作品タイトル不明
第二話 引き継ぎ帳面は、笑う人ほど読めません
翌朝、私は本当に何もしなかった。
それがいちばん難しい仕事になるとは、昨日までは思っていなかった。
起きる時間はいつも通り。
髪を整え、軽い朝食をとり、窓を開けて庭の様子を見る。
春季慈善園遊会まで、あと二日。
ここはヴェルナー公爵家の客棟だ。
私は準備期間のあいだだけ滞在しているのであって、この家に住んでいるわけではない。
ただ、園遊会直前に私が突然リューネ家へ戻れば、それだけで余計な噂になる。
家同士の正式な書面が整うまでは、私は招待客としても、前任の実務窓口としても、不自然に動けなかった。
庭師たちは花壇の縁を整え、下働きの者たちは天幕の骨組みを運び、台所の煙突からは朝の仕込みの煙が細く上がっていた。
いつもなら、そこで私はすぐに帳面を開く。
天候、席次、欠席連絡、食材の搬入、寄付品の到着。
朝の一刻だけで、確認するべきことは山ほどある。
でも今日は違う。
私は窓辺に立ったまま、手を出さなかった。
しばらくして、予想通りノックが鳴る。
入ってきたのは執事のフレデリクだった。
彼は昨日と同じ、困ったような顔をしている。
「お嬢様」
「おはようございます」
「……おはようございます」
彼は一礼したあと、言葉を選ぶように間を置いた。
「本日から、エルシェナ様へ上げていた確認はすべてリネット様へ、とのご指示でしたが」
「ええ」
「厨房長が、東方大使夫人の献立について確認をとりたいと」
私は少しだけ首を傾げる。
ああ、もうそこから詰まり始めたのかと思った。
たしかに東方大使夫人は、表向きは好き嫌いが少ない方だ。
でもナッツ類、特に胡桃だけは口にされない。
去年、それを知らなかった下級貴族の茶会が丸ごと台無しになったことがある。
帳面の最初の方へ書いたのは、そのせいだ。
「リネットへ」
私はそれだけ答える。
「ですが」
「今後その役目を担うのは、リネットですから」
フレデリクの表情が、ほんの少しだけ歪んだ。
使用人は賢い。
自分が今、誰へ何を訊くべきかくらい分かっている。
分かっているのに、現実がそうなってしまったから困っているのだ。
「承知いたしました」
彼はまた一礼して去っていった。
その背を見送りながら、私は胸の奥にわずかな痛みを覚える。
人が困るのを見るのは、本当は好きではない。
でも、ここで手を出したら全部元に戻る。
私はまた 便利な婚約者(・・・・・・) になってしまう。
それだけはもう嫌だった。
朝食のあと、今度は厨房長が来た。
それから庭師頭。
さらに王妃付きの侍女からも使いが来た。
質問の内容は、それぞれ少しずつ違う。
でも本質は同じだ。
誰に確認すればいいのか。
誰が、決裁者へ渡せる形に整えるのか。
正式な決裁は、ヴェルナー公爵家にある。
けれど現場から最初に確認を受ける窓口は、ここ数年ずっと私だった。
そして今日は、もう違う。
「お嬢様、北方伯爵夫人の席なのですが」
「リネットへ」
「お嬢様、雨天用の天幕配置ですが」
「リネットへ」
「王妃殿下付きより、園遊会第二幕の演奏曲について」
「リネットへ」
私はそれを、昼前までひたすら繰り返した。
答えは短く、声は穏やかに。
そうしないと、つい余計な助言まで添えてしまいそうだったからだ。
昼食前、侍女のマリアンヌが珍しく早足で私の客室へ戻ってきた。
彼女は普段ほとんど表情を変えないのに、今日は少しだけ頬が引きつっている。
「どうしたの」
「リネット様が、席次案をすべて作り直されるそうです」
私はまばたきをした。
予想はしていたけれど、本当にやるのかと少し感心する。
昨日渡した三種類の席次案を読めないなら、そうなるのだろう。
「理由は?」
「お姉様の帳面は細かすぎて読む気がしない、とのことでした」
なるほど。
だいぶ正直でよろしいと思う。
自分で分からないと認めてくれたほうが、まだ修正の余地がある。
問題は、認めたうえで誰にも訊かず作り直すところだ。
「カイル様は?」
「リネット様へお任せすると」
そこで私は、初めて本気で息を吐いた。
妹だけならまだしも、婚約者までそれで通すつもりらしい。
つまり、誰も本当に理解していないのだ。
帳面の細かさが面倒なのではない。
細かくしなければならないだけの理由が、それぞれにあるということを。
私は椅子の背へ寄りかかる。
窓の外は青空だった。
でも風が少し強い。
夕方までには崩れるかもしれない。
今ならまだ、王妃殿下のお席も、天幕の位置も、全部動かせる。
でも私はやらない。
やるべきではない。
「お嬢様」
マリアンヌが小さく訊いた。
「本当に、何もおっしゃらないのですか」
「ええ」
私は答える。
「私はもうその立場ではないもの」
「けれど……」
「ここで私が口を出したら、結局また同じよ」
少しだけ目を伏せる。
前のように、名前のない仕事だけが積み上がって、成果だけが別の人のものになる。
それを繰り返してきたから、今こうなっているのだ。
「大丈夫」
私は、どちらを慰めるともなく言った。
「失敗しなければ誰も分からないなら、一度くらい失敗したほうがいいのよ」
言いながら、自分でもずいぶん冷たいことを言うと思った。
でも本心でもあった。
園遊会は、彼らにとって“たかがお茶会”なのだろう。
なら、その たかが(・・・) がどれだけの人を動かして成り立っているのか、一度くらい思い知ったほうがいい。
午後、私は久しぶりに自分のためだけの本を開いた。
園芸記録でも寄付台帳でもなく、ただ読みたくて買っただけの旅行記だ。
北の海に面した街の話。
風が強くて、冬は長くて、でも港には魚と工芸品が並ぶのだという。
知らない土地の話なのに、不思議と心が落ち着く。
もしかしたら私は、本当にこの家を出たほうがいいのかもしれない。
ヴェルナー公爵家の未来のためではなく、自分の息がしやすい場所を探すために。
そんなことを考えていると、またノックが鳴った。
今度は、カイル様だった。
「エルシェナ」
「何か」
「少しいいか」
彼は私の客室へ入ってくるなり、昨日より明らかに機嫌の悪い顔をしていた。
それでもまだ、困っている人間の顔ではなく、思い通りにいかなくて苛立っている人の顔に近い。
「リネットの席次が、一部まずいらしい」
「そうですか」
「そうですか、ではない」
カイル様が眉を寄せる。
「北方伯爵夫人と西部侯爵夫人が近すぎると庭師頭が騒いでいる。
王妃殿下付きも、楽団の位置が悪いと」
「でしょうね」
「なら何とかしろ」
その一言に、私はしばらく黙った。
何を言われたのか、一瞬理解が追いつかなかったからだ。
「……何とかしろ、とは?」
「お前なら分かるだろう」
彼は当然のように言う。
「今夜のうちに修正すればまだ間に合うはずだ」
ああ、と思った。
この人は本当に、何も分かっていない。
婚約を解消し、役目を妹へ譲れと言っておきながら、少し困ったら私へ戻ってくる。
つまり彼にとって私は、婚約者ではなく都合のいい 機能(・・) だったのだ。
「私はもう関わりません」
できるだけ静かに答える。
「お前……!」
「代わりが務まるのでしょう?」
昨日と同じ言葉だった。
でも今日は、昨日より少しだけ重く響いた気がする。
「ならば、私が口を出すのはおかしいです」
カイル様が唇を結ぶ。
たぶん、怒る理由はあると思っているのだろう。
でも、怒れる立場ではないこともどこかで分かっている。
その中途半端さが、ひどく子どもじみて見えた。
「……お前は変わったな」
彼が吐き捨てるように言う。
「そうかもしれません」
私は本を閉じた。
「でも、変わらなかったから、昨日までの私がいたのだと思います」
カイル様は何も返せなかった。
結局、そのまま踵を返して出ていく。
扉が閉まる音が、いつもより少しだけ強かった。
その背を見送りながら、私はふと思う。
この人は、私がいなくなって初めて私の役目を知るのだろう。
婚約者としての私ではなく、便利な帳面としての私を失って。
それは少し悲しいことなのかもしれない。
けれど、もう私が埋めるべき穴ではない。
夕方、とうとう空が崩れ始めた。
薄い雨。
風は予想より強い。
庭の天幕は東側へ寄せておかなければ、王妃殿下の席へ吹き込むだろう。
それでも私の客室へは、もう誰も来なかった。
来られなかったのかもしれない。
あるいは、今さら私を呼ぶのが見苦しいと、ようやく誰かが気づいたのかもしれない。
私は窓辺へ立ち、庭を見下ろす。
使用人たちが小走りで行き来している。
庭師頭が空を見ている。
台所の下働きが、何か言い合いながら菓子卓用の布を抱えて走る。
皆、現場ではもう分かっているのだ。
何かが足りていないと。
でも、その足りないものが私だとは、きっとまだ誰も言葉にしていない。
園遊会は明日だ。
私は深く息を吐き、窓を閉めた。
もう助けない。
もう元の役目には戻らない。
そう決めたのは私自身だ。
だから明日、何が起きても、私はただ見ているだけでいい。
それでも胸が少しだけ痛むのは、たぶん今まで本気で、この家を支えようと思っていたからだ。