作品タイトル不明
第96話 佐竹義篤との邂逅……
その頃、常陸では若き俊英が家督を継いで間もない頃だった。
まだ齢は十一にも届かぬ。だが、その顔に浮かぶ気配は、とても子供のものとは思えない。細い目は獣のように鋭く、周囲を見渡す視線にも妙な威圧があった。幼さより先に、自我の強さと猜疑心が立っている。
幼名を徳寿丸という。
徳寿丸は、後に佐竹義篤として、江戸氏を従え、白河結城氏や那須氏とも刃を交えながら、乱れた常陸北部をまとめ上げていくことになる。佐竹を、名実ともに戦国大名へ押し上げた当主の一人である。
だが、この頃の彼は、まだ“若殿”と呼ばれる年頃に過ぎなかった。
那珂湊を見下ろす高台で、義篤は河口へ目を向ける。
「今日は、随分大きな船が入っておるな」
河口には大小様々な船が浮かび、帆柱が林のように並んでいた。潮と魚の臭いが風へ混じり、人足たちの怒声が絶えず飛び交っている。
隣では、叔父にして後見役の北義信が目を細めた。
「徳寿丸様、あれは八田屋の船にございます。……見たところ、かなり荷を積んでおりますな」
義篤は腕を組み、ふんと鼻を鳴らす。
「叔父上」
「は」
「わしはもう義篤だ。去年、家督を継いだのだぞ」
わざわざ言い直させる辺りに、妙な子供っぽさと当主としての意地が同居している。
義信は苦笑した。
「これは失礼致しました、義篤様」
もっとも、その顔にはあまり反省した色はない。
義篤はそれ以上追及せず、再び那珂湊へ視線を戻した。
「……しばらく、この湊へ留まるとするか」
風が、若き当主の羽織を揺らしていた。
そして、請戸を発った八田屋の船もまた、常州吉田郡那珂湊へ入っていた。
河口には夥しい船が浮かび、荷揚げの声と波音が入り混じっている。帆を畳む水夫たちの怒鳴り声が飛び、人足たちは汗だくで荷を担いでいた。
今回は補給と風待ちのための寄港だった。
元伯たちは八田屋番頭・治兵衛の案内で、港近くにある八田屋の店へ向かう。
もっとも、“店”と言っても、実際には巨大な倉と荷場が一体になったような場所だった。海産物の俵、塩、乾物、油樽、木箱が積み上がり、帳場では算盤の音が響いている。
そこへ、身なりの良い老年の男が現れた。柔らかな声で頭を下げる。
「遠路ご苦労にございました。八田屋主人、政明にございます」
元伯も一礼した。「世話になる」
すると政明の視線が、ふと貴丸へ向く。
それに気づき、元伯が肩をすくめた。
「荷に紛れて、いつの間にか乗っておった。これが孫の貴丸じゃ」
その瞬間、政明が僅かに目を見開く。
「……ほう。孝之助から聞いておりましたが、あなたが貴丸殿ですか」
貴丸は面倒そうに首をちょこんと下げる。
「ども」
実に雑な挨拶だった。
だが政明は気を悪くした様子もなく笑った。
「まずはお疲れでしょう。どうぞこちらへ」
通された広間には既に茶が用意されていた。たんきり飴や請戸漬けまで並んでいる。
潮風と船酔いで疲れていた一行は、ようやく人心地ついたように息を吐いた。
政明が言う。
「水と食料を補給し、船底と帆も確認しております。次の追い風は二日ほど先になりそうですので、それまではこちらへお泊まりください」
さらに続ける。「広い湯殿もございますゆえ、どうぞごゆるりと」
その瞬間だった。「えっ!? 風呂あるの!?」
貴丸が勢いよく顔を上げた。「入ってもいいすか!?」
政明は思わず笑う。「ええ。既に湯も立っております」
すると貴丸は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「うひょー! ありやとやす!」
そして場所を聞いた瞬間、脱兎の如く消えていった。
あまりの勢いに、政明が一瞬ぽかんとする。
「……よろしかったのでしょうか。先にお孫様が入られてしまいましたが……」
武家では、主から順に湯へ通すことも多い。まして相馬家の客である。政明としては、多少気を遣っていたのだろう。
だが元伯は、茶をすすりながら苦笑した。
「構わんよ。あやつに順番など申しても、一切聞きはせぬ」
「はぁ……」
「むしろ、止めれば湯殿へ飛び込むぞ」
その言葉に、治兵衛が思わず吹き出しかけ、慌てて口を押さえた。
政明もつられるように笑う。
「元気なお子ですな」
「元気があり余っておるだけじゃ」元伯は疲れた顔で肩を落とした。
その後、政明が語るところによれば、八田屋の本店は佐竹家本拠たる太田城下にあるらしい。この那珂湊の店は、海運と荷の中継を担う窓口だという。
しばらくして、湯気を纏った貴丸が、ほくほく顔で戻ってきた。
「やっぱり日本人には風呂だよなぁ……」
妙に年寄り臭い顔で満足している。
政明は笑いながら言った。
「皆様も順にどうぞ」
そうして一行も久方ぶりの湯へ浸かり、ようやく船旅の塩気を洗い流したのだった。
その夜。夕食を終えた頃、元伯がじっと貴丸を見た。
「……貴丸。お前、この店から外へ出るなよ」
「ん?」
「絶対に何か揉め事を起こす顔をしておる」
酷い言われようだった。だが貴丸は、なぜか妙に真顔で頷く。
「Yes We Can! もちろんさ!」
もう貴丸の意味不明な言葉は日常だ。その即答が、逆に元伯の不安を煽った。
「船じゃ全然ごろごろ出来なかったからね! 俺、次の出立まで部屋から一歩も出ない!」
さらに勢いよく政明へ向き直る。
「政明殿! 夜壺とか虎子、小便壺ありますか!? もう完全籠城するんで!」
「ろ、籠城……?」
政明が目を瞬かせる。
だが貴丸は止まらない。
「あと、じいさん。“ごちゃ握り”、あとで厨に教えといてね! 俺、もう絶対外に出ないから! たとえ“のぼうの城”みたいに水攻めされても、布団でごろごろしながら耐えてみせる!」
「何を言っておるのだ、お前は……また訳のわからんことを……」
元伯が深々と額を押さえた。
当然、その場の誰一人として、“のぼうの城”なる言葉の意味は分からない。
三兵衛は笑いを堪え、治兵衛は完全に引き、桑折忠家など、もはや視線を逸らしていた。
結局。貴丸は宣言通り、次の出帆までの二日間、本当にほとんど部屋から出てこなかった。
飯。風呂。昼寝。ごろごろ。起きたと思えば、銭や紐を指の間で弄び、手力?の練習。
以上である。
そして翌日。
那珂湊へ滞在していた若き佐竹義篤は、供回りを連れて町を見て回っていた。
「ほう。ここが八田屋か」
まだ幼いながらも、その目付きだけは妙に鋭い。
隣では叔父の北義信が頷いていた。
「近頃、あの“たんきり飴”を扱っておるのが、この店だとか」
「ああ、あの妙に評判の甘味か。奥の女どもが騒いでおったな。甘いくせに手頃だとな」
義篤が鼻を鳴らす。
そう言いながら、義篤は八田屋の戸へ手を掛けた。
だが、その瞬間だった。遠くの河岸から怒鳴り声が響く。
「おい! 押すな!」「荷が崩れるぞ!!」
港の方で、どうやら揉め事が起きたらしい。
義篤がそちらへ顔を向ける。
「……何かあったようだな」
「如何されます?」
「行くぞ」
結局、義篤はそのまま踵を返し、供回りと共に去っていった。
そして、その直後。
八田屋の一室では。
「……ん?」
ごろごろしていた貴丸が、何となく外の気配に気づき、戸を少しだけ開けた。
すると、ちょうど遠ざかっていく一団の後ろ姿が見える。
同年代ほどの子供。だが、身なりは明らかに良い。
周囲には武士らしき供回り。
「誰だろ?」
貴丸は首を傾げた。だが、興味はそこまで続かなかった。
「……まぁ、いっか」
ぱたん。戸は閉じられる。そして貴丸は、そのまま再び布団へ転がった。
結果として。偶然、同じ那珂湊へ滞在していた若き義篤と貴丸は、結局、何事もなくすれ違った。
もし出会っていれば、後々何かが変わっていたのかもしれない。
もっとも――当の貴丸は、その歴史の分かれ道を、布団の中でごろごろしながら踏み潰していたのだが。
そう、佐竹義篤との邂逅は――本来なら歴史へ残るはずであったにもかかわらず、日本海溝よりも深いところへ、何一つ残さぬまま沈んでいったのである。