなら外で煮るの。あと、厠行ったら手を洗う」
牢内が静まり返る。この時代、“病は穢れ”とは考えられていても、“汚れで病が広がる”という感覚は薄い。
だからこそ、貴丸の言葉は妙に異質だった。
「これだけで、門番さんの仕事、半分くらい楽になると思うよ」
門番は、しばらく黙っていた。やがてぼそりと呟く。
「……試すだけなら、ただか」
「うん!」貴丸は満面の笑みだった。
「二日だけやってみようよ!」
そして囚人たちへ振り返る。
「牢、ちょっとでも過ごしやすくなるなら、みんなも協力するよね?」
すると。あちこちから頷きが返ってきた。
その日から、本当に試してみることになった。
窓を開ける。筵を干す。灰を撒く。水を替える。手を洗わせる。最初は皆、半信半疑だった。
だが。翌日には、あの鼻へこびりつくような臭気が明らかに薄れていた。
さらに二日後。
毎日のように誰かが腹を下していた牢で、その日を境に腹を下す者が、目に見えて減った。
咳も減る。虫も減る。門番たちの間で、ざわめきが起き始める。
「……なんなんだあのガキ」
そして三日目には。貴丸は、牢の中でも妙な立場になっていた。
「おう、貴丸様、こっち座んな。おい、お前の飯そっちへ寄越せ。育ち盛りの童なんだから、飯増やしてやれよ」
なぜか貴丸の飯だけ、毎回少し大盛りになっていた。
誰が言い出したのか、いつしか囚人たちは貴丸を「貴丸様」と呼ぶようになっていた。
喧嘩の仲裁を求められ、揉め事があれば話を聞かされ、夜になれば自然と貴丸の周囲へ人が集まる。
気づけば、この牢の空気は、入ってきた頃とはまるで別物になっていた。さらに夜になると、貴丸は牢の真ん中で噺まで始める。
「昔々、あるところに……」
囚人たちは最初こそ呆れていた。だが、話が始まると皆聞き入ってしまう。
文七元結のような落語では涙を流し。寿限無のような落語では腹を抱えて笑った。
前世で聞いた噺を、貴丸なりに崩して語る。湿っぽかった牢屋の空気が、いつしか妙に賑やかになっていく。
そして五日目。
牢の外から、ばたばたと慌ただしい足音が響いた。
「た、貴丸! 無事か!? じじいが助けに来たぞ!」
聞き覚えのある声だった。
元伯である。顔色を変え、ほとんど駆け込むように牢前へ現れた。
だが。そこで元伯は、思わず固まる。
牢の中。積み重ねた筵の一番上へ貴丸が座っていたのだ。周囲の囚人たちは、食い入るように話を聞いている。
ちょうど噺の締めだった。
「――お後がよろしいようで」
ぱん、と手を打つ。
すると。牢内から拍手喝采が起きた。
「おもしれぇなぁ!」「もう一席!」「貴丸様ぁ!」
中には目を赤くしている囚人までいる。
「……俺ぁ、もうここには戻ってこねぇぞ……」
貴丸の火事息子のような噺に感動したのか、本気で呟いている男もいた。
元伯は完全に理解が追いつかなかった。
貴丸は筵の山から、ひょいと飛び降りた。
「あ、じいさまが来た」
軽い。あまりにも軽い。牢へ迎えが来た者の態度ではない。
そして貴丸は、まだ笑いの余韻が残る牢内をぐるりと見回し、わざとらしく小さく咳払いをした。
貴丸はにやりとして、入口に立つ元伯を指差す。
「さてさて、私の迎えの 老(・) 爺(・) が来ましたので、 牢(・) 屋(・) 暮らしもここまでで」
一瞬、牢内が静まり――次の瞬間。
「ぶはははは!!」
爆発したように笑い声が起きた。
「くだらねぇ!」「貴丸様ぁ、最後までしょうもねぇなぁ!」
囚人たちは腹を抱え、門番まで肩を震わせている。
貴丸は満足そうにうなずき、最後にぺこりと頭を下げた。
「それでは皆様、ご機嫌よう。お後がよろしいようで」
ぱん、と手を打つ。
すると牢内から、再び拍手喝采が湧き起こった。
「もっといてくれよ!」「次はいつ来るんだよ!」「貴丸様ぁ!」
中には、本気で名残惜しそうな顔をしている者までいる。
貴丸は気安く手を振った。
「また機会があれば会おうね!」
そして、にっと笑う。
「俺もだけど、次会う時は、もっとまともな場所でね」
どっと笑いが起きる。牢中が揺れるほどだった。
その横で。元伯だけは、終始無言だった。
旅籠へ戻る道すがらも、ずっと黙ったまま。
そして心の底から思う。――何をどうすれば、牢へ入って数日でこうなるのだ。
自分の孫は、一体何者なのだろう。困惑しかなかった。
すると隣を歩く貴丸が、ぽつりと呟く。
「……もう少し居てもよかったかな」
元伯は、その日、旅籠へ着くまで一言も口を開かなかったという。