軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第99話 そして僕は

そして大泣きする弥九郎の手を引き、貴丸は旅籠へと戻ってきた。

朝だったのに、今は光が真上から少し落ちてきている。行き交う人々の声もどこか緩んでいる。

そんな中、少しばかり場違いなほど賑やかな足取りで、貴丸は戸口をくぐった。

そこへ、三兵衛が慌ただしく駆け寄ってくる。

「貴丸さま! どこへ行っておられましたか!」

息を整える間もなく、視線はすぐに貴丸の手元へ落ちた。貴丸は悪びれもせず、ぶら下がるように繋いでいた弥九郎の手を、ひょいと持ち上げる。

「なんか、これ拾ってきちった……」

まるで落ちていた小石でも拾ったかのような軽さである。

「やっぱりこれ、捨ててくる?」

その一言に、弥九郎は顔を真っ赤にして振り向いた。

「なんでそんなこと言うんだよ!」

堪えていたものが一気に決壊したように、再び大きな声で泣き出す。まだ幼さの残る声が、旅籠の中庭にまで響き渡る。

その場で、弥九郎はどうしていいのか分からず、ただ貴丸と三兵衛の顔を交互に見上げるばかりだった。

怒っていいのか、泣き続けていいのか、それとも黙るべきなのかも分からず、弥九郎は途方に暮れた。

三兵衛は目を白黒させながらも、ようやく状況を飲み込み、一歩前へ出た。

「……見れば、どこかのお武家の御子息のようですが、このようなお方を拾ってこられたのですか」

その言葉に、貴丸はあちこちへ適当に視線を投げる。路地の方を見たり、空を見たり、まるで自分のことではないかのようである。

話は一向に噛み合わず、拉致というほどのものでもなく、ただ偶然に巻き込まれただけの出来事に過ぎなかった。

「たぶん腹が減ってるだけだ。な、坊主?」

「坊主じゃない! 弥九郎だもん!」

涙混じりの声で言い返す。

「腹は減ってるんだろ?」

「……うん」

小さく頷くその様子に、貴丸は妙にあっさりと頷いた。

「俺も腹減った。じゃあ一緒に食おうぜ」

その言葉に、場の空気がふっと緩む。三兵衛もまた、思わず苦笑いを浮かべながら二人を奥へと案内した。

部屋に通されると、障子の隙間から西日の光が斜めに差し込んでいた。やがて旅籠の主人が食事を整えるために席を外すと、室内には妙な静けさが落ちる。

その間、貴丸は思い出したように小折から小さな包みを取り出した。たんきり飴と、乾いた鮭の燻製である。

「ほれ」

無造作に投げられたそれを、弥九郎は最初こそ警戒するように見つめていたが、恐る恐る口に運んだ瞬間、表情が変わる。噛みしめるたびに目が少しずつ丸くなり、やがて言葉もなく夢中で食べ始めた。

その後に運ばれてきた握り飯は、まだ湯気をわずかに残しており、塩気と米の匂いが部屋いっぱいに広がる。

弥九郎はしばし言葉もなく、ただ腹を満たすことだけに集中していた。

貴丸も一緒に頬張っていたが、ふと腹をさすった。

「……なんか、さっきから腹が冷えるな」

「浜風に当たりすぎたのでしょう」

三兵衛は気にも留めず答える。

飴と燻製を先に食べていたにもかかわらず、弥九郎の手は止まらない。よほど空腹だったのだろう、頬を膨らませながら、次々と握り飯を口へ運んでいく。

腹がようやく落ち着いた頃、弥九郎はぽつりと口を開いた。

「……街中で、義正から逃げてた」

「義正って誰だ」

「……二俣」

「二俣ってのは?」

「義正」

「義正って誰?」

「……二俣」

堂々巡りのようなやり取りのあと、また弥九郎の目に涙が滲む。

貴丸はしばらくその顔を見ていたが、ふと視線を宙に泳がせ、肩をわずかに落とした。

「……いやこれ、どうしたらいいんだろう」

ぽつりと、自分に言い聞かせるように呟く。

「そして、貴丸くんは途方にくれる」

――その時だった。

貴丸の動きが、ぴたりと止まった。

「……あ」妙に真顔だった。

三兵衛が眉をひそめる。

「どうされました」

貴丸はしばらく黙っていたが、やがてそろそろと自分の腹を押さえた。

「なんかさっきから、お腹冷えたなぁって思ってたんだよね」

貴丸は遠い目をした。

「…これ、たぶん駄目なやつだ……ちびっと……漏らしちった…」

部屋が静まる。弥九郎だけが意味を理解できず、きょとんとしていた。

三兵衛は天を仰いだ。

「貴丸様ぁ……」

貴丸は座ったまま、じわじわ現実を理解し始めていた。

「……いやこれ、どうしたらいいんだろう」

先ほどと、まったく同じ言葉だった。

やがて貴丸は、何事もなかったような顔で戻ってきた。

どこか妙にさっぱりした顔をしている。

「お待たせ」いそいそと褌を替えてきたことなど、一切口にしない態度だった。

だが三兵衛だけは、すべてを察した顔で遠い目をしている。

「……もう少し、落ち着いて行動してくだされ」

「いやぁ、子供は急に来るからね」

「子供でも、そうならぬ者の方が多いのです」

ややあって、貴丸が少しだけ間を置いてから尋ねた。

「で、さっきの話の途中だったけどさ、どこに住んでた?」

「……ながさぐん」

「どこだそれは……」

問い返しても答えは返ってこず、ただ首を振るだけで、また静かに泣き出す。

仕方なく三兵衛と相談し、ひとまず外へ出て様子を見ることにした。

見慣れぬ着物を着た弥九郎が、机の上に並んだ食器にも手をつけず、ただ貴丸の後ろをついて出ていく。まだ状況が呑み込めていないのか、袖を少し握りしめたまま、小さく歩幅を合わせていた。

徐々に日が傾き、通りには人影が増え始めていた。その時、少し離れた通りの向こうから、複数の声が響く。

「弥九郎様ー!」

その声を聞いた瞬間、弥九郎の顔がはっと上がる。

「義正!」

一団が駆け寄り、ようやく再会を果たした様子であった。張り詰めていた空気が一気にほどけるように、周囲の緊張も消えていく。

三兵衛と貴丸は顔を見合わせ、ようやく肩の力を抜いた。

「じゃあね」

貴丸はそれだけ言うと、軽く手を振り、その場を離れようとする。

その背に、義正が慌てて声を上げた。

「このご恩、何かにてお返しを!」

振り返ることもなく、貴丸は口の端だけで笑った。

「なら将来、あの坊主は俺の家臣な」

それだけ言い残し、何事もなかったかのように歩いていく。

残された者たちは、その言葉の意味を測りかねたまま、その背に向かって、ただ深く頭を下げるほかなかった。

その後、義正は弥九郎から話を聞き、旅籠を訪ね歩いた。そしてようやく、あの童らが八田屋の関係者であったことを掴む。

だが、八田屋の者たちは丁寧に頭を下げながらも、「守秘の契約がございまして」そう答えるばかりで、詳細を語ろうとはしなかった。

結局、旅籠の主人から聞けたのも、「陸奥のどこかの領主筋ではないか」という、曖昧な話だけだった。

弥九郎の記憶に残ったのは、わずか三つ。

たかまると名乗った童の顔と、硬いはじめて食べる味の鮭の身、そして妙に甘い飴。

それだけだった。

だがその日、ほんの数刻の出来事は、弥九郎の生涯から消えることはなかったという。

雨の近い湿った風が町を撫で、夕暮れの道が淡く輝きを返す季節になっても、弥九郎には、あの“たかまる”と名乗って笑っていた童の姿が、不思議なほど焼き付いて離れなかった。

腹を空かせ、泣きじゃくっていた自分へ、当たり前のように握り飯を差し出し、勝手に笑い、勝手に去っていった、自分より少し年上の、あの妙な童。

弥九郎の瞳に、あの日いったい何が映ったのか。

それは憧れだったのか。羨望だったのか。

あるいは――後に幾度も修羅場を潜ることになる己が、生まれて初めて出会った、“得体の知れぬ何か”の影だったのか。

それは、弥九郎自身にも最後まで分からなかったという。

――もっとも、このとき腹を空かせて泣いていた“弥九郎”という童こそ、後に房総を駆ける武将、“槍大膳”こと正木時茂その人であったとは、貴丸と三兵衛は知る由もなかった。