軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第98話 千葉湊の秋刀魚

千葉湊へ入って翌朝だった。

元伯、桑折、治兵衛らは、千葉家への挨拶へ向かう準備で慌ただしい。

その隙を見て、貴丸は、するりと旅籠を抜け出した。

本来なら三兵衛が目を光らせているのだが、今朝は荷や書状の確認で手を取られている。

――今しかない。貴丸は心の中で小さく拳を握った。

「よし。俺様の自由時間だ!」

千葉湊は、相馬とも那珂湊ともまた違っている。

河岸には船がぎっしり並び、魚、塩、干物、布、炭――様々な荷が山のように積まれている。

潮と魚の臭い。焼いた貝の匂い。怒鳴り声。笑い声。

辻では小商いの者たちが声を張り上げ、旅芸人めいた者までいる。

貴丸は完全に目を輝かせていた。

「うおぉ……港町って感じだなぁ……」

そんな中。その貴丸の歩いている場所からさほど遠くない場所で、人混みの向こうから、小さな影が走ってきた。

「待ちなされ! 若――いや、弥九郎様!」

後ろでは、慌てた男が人を掻き分けている。

だが追われている当人は、振り返りもせず逃げ続けていた。

六つほどの子供。日に焼けた顔。腰には小刀。そして手には、子供の背丈ほどもある棒を持っている。

妙に獰猛そうな目をした童だった。

やがて弥九郎は、人混みへ紛れ込むようにして角を曲がり、追手を撒く。

「……ふぅ」勝った。そんな顔をした直後だった。

ぐぅぅぅぅ……腹が鳴った。しかも盛大に。

弥九郎の顔が引き攣る。どうやら逃げることに夢中で、朝餉を食っていなかったらしい。

そして、一人になったことと空腹が一気に押し寄せたのか、急に不安そうな顔になった。なんだか、目から涙がこぼれそうになるのをぐっと我慢した。

その時。

「おい坊主、なんば泣きそうにしとると?」

声が飛んできた。弥九郎が振り向く。

そこには、自分より少し年上のぽっちゃりとした子供がいた。勿の論、貴丸である。

ぼさっとした髪。妙に気楽そうな顔。だが目だけは妙に大人っぽい。

弥九郎はむっとする。

「泣いてない! ただ腹が減っただけだ!」

「同じようなもんじゃろがい」

「違う!」

貴丸はけらけらと笑った。

「まぁええわいな。腹減っとる顔しとるし、なんか食おうぜ。おごっちゃるだべさ」

弥九郎は一瞬ぽかんとする。

「……は?」

「腹減っとるやつ見とると、なんか放っとけんのじゃ」

(※貴丸………何弁なのか?)

だがそこで、貴丸の動きが止まる。懐をごそごそ探る。左。右。袖。帯。

そして出てきたのは――一文銭が一枚だけだった。

手力の練習に使っていた、あの一文である。貴丸は固まった。

「……やべぇなぁ」

「銭ないのか?」

「あるにはある」

「あるのか」

「一文だけな」

「無いのと同じだろ!」

弥九郎が即座に突っ込んだ。

その時だった。鼻へ、香ばしい匂いが流れ込んできた。二人が同時に振り向く。

そこには、小さな辻売りがあった。

粗末な筵。炭火。その上で焼かれている銀に光る細長い魚。秋刀魚だった。

売っているのは兄妹らしい。兄は貴丸と同じくらいか。妹は、さらに二つ三つ幼い。

髪は貴丸以上にぼさぼさで痩せ細り、身なりも汚い。その周辺だけぽっかりとしていて客はまるでいない。

前を通る者はいても、誰も足を止めなかった。

「脂臭ぇ魚だ」「下魚なんざ食わんぞ」

そんな声すら聞こえる。兄は悔しそうに唇を噛みながら、黙って秋刀魚を返していた。

貴丸が近づく。

「これ、一匹いくら?」

兄が顔を上げる。

「……一文」

貴丸は手の中の一文を見た。弥九郎も見た。

二人とも腹が減っている。だが、一匹では足りない。

そこで貴丸が、にやりと笑った。

「なぁ。人いっぱい集めたら、二匹で一文にしてくれん?」

兄妹はぽかんとする。

「……集まるわけないだろ」

「まぁ見てろって」そう言って、貴丸は辻の真ん中へ出た。

そして、突然、大声を張り上げる。「さぁさぁ皆様お立ち会い!!」

通行人たちがぎょっとする。人がちらほら足を止めた。

「この千葉湊の秋刀魚! 他の魚とは訳が違う! 今が一番脂の乗る時期! 焼けば香ばしく、食えば口の中で脂がとろける!」

「ほう?」「なんだ小僧」

さらに人が寄る。貴丸は勢いづく。

「だが皆様、秋刀魚の本当の旨さを知らぬ! 下魚などと侮るは末代までの損ですぞ!」

周囲を見渡して声を張り上げる。

「そこで今日は、一席! この話が面白ければ、ぜひ秋刀魚を買っていただきたい!」

人々が笑い始めた。

「なんだそりゃ」「聞いてやろうじゃねぇか」

すると貴丸は、突然、年寄りじみた口調になった。

「昔、あるところに、殿様がおりました。名はあえて申しますまい。ただ、その旗差物には月と星が描かれていたとか、いないとか」

人々が少し笑う。

「その殿様、山育ちで魚というものを知らぬ。ある日、遠乗りの途中、とある家から、なんとも良い匂いがしてきた」

貴丸は鼻をひくつかせる。

「殿様は申された。“今の匂いはなんじゃ!”」

「すると家来が申します。“この場所からだと千葉湊の秋刀魚にございますな”」

どっと笑いが起きる。

「殿様、これを食して大感動。“なんじゃこの魚は!! 脂が美味いではないか!!”」

貴丸は大げさに胸を張る。

「“よし、明日から毎日これじゃ!”」

さらに笑いが広がる。

「ところが城へ戻ると、料理人が言うわけです。“殿の御身体に毒でございますれば”」

「そして、脂は落とされ、骨は抜かれ、丁寧に蒸されて出てきた。……もはや別の魚であった」

「すると殿様――」

空気が止まる。貴丸、眉をひそめる。

「“まずい”」どっと笑い。

「“あの旨味はどこへ行ったのだ!” そこで殿様が、立ち上がる」

貴丸、指を突き付ける。

「“馬を引け!! 秋刀魚はな!! 脂がうまいのじゃ!!”」

そこで貴丸は焼き秋刀魚を掲げた。

「――やはり千葉湊の秋刀魚が一番うまい!!」

その瞬間。

「わはははは!!」「面白ぇ小僧だ!」「おい! 秋刀魚くれ!」「俺にも!」

一気に人が群がった。兄妹は完全に呆然としている。そこからは早かった。秋刀魚は飛ぶように売れた。

「銭だ! 兄ちゃん銭!」

妹が半泣きで叫んでいる。兄も目を白黒させながら必死に焼いていた。

やがて。人だかりが引く。炭火だけがぱちぱち鳴っていた。貴丸は満足げに腕を組む。

「ふっ……楽勝」そして兄へ向き直った。

「じゃ、約束通り二匹一文――」

兄が、ものすごく申し訳なさそうな顔をした。

「……全部、売れちゃった。一匹も残ってないんだ……」

沈黙。貴丸が固まる。弥九郎も固まる。

次の瞬間。ぐぅぅぅぅぅ……弥九郎の腹が、再び盛大に鳴った。

ついに限界だった。

「う、うわぁぁぁぁん!!」

弥九郎がとうとう泣き出した。

貴丸は呆然と立ち尽くす。

「……俺たち、何やってたんだろ?」

ぽつりと貴丸が呟いた、その一言は、妙に間の抜けた響きをしていた。

その瞬間だった。弥九郎は、それまで堪えていたものが一気に崩れたように、より一層盛大に泣き出した。

緊張も空腹も、さっきまでの意地も、全部まとめて崩れたように、弥九郎はしゃくり上げた。

「なんで今それ言うんだよぉ……!」

そんな声にならない声だけが、路地裏に小さく落ちていった。

――やがてこの噺は、辻売りの兄妹の口上にも自然と語り添えられるようになり、それが評判を呼び、商いの広がりへと繋がっていったとも伝えられている。

もっとも。

その始まりが、腹を空かせた童二人の騒ぎだったことを知る者は、ほとんど残っていない。

この噺は後年、落語の定番として「千葉湊の秋刀魚」と呼ばれ、今なお、寄席にて親しまれているという。

そうした語りの余韻ののち、千葉湊では年に一度「千葉湊の秋刀魚祭」が催され、港町の風物詩として人々の笑いの中に溶け込んでいる。

そしてその流れを汲み、初代より続く鮮魚仲買・運搬の家業を受け継いだのが、現代の東証一部上場とされる「マルタカニッチロー」である。

なお「マルタカ」の社名の由来は諸説あるが、初代が語った“恩人に因んだ名”という言葉のみが、今も静かに語り継がれている。