作品タイトル不明
第四話 代わりが務まるとおっしゃったのは、そちらでしょう?
扉を叩く音は、遠慮というものを知らなかった。
しかも二人分だ。
叩き方だけで、片方が苛立ち、もう片方が半ば泣いているのが分かる。
私は机の上の紙を一枚だけ裏返してから立ち上がった。
今日はもう何も書くつもりはなかったのに、結局こうして誰かの後始末だけが扉の向こうからやって来る。
「エルシェナ!」
扉を開けるなり、カイル様がほとんど怒鳴るように私の名を呼んだ。
その隣で、リネットは目元を赤くしている。
昼間までの華やかな化粧はほとんど落ち、髪飾りも片方ずれていた。
園遊会の崩れ方がどれほど惨憺たるものだったか、二人の顔だけで十分分かる。
「お姉様、どうして何もしてくださらなかったの……!」
開口一番、それだった。
私は少しだけ首を傾げる。
「何も、とは?」
「園遊会です!」
リネットが涙声で言う。
「王妃殿下はお怒りになるし、東方大使夫人はほとんど何も召し上がらないし、西方商会の会頭夫人は寄付を半分に減らすって……!」
「大変でしたね」
まずはそれしか言いようがない。
本当に大変だったのだろう。
でも、だからといって私が引き受ける理由にはならない。
「大変でしたね、ではない!」
今度はカイル様が声を荒げた。
「お前は全部分かっていただろう!
雨も、席順も、東方大使夫人のことも!」
「ええ、分かっておりました」
「ならなぜ黙っていた!」
その問いに、私はしばらく答えなかった。
答えは簡単だ。
でも、あまりにも簡単すぎて、むしろそのまま口にするのが空しくなる。
「入っても?」
私は逆に問うた。
廊下で言い争うには、今日の二人は少し目立ちすぎる。
カイル様が一瞬だけ眉をひそめ、すぐに頷いた。
私は二人を居間へ通し、自分は窓際の椅子へ腰を下ろす。
二人は揃ってソファへ座った。
その座り方だけでも、場を整える余裕がないことがよく分かる。
カイル様は背を張る余裕を失い、リネットは裾を握りしめたままだ。
「で」
私は静かに言った。
「ご用件は何でしょう」
「決まっているだろう」
カイル様は苛立ちを隠しもしなかった。
「今夜のうちに、今日の失点を取り戻す段取りを組め。
王妃殿下への詫び。
東方大使夫人への献立の立て直し。
会頭夫人への寄付の再打診。
北方伯爵夫人と西部侯爵夫人の仲裁も必要だ」
ずいぶんと当然のように言うものだと思う。
まるで、私がまだそれをやる側であるかのように。
「それを、どなたへ命じていらっしゃるのですか」
私がそう返すと、カイル様が一瞬だけ口をつぐんだ。
たぶん、やっと気づいたのだろう。
その頼み方は、婚約者へではなく、使用人へ向けるものに近い。
「お姉様」
リネットが身を乗り出した。
「わたくし、あんなことになるなんて思わなかったの。
お姉様がいつも簡単そうになさっていたから……」
「簡単そうだった?」
思わず、その部分だけ聞き返してしまった。
自分の声が思ったより冷えていたことに、少し遅れて気づく。
「え、ええ……」
リネットの声が弱くなる。
「だって、お茶会でしょう?
お客様が来て、席へ座って、お菓子を出して、楽団が弾くだけで……」
私はゆっくり息を吐いた。
腹が立たないわけではない。
でもそれ以上に、よくここまで何も見ていなかったものだと感心してしまう。
「そうね」
私は頷いた。
「表から見れば、その程度かもしれないわ」
一拍置く。
「でも、その《《だけ》》のために、どれだけの人が何日前から動いているかを、あなたは一度でも考えたことがある?」
リネットが黙る。
カイル様も何も言わない。
その沈黙が答えだった。
「北方伯爵夫人と西部侯爵夫人を引き離すために、どなたをどこへ挟めばよいか。
東方大使夫人が食べられないものを、厨房と給仕のどこまで共有するか。
王妃殿下のお席へ雨が吹き込まないよう、風向きと天幕の支柱をどう調整するか。
西方商会の会頭夫人の名札を、誰の字で、どの綴りで、どの席札へ載せるか」
私は机の上に置いた帳面を軽く叩いた。
「それを《《たかがお茶会》》とおっしゃったのは、そちらでしょう?」
リネットの肩がびくりと揺れる。
でも私は止めない。
「代わりが務まるとおっしゃったのも、そちらです」
私は続けた。
「ですから、私は譲ったのです。
婚約者の座も、その役目も」
「役目まで放り出す必要はなかっただろう!」
カイル様が低く言う。
「少なくとも今日だけは、今まで通りに――」
「婚約を解消するとおっしゃったうえで?」
私は静かに問い返す。
「婚約者ではない女が、婚約者としての実務だけを担い続けるのですか?」
「それは……」
「しかも、新しい婚約者が隣にいる前で?」
そこでカイル様は完全に言葉を失った。
それは不自然だと、ようやく形になったのだろう。
でも、それに気づくのが遅すぎたのだ。
「お姉様は、もっと細かく教えてくださればよかったのに」
リネットが半ば泣きながら言う。
「帳面だって、あんなに札ばかりついていて、何がどこに書いてあるのか全然――」
「読めなかった?」
私は訊いた。
「……読みにくかったの」
「そう」
私は少しだけ目を伏せた。
「でも、それは読みにくくしていたのではなく、必要なものをすぐ探せるように分けていたのよ」
青札は席次。
赤札は寄付関係。
白札は食事制限。
緑札は王妃殿下ご希望。
黄札は天候対応。
誰か一人が混乱しても、別の使用人がすぐ拾えるように、そうしていた。
そういう工夫を《《帳面が細かい》》の一言で済まされるのは、やはり少し堪える。
「お前がそこまでやっていたとは思わなかった」
カイル様が、ようやく低く言った。
謝罪に近い響きだった。
でも、少し遅い。
あまりにも遅い。
「ええ」
私は頷く。
「そうでしょうね。
思っていらしたなら、昨日のあの場で“役目も譲れ”とはおっしゃらなかったでしょうから」
カイル様の顔色が変わった。
図星なのだろう。
私はさらに続ける。
「あなたが欲しかったのは、もっと愛らしく寄り添ってくれる婚約者でした。
リネットが欲しかったのは、あなたの隣の席でした。
でも私は、その《《隣の席が成立するために必要なもの》》を担っていた」
部屋が静まる。
窓の外で、まだ片づけの足音が聞こえる。
園遊会の後始末は、今この瞬間も続いているのだろう。
そして私はここで、その後始末だけを押しつけられようとしている。
「……悪かった」
カイル様が言った。
ずいぶんと絞り出した声だった。
「軽く見ていた」
私は驚かなかった。
この人は、やっとそこへ辿り着いたのだと思うだけだ。
むしろ、もっと意地を張るかと思っていたので、想像よりはましだった。
「謝罪はお受けします」
私は答えた。
「けれど、戻りません」
「エルシェナ」
「あなたが今、惜しいと思っているのは私ではありません」
カイル様が息を呑む。
でも私は止めない。
ここで曖昧にしたら、また同じことを繰り返すだけだ。
「惜しいのは、私がやっていた《《仕事》》でしょう?」
その一言で、カイル様は何も言えなくなった。
そういう人だった。
悪辣というより、見えていない人。
光の当たる成果だけを成果だと思い、光の裏にいた人間の手を最後まで見なかった人だ。
「わたくしは」
リネットが泣き声で言う。
「ただ、お姉様ばかり立派だと言われるのが嫌だったの……」
それは少しだけ、正直すぎて胸に刺さる。
私は昔から知っていた。
この子は私の持っているものが欲しいのではなく、《《持っているように見える評価》》が欲しいのだと。
「だったら、尚更よ」
私は静かに言った。
「欲しいのが評価なら、その下にある仕事まで引き受けなければならなかったの」
そこで、扉が控えめに叩かれた。
一度だけ。
不思議と、部屋の空気がそこで変わる。
使用人の遠慮がちなノックではない。
けれど急かしも威圧もない。
必要なだけの音だった。
「失礼いたします」
入ってきたのは、執事のフレデリクだった。
彼は私ではなく、部屋の三人を見てから一礼する。
「レオンハルト王弟殿下がお見えです」
カイル様が立ち上がる。
リネットも涙を拭う暇もなく背筋を伸ばした。
私だけが一瞬だけ目を見開いた。
まさか、今ここへ来るとは思っていなかったからだ。
「通してちょうだい」
私が言うと、フレデリクは少しだけ安堵した顔で扉を開いた。
灰色の外套。
落ち着いた足取り。
王弟レオンハルト殿下は、昨日の庭園と同じように静かな目で室内を一瞥した。
誰がどんな顔をしているか、たぶん一瞬で把握したのだろう。
「遅かっただろうか」
「いいえ」
私は立ち上がる。
「ちょうど、話が一段落したところです」
「それはよかった」
殿下はそう言って、部屋の中央へ少しだけ進んだ。
それから、カイル様へ視線を向ける。
「園遊会は見事に崩れたな」
あまり飾らない言い方だった。
でも、その分だけ痛い。
カイル様が苦い顔で頭を下げる。
「……申し開きもございません」
「だろうな」
短い返事のあと、王弟殿下は今度はリネットを見る。
「妹君が《《代わりを務める》》という話は本当か」
リネットの頬が強ばる。
それでも、小さく「はい」と答えた。
「では、来月の東方使節歓迎晩餐会へヴェルナー公爵家から提出する控えも、もちろんあなたが整えられるのだな」
部屋が、そこで一瞬だけ凍った。
カイル様の顔色が変わる。
リネットは文字通り言葉を失った。
東方使節歓迎晩餐会。
それはヴェルナー公爵家の催しではない。
王宮で開かれる、王家儀礼局と外務卿室の行事だ。
ただし、今年の春季慈善園遊会を受け持ったヴェルナー公爵家は、王都夫人方の出欠、寄付筋、過去の席次の控えを王宮へ提出する側にいる。
園遊会の控えが乱れれば、王宮側の席次も乱れる。
王妃殿下だけではない。
外務卿も、使節団の通訳も、各派閥の夫人たちも、みな一つの控えで機嫌を変える。
園遊会の失敗が《《たかがお茶会》》で済まされたとしても、王宮へ出す控えの乱れは済まない。
「それは……王宮の行事で」
カイル様がどうにか声を絞り出す。
「園遊会とは規模が違います」
「そうだろう」
レオンハルト殿下は頷いた。
「だからこそ、公爵家側の控えひとつ読めないようでは困る」
淡々とした口調なのに、言葉の一つ一つが重い。
私は少しだけ、この人は本当に意地が悪いと思った。
でも同時に、誰より状況を正確に見ているとも思う。
「殿下」
私は口を開いた。
「その件に私はもう関わらないつもりです」
「知っている」
あっさりと返された。
「だから別件で来た」
そう言って、王弟殿下はまっすぐ私を見る。
昨日の庭園で向けられた視線と同じだった。
婚約破棄された令嬢を見る目ではなく、壊れた場を立て直せる人間を見る目。
「エルシェナ嬢」
「はい」
「私のもとで働く気はないか」
リネットが小さく息を呑んだ。
カイル様も硬直したまま動かない。
でも私には、その反応より先に「働く」という言葉のほうが残った。
「……どういう意味でしょう」
「そのままの意味だ」
王弟殿下は言った。
「王家儀礼局で人を探している。
正確には、今の体制では足りない。
今日の園遊会を見て、その判断が確信に変わった」
その言い方に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
今日の失敗を見て、私を責めるのではなく、必要だと判断する人がいる。
それだけで、こんなにも息がしやすいものなのかと思う。
「ですが」
私は慎重に言う。
「私は、ただ婚約者として手伝っていただけで――」
「違う」
王弟殿下は静かに遮った。
「婚約者だからできたのではない。
あなたができるから、婚約者という立場に押し込められていただけだ」
部屋がまた静まる。
たぶん、私自身が一番驚いていた。
そんなふうに言われたのは初めてだったからだ。
「席を用意する」
殿下は続ける。
「正式な役目と、正式な報酬つきで。
ヴェルナー家の婚約者補佐ではなく、王家儀礼局の臨時補佐として」
報酬。
正式な役目。
その言葉が、思っていた以上に鋭く胸へ刺さる。
私は今まで、こういう形で仕事を与えられたことが一度もなかった。
当然だと思ってしてきたことばかりで、名前も俸給もつかなかったから。
「殿下」
カイル様がようやく口を開いた。
「エルシェナは、まだ両家の書面上は私の婚約者で――」
「婚約解消を望んだのは君だろう」
王弟殿下が平坦に言う。
「それとも、都合が悪くなったから取り消すのか」
その一言で、カイル様は黙り込んだ。
もう、弁解の余地はない。
婚約者の座だけ奪って、役目はそのまま据え置こうとしたのだと、自分で証明してしまったのだから。
「……なぜ私なのですか」
私は王弟殿下へ問うた。
「園遊会が崩れたからといって、私一人で全部を回していたとは限らないでしょう」
「限らない」
彼は頷く。
「だが、今日崩れた箇所があまりにも明快だった。
王妃席、天幕、食事制限、席順、名札。
全部が《《引き継ぎと判断の不在》》で壊れていた。
つまり、その前にそれを一手に見ていた人間がいたということだ」
一歩だけ近づく。
「そして私は前から、あなたの帳面の噂を聞いていた」
「帳面の……?」
「季節の行事ごとに札の色が違うそうだな」
思わず息を呑む。
そんなことまで知られていたのか。
「同じ人物が書いたとは思えないほど、会食と寄付と儀礼で整理の仕方が変わるとも聞いた」
王弟殿下は言う。
「何より、王都であれだけ多い催しを、ここ数年大きな失点なく回していた時点で、誰かが見えないところにいたと考えるほうが自然だ」
そこまで見られていたとは思っていなかった。
評価されていたとは、もっと思っていなかった。
ずっと、誰も気づかない仕事なのだと思っていたからだ。
「今すぐ返事をしろとは言わない」
王弟殿下は告げる。
「だが、来月の東方使節歓迎晩餐会まで時間がない。
明日の午前までに答えがほしい」
来月。
それはあまりにも早い。
でも同時に、これ以上なく魅力的な申し出だった。
婚約者としてではなく、私自身へ差し出される仕事。
正式な席。
正式な報酬。
それは、今まで欲しいとすら口にできなかったものだ。
「……少し考えさせてください」
ようやくそう言うと、王弟殿下は短く頷いた。
「もちろんだ」
それだけだった。
慰めも励ましもない。
でも、その無駄のなさが心地よかった。
「では、私はこれで」
殿下は一礼し、来たときと同じ静かな足取りで部屋を出ていく。
灰色の外套の裾が見えなくなるまで、誰も口を開かなかった。
沈黙を破ったのは、リネットだった。
「どうして」
泣きそうな顔で呟く。
「どうして、お姉様ばかり」
その言葉を聞いて、私はようやく決定的に理解した。
この子は最後まで、《《私が何をしていたか》》より、《《私が選ばれたように見えること》》だけを見ているのだと。
「リネット」
私は静かに妹の名を呼ぶ。
「あなたが欲しかったのは、婚約者の座だけだったのでしょう」
彼女が唇を噛む。
「でも私は、その座の下に何が積まれているかを知っていた。
それだけの違いよ」
リネットは顔を背けた。
たぶん、今の言葉の半分も届いていない。
でももう、それでよかった。
理解されることを、この子へ期待するのはやめるべきなのだ。
「エルシェナ」
今度はカイル様が言う。
その声は昼間よりずっと静かだった。
「……本当に行くのか」
「ええ」
私は答える。
「きちんと考えて、明日お返事をするつもりです」
「私のほうへ戻る気はないのか」
そこまで言われて、私は少しだけ目を細めた。
今でもまだ、そんなことが訊けるのかと思う。
でも同時に、これではっきりした。
「ありません」
私は穏やかに告げる。
「あなたが惜しんでいるのは、私ではなく、私がやっていたことです。
私はもう、その役目だけを担うために戻るつもりはありません」
カイル様は何も言えなかった。
その顔を見て、私はほんの少しだけ気の毒だと思った。
でも、もう十分だとも思う。
彼は失って初めて、自分が何を失ったか知ったのだ。
それだけのことだ。
二人が帰ったあと、部屋は急に広くなった気がした。
窓の外では雨が完全に上がり、雲の切れ間から遅い月が見えている。
私は机へ戻り、昨日から閉じたままだった帳面を開かなかった。
代わりに、何も書かれていない紙を一枚引き寄せる。
明日の午前までに返事をする。
その短い文だけを書いて、私はしばらく見つめていた。
正式な役目。
正式な報酬。
王弟殿下は、それを当然のように提示した。
婚約者だからではなく、私ができるから必要だと言って。
そんな言葉を、私はたぶんずっと待っていた。
明日の朝、何と答えるのか。
もう、半分くらいは決まっている気がした。
それでも私は紙を閉じ、灯りを落とす。
返事は明日でいい。
今夜くらいは、自分が欲しかったものの形をゆっくり確かめたかった。