作品タイトル不明
第97話 千葉湊へ
当初は木更津――すなわち上総湊側へ入る予定だった。
だが、治兵衛の話によれば、近頃あの辺りは真里谷武田衆の影響が強く、余所者の大型船が気軽に出入りできる空気ではないらしい。
そのため今回は、房総半島をぐるりと回り、千葉湊(現在の千葉港)へ入ることとなった。
「おっ、東京湾かぁ」貴丸がそんなことを呟いていたが、もはや誰も突っ込まない。
元伯など、聞こえていても最初から聞かなかった顔をしている。もっとも、房総沖の航路は決して穏やかなものではなかった。
勝浦沖を過ぎた辺りから、ときおり小舟がこちらへ寄ってくる。
細長い早船だ。帆を畳み、櫓をせわしなく動かしながら、波間を滑るように近づいてくる。
そのたび、船上の空気はぴりりと張った。
水夫たちは手早く弓を取り、治兵衛も甲板へ出る。元伯ですら、黙って仕込み杖へ手を添えていた。
だが――。小舟の側も、こちらの船の大きさと人数を見るや、一定距離を保ったまま引いていく。
「よほど飢えてでもおらねば、そう簡単には来ません」
治兵衛が潮風の中で言った。
「この規模の船へ手を出せば、返り討ちもありますゆえ。海賊も命懸けですからな」
なるほど、と貴丸は妙に感心していた。
なお本人は、「うわ、リアル海賊イベントだ……」などと、少し楽しそうだったが。
そうして船は房総半島を回り込み、やがて浦賀水道へ入る。
潮の流れは速く、行き交う船の数も目に見えて増えていた。
大小様々な船が白波を裂き、帆柱が幾つも海上へ並ぶ。陸奥とは違う海の賑わいに、貴丸は飽きもせず辺りを見回していた。
その時だった。
「船影!」
見張りの声が飛ぶ。
前方から、中型船が二隻、小舟が数隻、こちらへ向かってくる。
風を受け、一直線に近づいてくるその動きには、妙な統率があった。
船上が一気に慌ただしくなる。水夫たちが動き、治兵衛も目を細めた。
だが次の瞬間、その表情がわずかに緩む。
「あれは……月星紋」
船首に掲げられた旗が、風を受けて翻っていた。丸の中に月と星を配した意匠――千葉家の旗印である。
「千葉様方の船にございますな」
その言葉に、船上の空気が少しだけ緩む。もっとも貴丸だけは、「うおぉぉぉ! 海賊イベント第二弾!!」と、なぜか興奮して甲板へ乗り出していた。
「違うわ!」元伯が即座に後ろ襟を掴む。
やがて双方の船が近づくと、向こうの船から声が飛んできた。
「その方ら、何処の船か!」
治兵衛が前へ出る。
「陸奥・請戸より参った八田屋の船にございます! 相馬家の御使者を乗せ、下総守護・千葉様へ御挨拶申し上げるため参りました!」
しばし間。やがて向こうの船から返答が来る。
「承知した! 案内致す!」
そうして千葉方の船が先導につき、一行はそのまま千葉湊へ入っていった。
湾内へ入ると、海の様子は一変する。無数の船が碇を下ろし、荷揚げの声が飛び交っていた。
材木、塩、干魚、米俵、油樽――ありとあらゆる荷が積まれ、人足たちが怒声を交えながら駆け回っている。
湊には潮と魚と人の熱気が満ちていた。
「……うわぁ」貴丸が思わず呟く。
請戸とも那珂湊とも違う。もっと巨大で、もっと銭の臭いがする港だった。
やがて船は、千葉方が管理する船着場へ横付けされた。
先に降りたのは桑折忠家だった。衣を整え、静かに前へ出る。
迎えに来ていた千葉方の武士へ、深く一礼した。
「相馬中村より参りました、桑折治部少輔忠家と申します」
落ち着いた声だった。
「此度、相馬盛胤様より、下総守護・千葉勝胤様へ御書状をお届けするため、こちらへ立ち寄りました」
そう言って、懐より丁重に包まれた書状を取り出す。
「加えて、都への献上道中につき、水や食料など、湊での御配慮を賜れれば幸いに存じます」
千葉方の武士は、一行を静かに見回した。陸奥から来たというには、妙に荷が多い。
商人、寺者、武士、そして何故か、のほほんとした子供までいる。だが、書状へ目を落とした後、武士は頷いた。
「承った。千葉様へお取次ぎ致そう」
その背後で。貴丸は既に、三兵衛へ聞いていた。
「ねぇねぇ三ちゃん(三兵衛)って、元はこの辺の人じゃろ? 千葉の市ってどんな感じ? 美味しいものとかあるのかな?」
元伯は無言で天を仰いだ。
その日、一行は千葉湊で八田屋が常宿としている旅籠へ入った。
港へ面したその宿は、商人や船乗りの出入りも多く、潮と炭火の匂いが絶えず漂っている。外では夜になっても荷運びの声が止まず、遠くでは船板を叩く音まで響いていた。
部屋へ荷を置いた頃、元伯が貴丸へ向き直る。
「明日は千葉様へ拝謁するため、本佐倉まで向かう」
そう言って指を折った。
「行きで一日。拝謁で一日。戻りで一日。最低でも三日は掛かるそうじゃ」
そして、じっと貴丸を見る。
「貴丸、お前はどうする?」
だが貴丸は、さほど悩む様子もなかった。
「うーん……拝謁って言ってもなぁ」
床へごろんと転がりながら言う。
「俺はここで待ってようかな。この湊、銭の匂いがして面白そうだし」
元伯は、まぁそう言うと思っていた、という顔で鼻を鳴らした。
「分かった。では、わしと桑折殿、それに治兵衛で行ってくる」
そして三兵衛へ視線を向ける。
「三兵衛。貴丸のお守りを頼む」
「はっ」
その後、元伯と桑折は、明日の支度や書状の確認で忙しそうに動き回り始めた。
一方の貴丸は、早々にそれらから離脱すると、宿の蒸し風呂へ向かう。
久方ぶりの湯気に包まれながら、貴丸は盛大に息を吐いた。
「っはぁぁぁ……やっぱ風呂だよなぁ……」
完全に年寄りの顔である。
しかも、この宿の蒸し風呂はなかなか立派だった。湯気にはほんのり海藻の匂いが混じり、身体へ張り付いていた潮気と船旅の疲れをゆっくり剥がしていく。
そうして、ほくほく顔で部屋へ戻ってゴロゴロして気付くと、みんなも汗を流して、夕餉の支度も整っていた。
流石は大湊である。膳へ並ぶ魚介は豊富だった。
焼いた鯵。塩鯖。脂の乗った鱸の吸い物。さらに、その日揚がったばかりだという鰹まで出てくる。
表面の皮だけを軽く炙ったそれは、後の“たたき”に近いものだった。
「おぉ……」貴丸の目が、露骨に輝いた。
朝に揚がったばかりだからこそ食える品なのだという。
この時代、足の早い鰹を生に近い形で口へ出来る機会は多くない。
貴丸は早速それを口へ運び――思わず顔を綻ばせた。
「うまっ」
もっとも。
「……醤油が欲しいな……」
そこだけは、心の底から残念そうだった。
今の時代、まだ後世の濃口醤油のようなものは無い。塩と酢で食うしかないのである。
そんな中、黒っぽく乾いた、薄い塊も膳へ添えられていた。
ぱり、と齧ると、しゃりしゃりとした独特の歯触りと潮の香りが広がる。
「あ、これ 海苔か(のりか) ……愛之助の嫁さん……」
貴丸が何気なく呟く。
「何の話でしょうかな?」治兵衛が怪訝そうな顔をした。
「なんでもないっす」だが貴丸は気にしない。
しばらく海苔を齧っていた貴丸は、ふと何か思いついたように顔を上げた。
「ねぇ、治兵衛殿、もっとこう……和紙みたいに平べったく固めた薄い海苔って無いの?」
「平たい海苔、ですか?」
治兵衛は少し考え込む。
「……そのようなものは、見たことがございませんな」
「ふぅん……」貴丸は頷いた。
だが頭の中では、別の算段が動いていた。
――あれ、絶対売れるよな。軽いし、日持ちもする。塩気もある。
飯にも合うし、旅にも向く。しかも海辺なら材料は大量にある。
もっとも、貴丸自身が作る気はあまり無かった。
――戻ったら、龍長おじさん辺りに投げるか。
そう考えながら、貴丸は再び海苔をしゃりしゃり齧り始めたのである。