作品タイトル不明
第100話 箱入り若様と銭御用
そして翌日である。
昨日は昨日で、三兵衛の目を盗んではふらふらと町を歩き回り、挙句の果てには、泣き虫の妙な童まで拾ってきたものだから、流石に今日は大人しくしていてください――と、朝からきつく釘を刺されていた。
そのため、貴丸は旅籠の中で過ごしていた。
もっとも、“大人しくする”と“じっとしている”は、貴丸の中ではまるで別の意味である。
昨日は熟睡したので今日はなぜかあまり眠くなかったのだ。
つまり本人としては、部屋の中で転がっていれば、それは十分に大人しいつもりなのだ。
「三ちゃん、お茶」
ごろり。
「三ちゃん、腹減った。なんか持ってきて」
ごろごろ。
「三ちゃん、寒い。なんか羽織るやつ」
床へ顔を押しつけたまま、もぞもぞ。
「三ちゃん、寝れないから面白い話して」
「寝ておられたでしょうが」
「今起きた」
「さようでございますか」
三兵衛の声から、徐々に感情が抜け落ちていく。
だが貴丸は気づかない。
「三ちゃん、今度は寝過ぎて腰痛い。揉んで」
ついに。
「貴丸様!!」
障子がびりっと鳴るほどの声だった。貴丸がびくりと肩を震わせる。
三兵衛は額へ青筋を浮かべながら、ずいと身を乗り出した。
「琴様より、“少しは身体を動かせ”と仰せつかっております! もう外へ出てくださいませ!」
「えぇ……」
露骨に嫌そうな声だった。
「庭を少し歩くだけで結構です!」
「寒いじゃん」
「歩けば温まります!」
「じゃあ三ちゃんが歩いて」
「そういう話ではございませぬ!!」
結局、半ば追い出されるようにして、貴丸は旅籠の庭先へ出された。
冬が近づく浜の空気は容赦なかった。北風が、ひゅう、と軒下を吹き抜ける。吐いた息は白く、耳が一瞬で冷たくなる。
庭の隅へ積もっていた落ち葉が風に転がり、からからと乾いた音を立てた。
貴丸は三歩だけ歩き、「……無理ぽよ」そう呟いた。
そして、ものの十秒で戻ってきた。だが、そのまま自分たちの部屋へ戻れば、三兵衛がまた五月蝿そうだ。
廊下へ立ったまま、どうしたものかと視線を彷徨わせる。
すると、最奥の部屋の隅に大きな木箱が積まれているのが見えた。
布団か、あるいは旅人の荷でも入れる箱だろう。木肌は擦れて白くなり、角には縄の跡が残っている。
貴丸は、その箱を見た瞬間、ふと思い出した。
――船の木箱。あの時も、狭かったが妙に落ち着いた。
揺れる音と木の匂いに囲まれた空間は、押し入れとも違う、不思議な安心感があったのだ。
「……これ、いいじゃん」
誰に言うでもなく呟き、貴丸は蓋をずらす。中には畳んだ布団と藁が少し入っていた。
乾いた藁の匂い。木の匂い。少しだけ湿気を含んだ古い布の匂い。
狭く、暗く、外の音が遠い。まるで秘密基地のようだった。
「……ここ、落ち着くなぁ」
そう呟くと、そのまま箱の中へ潜り込み、ごろんと横になる。
木箱の天井は低く、寝返りも打ちづらい。だが、それが逆に心地よい。
外では旅籠の者たちが忙しなく動き回り、廊下を歩く足音や、どこかの客の笑い声がかすかに響いている。
それらが木箱越しにぼやけて聞こえるのが、妙に眠気を誘った。やがて貴丸は、そのまま眠ってしまった。
どれほど眠ったのか。
ふと目を開けた時には、もう夜だった。箱の隙間から、ぼんやりと橙色の光が差し込んでいる。
行灯の灯りだ。
昼間とは違い、旅籠全体がどこか低い声で息をしているような空気に変わっていた。
酒の匂い。焼いた魚の匂い。遠くで誰かが笑う声。廊下を軋ませる足音。
その中へ混じって、聞き慣れた声が飛び込んでくる。
「貴丸様を知りませぬか?」
三兵衛だった。どうやら探し回っているらしい。だが、返事をしようとしたその時、別の声が耳へ届いた。
「……おい、次は俺の親の番だな」
低い声だった。
貴丸は箱の隙間から、そっと外を覗く。最奥の部屋の片隅。
宿泊する博徒たちが、行灯を囲むように座り込んでいた。
男たちの顔には、灯りが下から揺れて当たり、鼻筋や頬の影が濃く浮かび上がっている。
酒臭い息。擦り切れた着物。指先だけ妙に綺麗な男。
床へ敷いた布の中央には、小さな壺と賽子、そして積まれた銭。
どうやら“チョボ”――四半博打のようなものを始めるらしい。
壺へ賽を二つ入れ、その目が偶数か奇数かを当てるだけの単純な遊びである。
もっとも、そこへ金が乗れば話は別だった。銭が畳へ落ちる音が、やけに生々しい。
ちゃり。
ちゃり。
男たちは低い声で笑いながら、次々と金を積んでいく。その様子を、貴丸は木箱の隙間からぼんやり眺めていた。
「……ん?」
最初は偶然かと思った。だが、何度か見ているうちに、違和感が積み重なる。
一人だけ、妙に勝つ男がいた。痩せた男だった。
頬がこけ、目だけが妙にぎらついている。だが何より気になったのは、その指先だった。
壺を扱う時だけ、指が妙に滑らかに動く。まるで賽の位置を知っているように。
そして、その男が胴を取る時だけ、不自然なほど同じ目が続く。
偶数。
また偶数。
そして次も。
「……あー」
貴丸は、そこで理解した。いかさまだ。だが、周囲の誰も気づいていない。
負けた者たちは悔しそうに頭を掻き、また次の銭を出していく。痩せた男だけが、静かに笑っていた。
その時だった。
ふと、一人の博徒が木箱の方へ目を向けた。行灯の火が、ゆらりと揺れる。
薄暗い大部屋の隅。布団や荷を押し込むための大きな木箱の隙間から、ほんのわずかに布が覗いていたのだ。
「……おい」
低い声に、周囲の空気がぴたりと止まる。
「そこに誰かいるぞ」
途端、数人分の視線が一斉に集まった。
しまった――と思う間もなく、木箱の蓋がぎぃ、と内側から動く。
そして、その隙間から、ぬっと貴丸の顔が現れた。
「えへへ……ここで寝てたら、眠っちゃって」
間の抜けた声だった。博徒たちが顔を見合わせる。旅人ではない。かといって、町の童でもない。
着物はそこそこ良いものだが、袖は寝返りで乱れ、髪は木箱の中で潰れたのか、妙な方向へ跳ねている。どう見ても、ただの子供だった。
「……なんだぁ?」「ガキか?」「脅かしやがって……」
酒臭い笑いが漏れる。だが、その笑いの奥には、じっと値踏みするような色も混じっていた。
夜更けの旅籠で、博打場へ迷い込んだ子供。まともな存在ではない。
貴丸はそんな空気などまるで気にした様子もなく、もぞもぞと木箱から這い出してきた。狭い場所に長くいたせいか、背を伸ばして「んーっ」と欠伸をする。
そして、そのまま行灯の輪へ近づいた。
「ねぇ、それ俺も混ぜてよ」
そう言いながら、懐をごそごそ探る。
昨日、一文しか持っていなかったことを悔しがり、「もしもの時に困る」と三兵衛へ散々駄々をこねた結果、ようやく手に入れた五枚の一文銭だった。
ちゃり、と床へ置く。
「これしかないけど」
途端。博徒たちの口元に、ぬるりとした笑みが浮かぶ。
――楽な獲物だ。誰もが同じことを考えた。負けさせる。泣かせる。身ぐるみを剥ぐ。その後、人買いへ流してもいい。
そんな薄暗い欲が、行灯の火の向こうでゆらゆらと揺れていた。
だが。始まってみると、妙だった。
「丁か半か!」
壺が振られる。賽が鳴る。
畳へ銭が投げられ、湿った音が重なる。最初こそ、貴丸は適当に賭けていた。
勝ったり負けたり。子供らしく、きゃっきゃと笑っている。だが、しばらく見ているうちに、博徒たちも気づき始めた。
痩せた胴元の男――先ほどから妙に勝ち続けていた男が壺を持つ時だけ、貴丸が大きく張るのだ。
そして。
勝つ。
また勝つ。
偶然にしては、出来過ぎていた。
「……坊主、運がいいな」
誰かが目を細める。
「そう?」
貴丸はにへら、と笑った。だがその目だけは、妙に楽しそうだった。
壺を振る瞬間。指先の動き。賽の重さ。振る手首。
前世で山ほど動画を見たイカサマ師ほど洗練されてはいない。子供の貴丸から見ても、分かる程度には甘かった。
気づけば、貴丸の前には銭が積み上がり始めていた。ちゃり、ちゃり、と音が増えていく。
すると今度は、貴丸が不意に言った。
「ねぇ、今度は俺の博打やらない?」
「なんだそりゃ」「簡単簡単」
そう言って、一文銭を一枚摘まむ。小さな手が、ひょい、と左右へ分かれた。
「右か左か、当てるだけ」
博徒たちはどっと笑った。
「なんだそりゃ!」「子供遊びじゃねえか!」「いいぜ、やってやる!」
酔いも回り始めていた。負けを取り返そうという焦りもあった。
だから誰も気づかなかった。貴丸の指が、不自然に曲がっていたことに。
「じゃ、どっち?」
「右だ!」
貴丸が左手を開く。からん、と銭。
「えへへ、残念」
また別の男が叫ぶ。
「じゃあ左!」
今度は右手から銭が出る。何度やっても、中々当たらない。
多くの人が右へ賭ければ左。
そして左へ賭ければ右。
しかも貴丸は、やたら楽しそうだった。
「えへへ」「もう一回!」「そっちだ!」「残念でしたー」
笑いながら、銭を回収していく。実のところ、貴丸は左右の手に一枚ずつ持っているのだ。
小指の付け根へ銭を挟み込み、握っているように見せかけて隠していた。
前世で見たコインマジック――ゴッシュマンピンチ。船旅の暇潰しで延々練習していたものだった。だが、この時代の博徒たちが、子供の手品など想像できるはずもない。
やがて。空気が変わり始める。
「……おい」「待て」「なんかおかしくねぇか?」
酔いの中に、じわじわと疑念が混ざっていく。すると貴丸は、急に顔をしかめた。
そして股間とお尻を押さえる。
「やば。厠いっていい?」
博徒たちは顔を見合わせた。むしろ好都合だった。
――今のうちにイカサマを暴く。そう考えたのだろう。
「おう、行ってこい」「ただし銭は置いてけよ?」「逃げられちゃ困るからなぁ?」
「もちろんだよ」貴丸は素直に頷く。
積み上がった銭をそのまま残し、とことこと部屋を出ていった。
襖が閉まった瞬間。博徒たちは一斉に動いた。
「絶対イカサマだぞ!」「こんな外れるわけねぇ!」
銭を裏返す。畳を叩く。敷物を調べる。座っていた場所を探る。だが、何も出ない。
その頃。廊下へ出た貴丸は、ちょうど旅籠の中を探し回っていた三兵衛と鉢合わせた。
「貴丸様!? 一体、今までどこに――」
「三ちゃん」
「はい!?」
「この千葉湊って博打禁止だよね?」
三兵衛が、一瞬ぽかんとする。
「あぁ……まぁ、普通はどこも禁じられておりますが。特に千葉様の領地は厳しいと聞きます」
「役人呼んできて」
空気が凍った。
「……まさか」
三兵衛の顔が引き攣る。
「貴丸さま、あの中へ入っておられたのですか!?」
「大丈夫大丈夫」
何が大丈夫なのか、まるで分からない。そう言い残し、貴丸は腹をさすりながら、また博徒たちの部屋へ戻っていく。
その背を見送りながら、三兵衛は青ざめた顔で旅籠を飛び出した。一方の貴丸は、何事もなかったように座り直す。
「夜更かしすると、お腹ゆるくなるなぁ」
意味不明だった。博徒たちは、もう笑っていない。だが、引くにも引けない。
「……おう、続きをやろうぜ」
そこから先は早かった。貴丸はまた勝つ。当然のように勝つ。
ちゃり、ちゃり、と銭が積み上がる。
博徒たちの額に汗が滲む。
行灯の火が揺れる。空気が重くなる。
そして――。
どんッ!!!!
突然、旅籠の表戸が激しく開いた。
「御用だ!!」
怒号。複数の足音。役人たちが一斉になだれ込んでくる。
「逃がすな!」「全員捕らえろ!」
博徒たちは蜘蛛の子を散らすように立ち上がった。だが、多勢に無勢だった。逃げようとした者から押し倒され、縄を掛けられていく。
行灯が倒れ、銭が散らばり、怒鳴り声と悲鳴が入り乱れる。その様子を眺めながら、貴丸はにやにや笑っていた。
「博打なんかするやつは、みんな捕まればいいんだよ」
すると。役人の一人が、ふと貴丸へ目を向けた。そして眉をひそめる。
「……子供? 子供まで混じっておるとはな」
嫌な予感がした。
「え?」
「そいつも連れていけ」
「えっ」
がし、と腕を掴まれる。
「いや待って、俺、通報した側だけど」
「問答無用!」
「えっ、なんで!? なんで俺も!?」
その夜。
縄を掛けられ、半泣きで引きずられていく貴丸の声が、しばらく千葉の町へ響いていたという。