作品タイトル不明
第三話 春季慈善園遊会は、雨より先に崩れました
春季慈善園遊会の朝は、驚くほど穏やかに始まった。
会場は、ヴェルナー公爵家の庭園。
けれどこれは、ただの家内のお茶会ではない。
王妃殿下の後援を受け、王都の寄付筋と各家の夫人方を招く慈善行事だ。
失敗すれば、ヴェルナー公爵家だけでなく、王妃宮の顔にも傷がつく。
空はまだ青く、庭園の薔薇はやわらかな光を受けている。
使用人たちは忙しそうに行き来していたけれど、遠目にはすべてが順調に見えた。
だからこそ、余計に分かる。
見えているところだけ整っていて、中身の段取りが死んでいるときの、あの独特の静けさが。
私は窓辺に立ち、庭園へ並べられた円卓を眺めた。
中央の大卓は王妃殿下用。
その右手奥が東方大使夫人の席。
北側の花壇沿いに北方伯爵夫人、そこから三席先に西部侯爵夫人。
――いけない。
それだけで、もういけない。
北方伯爵夫人と西部侯爵夫人は、去年の舞踏会で扇を投げ合った仲だ。
直接隣席ではなくとも、互いの視界に長時間入る配置は避けるべきだった。
けれど今さら言わない。
私はもうその立場ではないのだから。
「お嬢様」
侍女のマリアンヌが、少し気まずそうに入ってくる。
彼女の手には、私が昨日閉じたままにした小さな白箱があった。
中には園遊会用の手袋と扇が入っている。
「本当にお出ましになるのですか」
「ええ」
私は頷いた。
「今日は、リューネ公爵令嬢としての招待客としてね」
本当なら行きたくなかった。
でも欠席すれば、「婚約を奪われた姉が嫉妬して逃げた」とでも噂されるだろう。
そういう面倒は避けたい。
なら、あくまで静かな客として端に座っているほうがいい。
マリアンヌが手袋を渡しながら、小さく言った。
「先ほど、厨房長が泣きそうなお顔をなさっていました」
「何かあったの?」
「東方大使夫人向けの焼き菓子へ、胡桃が混ざっていたとか」
「……そう」
もう始まっていた。
しかも、かなり早い段階から。
帳面の最初の三頁に書いてあったはずなのに、リネットは本当に何も読んでいないらしい。
「差し替えは?」
「今、慌てて作り直しております」
間に合えばいいけれど、と思う。
でも、その先もまだ長い。
雨天導線。
楽団の位置。
名札の綴り。
寄付箱の札順。
どれか一つならどうにかなる。
問題は、全部が同時に崩れ始めると、誰も全体を見られなくなることだ。
「……今日は長い一日になりそうね」
私がそう呟くと、マリアンヌは何も言わずに頭を下げた。
彼女も、だいたい察しているのだろう。
昼前、客たちが次々と到着し始めた。
ヴェルナー公爵家の庭園は広く、春の催しにはうってつけの場所だ。
去年までは、そう言われるたびに少しだけ誇らしかった。
私が裏で動いた甲斐があったのだと思えていたから。
今年は違う。
私は薄い灰青色のドレスに身を包み、庭園の一番端の席へ座った。
見えるが、目立たない位置。
状況を確認するにはちょうどいい。
「エルシェナ様」
声をかけてきたのは、王妃付きの女官だった。
彼女は一瞬だけ私のそばへ寄り、すぐに視線を流す。
社交の場らしい慎重さだ。
「王妃殿下のお席ですが、少し風が強すぎるのではと……」
訊いているのではない。
助けを求めているのだ。
でも私は、手元のカップへ目を落とした。
「ヴェルナー公爵家の現在のご担当へご相談くださいませ」
女官の顔が、一瞬だけ曇る。
それでも彼女はすぐに微笑みを作り直し、「失礼いたしました」と去っていった。
胸が少しだけ痛む。
けれど、ここで私が一言でも口を出せば、全部また曖昧になる。
誰が責任を持ち、誰が判断するのかという線引きが、また消える。
それはもう嫌だった。
開会の鐘が鳴る。
王妃殿下が入場し、楽団が第一曲を奏で始めた。
曲は合っている。
けれど音の出る方向が悪い。
低音が風に流されて、王妃殿下の正面まで届かない。
本来なら第二幕から使う配置へ、最初からしてしまっているのだ。
細かいことだ。
でも、細かいことほど積み重なると空気を損ねる。
私はその違和感を噛み殺すように、ゆっくり紅茶を飲んだ。
遠くでリネットが笑っている。
カイル様の隣で、園遊会の女主人でもあるかのような顔をしていた。
少なくとも本人は、上手くいっていると思っているらしい。
最初の綻びは、思ったより静かに始まった。
東方大使夫人の前へ運ばれた菓子皿を見た瞬間、その侍女がぴたりと手を止めたのだ。
白いナプキンの上に並ぶのは、胡桃の砂糖焼きが散らされた小菓子。
厨房長は差し替えると言っていた。
間に合わなかったのか、あるいは指示が届かなかったのか。
どちらでも、結果は同じだ。
侍女が低い声で係へ何かを告げる。
係の顔色が変わる。
皿は慌てて下げられたけれど、もう遅い。
東方大使夫人はまだ何も言っていない。
でも、あの方が 何も言わないまま(・・・・・・・・) 機嫌を悪くした(・・・・・・・) ときが一番怖いことを、私は知っていた。
次に起きたのは、もっと分かりやすい崩れ方だった。
「これはどういうおつもりかしら」
北方伯爵夫人の声が、庭園の一角で鋭く響く。
見ると、彼女は扇を開いたまま、向かい側の席を睨みつけていた。
その視線の先にいるのは西部侯爵夫人だ。
最悪だった。
「どういうおつもり、とは?」
西部侯爵夫人が笑う。
その笑い方もまた最悪だった。
ああいう人は、自分が嫌われていると分かっていてわざとやる。
「私はただ、王妃殿下のお近くへ案内されたから座っただけですのに」
「まあ、ずいぶん都合のよろしい記憶ですこと」
周囲の空気がぴりつく。
まだ大声ではない。
でも、この二人はここからが早い。
誰かが間へ入らないと、本当に扇が飛ぶ。
去年だってそうだった。
私はカップを置いた。
立ち上がりかけて、止まる。
駄目。
ここで私が動けば、また全部が曖昧になる。
代わりが務まると、そう言ったのは向こうなのだ。
案の定、リネットはその場へ駆け寄っていた。
顔は引きつり、でも笑おうとしている。
あの笑い方ではだめだ。
この二人の前では、媚びるより先に 損得(・・) を示さなければ通じない。
でも、リネットはそんなことを知らない。
「まあまあ、お二人とも」
彼女の声は少し上ずっていた。
「本日は慈善の席ですわ。
どうかお穏やかに――」
「あなたはどなた?」
北方伯爵夫人が冷たく言った。
その一言で、リネットの頬がぴくりと強張る。
「わ、わたくしは、カイル様の婚約者で」
「ああ、そう」
西部侯爵夫人が扇で口元を隠した。
もう駄目だと思った。
その「ああ、そう」には、 あなた程度では(・・・・・・・) 相手にならない(・・・・・・・・) が全部入っている。
リネットはそこを読めない。
庭園の向こうで、楽団の音が少し乱れた。
誰かが合図を間違えたのだろう。
王妃殿下が扇を持ち直す気配が見える。
女官たちが一斉に動く。
そして私は、まだ雨は降っていないのに、園遊会がすでに壊れ始めているのをはっきりと理解した。
そのとき、今度は別の場所でざわめきが起きた。
西方商会の会頭夫人だ。
彼女の名札の綴りが、一字違っていた。
私は思わず目を閉じた。
よりによって、そこを外すのかと思う。
あの方は、自分の名を間違えられるのをこの世で一番嫌う。
金で解決できる機嫌ならまだましだ。
でも彼女の怒りは、面子の問題になる。
「誰がこの札を作ったのかしら」
声は静かだった。
静かすぎて、逆に周囲が凍る。
係の侍女が青ざめ、寄付箱の横で固まっている。
たぶんその侍女に罪はない。
名簿の写しを渡されたまま作っただけだろう。
視界の端で、カイル様がようやく大きく動いた。
リネットを残し、会頭夫人のほうへ急ぐ。
でも遅い。
こういう火消しは、火が見える前から水桶を置いておくものだ。
風が強くなる。
やがて、ぽつりと大粒の雨が落ちた。
最初の一粒は、ちょうど王妃殿下の卓の白布へ濃い染みを作った。
続いて二粒、三粒。
風向きが悪い。
天幕が張られているのは中央だけで、王妃殿下のお席まできちんと覆えていない。
去年までは天幕を東へ寄せ、北側をもう一段深く張っていた。
今年はそれがない。
「天幕を!」
誰かが叫ぶ。
でも、今さらだ。
骨組みを動かすには時間が足りない。
王妃殿下付きの女官たちが、裾を濡らしながら一斉に卓を囲む。
楽団は止まり、従者たちは椅子を引き、下働きは菓子卓へ布をかけようとして逆に皿をひっくり返した。
胡桃の小菓子がまた地面へ散る。
それを見た東方大使夫人の侍女が、ついに露骨に眉をひそめた。
これで三つ目だ。
もう立て直しは難しい。
私は席から立たなかった。
立てなかったと言ったほうが近いのかもしれない。
助けられることは、たくさんあった。
王妃殿下のお席を南東の控え卓へ移し、東方大使夫人には急ぎ果実皿を出し、西方商会の会頭夫人には寄付箱の最初の封を依頼すれば、少なくともこれ以上の悪化は防げる。
全部知っている。
全部、いつもの私ならやった。
でも今日は、私は何もしない。
もう私の役目ではないのだから。
そう自分へ言い聞かせても、胸の奥は少しずつ痛くなる。
私が築いてきたものが崩れていくのを見るのは、やはり気持ちの良いものではなかった。
「エルシェナ嬢」
不意に声をかけられ、私は顔を上げた。
灰色の外套。
静かな目。
王弟レオンハルト殿下だった。
いつから近くにいたのか分からない。
この方は気配を消すのが上手い。
「お楽しみいただけていますか」
口から出たのは、だいぶひどい社交辞令だった。
でも殿下は気を悪くした様子もなく、庭園の混乱を一瞥した。
「興味深いとは思っている」
答えもまた、ずいぶん正直だ。
「興味深い、ですか」
「崩れるべくして崩れる場を、あまりここまで見事に揃えて見せられることは少ない」
私は思わず、少しだけ笑ってしまった。
この方もだいぶ意地が悪い。
でも、言っていることは正しい。
「本来なら、あなたが動いていた場なのだろう?」
問いは静かだった。
責めてもいないし、探ってもいない。
ただ確認しているだけの声だった。
「ええ」
私は答える。
「三日前までは」
レオンハルト殿下はそれ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ私の顔を見て、それから混乱の中心へ視線を戻す。
あの目は、困った婚約破棄令嬢を見る目ではない。
もっと別の、使える駒か何かを見る目に近い。
でも不快ではなかった。
むしろ少しだけ、救われる気さえした。
「……助けるつもりはないのだな」
「ございません」
即答した。
殿下の口元が、ほんのわずかに上がる。
「そうか」
それだけ言って、彼は去っていった。
妙な人だと思う。
でも、ああいう人ほどよく見ていることを私は知っていた。
園遊会は、最後まで立て直されなかった。
雨は短く済んだのに、空気の乱れは戻らない。
王妃殿下は予定より早くお帰りになり、東方大使夫人は果実皿に一度も手をつけず、西方商会の会頭夫人は寄付額を半分に減らすとだけ残して去った。
北方伯爵夫人と西部侯爵夫人は最後まで視線で刺し合っていた。
楽団は第二幕の曲を外したまま終わった。
夕方、庭がようやく静まったころ、私は私の客室へ戻った。
髪を解く気力もなく、椅子へ腰を下ろす。
窓の外は、雨のあとらしく少し暗い灰色だった。
机の上には、昨日閉じた本がそのまま置いてある。
私はそれを開きかけて、やめた。
文字を追う気分ではない。
代わりに、何も書かれていない紙を一枚取り出し、ただ見つめる。
今日の失敗を全部ここへ書き出せば、たぶん今後の教材としては極めて優秀だろう。
でも、それを私がやる理由も、もうない。
そのとき、廊下から足音が近づいてきた。
速い。
しかも二人分。
私は顔を上げる。
直後、扉がかなり強く叩かれた。
「エルシェナ!」
カイル様の声だった。
「お姉様、開けてくださいませ!」
リネットの声も重なる。
今さら、と思う。
でも同時に、やはり来たかとも思う。
私は立ち上がり、扉へ向かった。
園遊会は雨より先に崩れた。
そして今、その後始末だけがこちらへ押し寄せてくる。