軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第五話 王弟殿下は、私を気の毒な婚約破棄令嬢とは呼ばない

翌朝、私は久しぶりによく眠れた。

園遊会が崩れたあとの夜だというのに不思議なことだと思う。

けれどたぶん、もう私が後始末をする側ではないと、ようやく身体のどこかが理解したのだろう。

窓を開けると、昨夜の雨が嘘みたいに庭は明るかった。

濡れた石畳の上で、下働きの者たちが黙々と後片づけをしている。

昨日の混乱が夢ではなかった証拠みたいな光景だった。

「お嬢様」

侍女のマリアンヌが、いつもより慎重な顔で部屋へ入ってきた。

彼女の手には、朝一番に届いた封書が一通ある。

深い灰色の封筒に、王弟宮の印。

返事を急がせないようでいて、きちんと期限だけは忘れさせない紙だった。

「レオンハルト殿下よりでございます」

「ありがとう」

私は封を切る。

中に入っていたのは短い書状だった。

――本日正午までに、王家儀礼局へ返答を。

――席と役目は用意してある。

その二行だけで十分だった。

余計な甘さも、気遣いめいた言葉もない。

けれど、その無駄のなさがありがたかった。

こちらを哀れんでいるのではなく、必要な仕事のために呼んでいるのだと、はっきり分かるから。

「お返事は」

マリアンヌが小さく訊いた。

「決まっているわ」

私は紙を畳んだ。

昨日のうちから、もう半分以上は決まっていた。

それでも夜を越えてなお変わらなかったのだから、これはたぶん本心なのだろう。

「お受けします、と」

「承知いたしました」

マリアンヌは一礼し、返書の準備へ向かった。

その少し後、マリアンヌはもう一通の封書を持って戻ってきた。

ヴェルナー公爵夫人の印だった。

「こちらも、今朝届いております」

私は封を切り、文面へ目を落とした。

内容は簡潔だった。

《《カイル・ヴェルナーとリネット・リューネ嬢との婚約協議は、春季慈善園遊会の不手際を受け、当面凍結する》》。

《《両家署名の婚約証書は交わさず、王宮への登録も行わない》》。

《《エルシェナ・リューネ嬢との婚約解消については、別途、両家で正式に協議する》》。

私はしばらく、その三行を見つめていた。

つまり、カイル様があの部屋で口にした「リネットを婚約者に」という言葉は、ヴェルナー公爵家としてはまだ受け取られなかったということだ。

当然だろう。

園遊会は崩れ、王妃殿下にも、東方大使夫人にも、西方商会の会頭夫人にも不興を買った。

その直後に、リネットを未来の公爵夫人として迎えると決められる家なら、むしろそちらのほうが心配になる。

「お嬢様」

マリアンヌが控えめに呼ぶ。

「大丈夫よ」

私は封書を畳んだ。

「もう、私がその縁談の後始末をする必要はないもの」

私は鏡の前に立ち、ゆっくり髪を整える。

婚約者の座を失った朝であると同時に、たぶんこれは、初めて《《私自身の仕事》》のために出向く朝でもあるのだ。

そう思うと、少しだけ指先に力が入った。

王家儀礼局は、王宮の中でも北棟の奥にあった。

夜会場に近い華やかな回廊から少しずつ外れ、石床の色も壁の装飾も控えめになっていく。

人目につく場所ではない。

でもそのぶん、紙と人の流れだけで成り立っている部署だと分かる。

私はそういう場所が嫌いではなかった。

「よく来てくれた」

迎えたのは、王弟レオンハルト殿下その人だった。

今日も灰色の上着に身を包み、余分な飾りは一つもつけていない。

王族なのに、仕事場へ立つと誰よりも仕事人に見える人だと思う。

「お誘い、ありがたくお受けいたします」

私は一礼した。

「ただし、その前に一つだけ確認を」

殿下は少しも急かさず頷いた。

「聞こう」

「私は婚約破棄された令嬢として、ここへ保護されに来たのではありません」

まっすぐに言う。

昨日からずっと、それだけははっきりさせたかった。

「働くのであれば、立場と役目と報酬を明文化していただきたいのです」

「当然だ」

答えは早かった。

「王家儀礼局臨時補佐として任じる。期間はまず東方使節歓迎晩餐会まで。働きが気に入れば正式に引き留める。報酬も出す」

簡潔で、分かりやすい。

私は少しだけ息を吐く。

やはりこの人と話すのは楽だ。

こちらが欲しいのは、慰めではなく線引きなのだと分かっている。

「もう一つございます」

「何だ」

「私を《《気の毒な婚約破棄令嬢》》として扱わないこと」

殿下の灰色の目が、わずかに細まる。

笑ったわけではない。

けれど、どこか面白がるような気配があった。

「その点は安心していい」

彼は言った。

「私は最初から、あなたをそう見ていない」

私は思わず顔を上げた。

殿下は、そこで少しだけ間を置いてから続ける。

「気の毒かどうかは知らないが、使える人間だとは思っている」

あまりにも率直で、一瞬だけ返事に困った。

優しい言葉ではない。

でも、たぶんこういう言葉のほうが私は好きなのだ。

同情ではなく、仕事を見たうえで使えると言ってくれるほうがずっと。

「……ありがとうございます」

「礼は実務で返してくれ」

その一言で、ようやく本当に笑ってしまった。

たしかにその通りだ。

「そのつもりです」

「では、来てもらおう」

王家儀礼局の書記室は、思っていたより広かった。

大きな机が三つと、壁際に名簿棚が二列。

窓際には、行事ごとの箱が積み上げられている。

帳面、札、地図、客名簿、献立書き、贈答控え。

ここ三日ほど、私はそれらすべてから距離を置いていたのに、いざ目の前へ積まれると落ち着く自分が少し可笑しい。

結局私は、こういうものが好きなのだろう。

「こちらが臨時の席だ」

レオンハルト殿下が、窓際の机を示した。

新しく運び込まれたらしい机には、まだ何も置かれていない。

でも、引き出しは軽く、天板もまっすぐで、手を置いたときに嫌な軋みがない。

仕事をする人の机だと分かる。

「どうだ」

「好きです」

思わずそのまま答えてしまい、私は少しだけ頬が熱くなった。

でも殿下は特に笑いもせず、ただ短く頷いた。

「それはよかった」

それだけで済ませてくれるのも、ありがたかった。

書記室にはすでに二人の職員がいた。

一人は、王妃宮でも見たことのある年配の女官。

背筋が伸びていて、視線が細い。

もう一人は若い書記官の青年で、紙束を抱えたまま少し緊張しているようだった。

「マルタ・エーレンだ」

年配の女官が簡潔に名乗る。

「東方使節歓迎晩餐会の実務担当をしています。去年はあなたの席次案を二度写しました」

私は少し驚いた。

私の帳面は、想像以上にいろいろな人の手を通っていたらしい。

「エルシェナ・リューネです」

私は、少しだけ間を置いてから名乗った。

婚約解消後の呼び名は、父方の家名に戻る。

それを口にするのはまだ少し不思議だった。

でも、悪い感じはしなかった。

「呼び名はどうでもいい」

マルタ女官が言う。

「席次が読めて、王妃殿下の機嫌を外さないなら十分です」

思わず少し笑いそうになる。

この人もだいぶ率直だ。

「では、さっそく見ていただきましょう」

若い書記官が、大きな箱を一つ机へ運んできた。

上には《《東方使節歓迎晩餐会》》と札がついている。

私は椅子へ座り、その箱を開いた。

中には昨年の席次、過去五年の献立、外務卿からの注意書き、王妃殿下の覚え書き、そして今年の暫定案が入っている。

そこまで見たところで、私は無意識に眉をひそめた。

「……これは」

「ひどいでしょう」

マルタ女官が、ため息まじりに言った。

「園遊会のあとで組み直した暫定案です。誰が見ても無理があります」

たしかに無理があった。

外務卿を下げすぎている。

東方側通訳官が風上に寄りすぎている。

しかも、王妃殿下と大使夫人の導線が一度交差する。

これでは歓迎どころではない。

私は紙の上に指を走らせ、必要な札を三つ抜き出した。

「使節団の正式入場は第三楽章の前でいいはずです」

マルタ女官がすぐに答える。

「はい」

「でしたら楽団位置はそのままで構いません。問題はその前の贈答順です。王妃殿下のご挨拶を半刻早めて、外務卿の席を二つ上げてください。大使夫人は王妃殿下の正面ではなく、斜め右です」

若い書記官が目を丸くした。

「え、ええと、なぜですか」

「東方では正面対座が《《対等の交渉》》に見えやすいからです」

私は答える。

「歓迎の席なら、少しだけ角度をつけたほうが柔らかい。それに王妃殿下は右耳側の音を聞き取りやすいので、大使夫人が右斜めにいれば通訳の声が取りやすくなります」

部屋が静まった。

私はそこで初めて、三人ともこちらを見ていることに気づく。

「……何か」

そう訊くと、マルタ女官が小さく咳払いした。

「いえ。噂以上だと思っただけです」

そのときだった。

書記室の奥の扉が静かに開き、別の侍女が顔を出す。

「王妃殿下が、リューネ嬢へ少々お話をと」

私は反射的に立ち上がった。

王妃殿下に呼ばれるのは、未来の公爵夫人としてなら珍しくなかった。

でも今の私は違う。

婚約破棄されたばかりの女で、しかも王弟の書記室に座ったばかりだ。

どういう顔をして行けばよいのか、少しだけ迷う。

「そのままで構わない」

レオンハルト殿下が言った。

「今日は飾りではなく、働き手として呼ばれている」

その一言で、妙に背筋が伸びた。

私は頷き、王妃宮へ向かった。

王妃殿下は、窓辺の長椅子で静かに茶を飲んでいらした。

園遊会の失敗の翌日だというのに、姿勢も表情も崩れていない。

王妃という立場がどれほど面倒なものか、私は近くで見て知っている。

それでもこの方は、外へ見せる顔だけは一度も崩さない。

「エルシェナ」

呼び方が、昨日までと少し違った。

婚約者候補としてではなく、もっと素に近い響きだった。

「近くへいらっしゃい」

私は静かに近づき、一礼する。

「昨日は大変な一日でした」

「ええ」

王妃殿下は扇を閉じた。

「そして、あなたは一度も助けなかったそうね」

問いではない。

確認だった。

「はい」

私は答える。

「婚約が解消された以上、私が手を出すべきではないと判断いたしました」

王妃殿下は少しだけ私を見つめ、それから小さく息を吐く。

「正しいわ」

その一言で、胸の内側の何かが少しだけほどけた。

責められるとは思っていなかった。

でも、許されるとも思っていなかったからだ。

「あなたは今まで、自分の役目ではないことまで背負いすぎていたのよ」

王妃殿下は言う。

「だから昨日は、ようやく誰が何を知らなかったのかが表へ出た。それだけのこと」

私は顔を上げられなかった。

ずっと近くにいたこの方が、そんなふうに見ていらしたのだと思うと、少しだけ泣きそうになる。

「レオンハルトから話は聞いているわ」

王妃殿下が続ける。

「あなたを儀礼局へ置きたいのですって?」

「はい」

「良い判断ね」

あまりにもあっさり言われて、逆に拍子抜けする。

「あなたを《《気の毒な婚約破棄令嬢》》として慰めるつもりなら反対したけれど、働かせるつもりなら賛成するわ」

そこで初めて、私は少しだけ笑ってしまった。

血のつながりではない。

けれど、同じ王宮の中枢で長く同じものを見てきた方々なのか、考え方がよく似ている。

「ありがとうございます」

「礼はいいの」

王妃殿下は扇の先で軽く空を切る。

「代わりに、東方使節歓迎晩餐会をきちんと立て直してちょうだい。昨日の失点を、あれ以上長引かせたくないのよ」

「承知いたしました」

「それから」

少しだけ目を細めて、王妃殿下は言った。

「机は、気に入った?」

その問いには本当に驚いた。

王妃殿下が、そこまで気にかけているとは思わなかったからだ。

「……はい」

私は素直に答える。

「とても」

「そう」

王妃殿下の口元が、ほんの少しだけ和らいだ。

「では、今度は自分のために働きなさい」

その言葉が、今日一番深く胸に残った。

書記室へ戻ると、机の上にはもう新しい紙束と札箱が置かれていた。

マルタ女官が実務の顔で待っている。

若い書記官は昨年の名簿を抱え直し、レオンハルト殿下は窓際で短い返事だけをしていた。

「王妃殿下は」

彼が訊く。

「働けと仰せでした」

私がそう答えると、殿下はほんの一瞬だけ目を細めた。

「それはよかった」

また短い。

でも、それで十分だった。

私は机へ戻り、東方使節歓迎晩餐会の暫定案を引き寄せる。

王妃殿下のお席。

大使夫人の位置。

通訳と外務卿の角度。

楽団と贈答順。

そして、使節団を迎える最初の一言まで。

やることは山ほどある。

でも不思議と、苦しくはなかった。

もう私は、誰かの婚約者として仕事をするのではない。

私自身の名前で、この机に座っているのだから。

「リューネ嬢」

マルタ女官が、新しい名簿を差し出しながら言った。

「歓迎晩餐会の成功後、王妃殿下主催の慈善会も控えています。逃げるおつもりなら今のうちですが」

その物言いに、私は思わず笑う。

「逃げません」

きっぱり言い切ると、マルタ女官もごくわずかに口元を緩めた。

書記室の窓の外では、春の光が少しずつ傾いている。

昨日までは、誰かの隣を支えるためだけに積み上げてきた帳面だった。

でも今日からは違う。

この机も、この札も、この紙束も、ちゃんと私の仕事になる。

それがこんなに嬉しいことだとは、昨日まで知らなかった。