作品タイトル不明
第六話 社交は飾りではなく、戦場の段取りに似ています
東方使節歓迎晩餐会まで、あと五日。
王家儀礼局の書記室は、朝からすでに戦場だった。
紙の擦れる音。
札を置き換える音。
廊下を行き来する女官の靴音。
それらが絶えず重なっているのに、不思議と喧騒ではない。
全員がそれぞれの持ち場で、崩れかけたものを立て直そうとしている音だった。
私は新しく与えられた机の前で、長机いっぱいに席次札を並べていた。
王妃殿下。
レオンハルト王弟殿下。
外務卿。
東方大使夫妻。
使節団の書記官。
王家寄りの伯爵夫人たち。
そして、顔を合わせると必ず笑顔の奥で相手の喉元を狙う夫人たち。
紙の上では小さな札でしかないのに、置き場所一つで晩餐会の空気は変わる。
だから私は、札を置くたびに、そこへ座る人の顔と声と過去の失言まで思い出していった。
「北席の一列目、あと半刻で仮案を出せます」
私がそう言うと、マルタ女官が手元の名簿を確かめながら頷いた。
「外務卿は?」
「一つ上げます」
「理由は」
「東方の副使が、去年の会談で王都側の通訳位置に不満を持ちました。今回は外務卿の席を半歩前へ出し、通訳官をその後ろへ置いたほうが無難です」
マルタ女官の眉が、ほんの少しだけ上がる。
でも、すぐにペンを走らせた。
その反応が心地よい。
説明を聞き、必要なら採り、不要なら切る。
この書記室では、それがちゃんと仕事になっている。
「大使夫人の席は、王妃殿下の右斜め後ろへ」
私は次の札を動かす。
「正面ではないのか」
今度はレオンハルト殿下が訊いた。
彼は窓際の机に肘をつき、私の札の動きを見ている。
あまり口を出さない。
でも、本当に必要なときだけ短く問う。
その距離感がありがたい。
「正面対座は、歓迎より対等の交渉に見えやすいからです」
私は答えた。
「それに王妃殿下は右側からの声を拾いやすいので、通訳の位置も調整しやすくなります」
「なるほど」
それだけだった。
でも、ちゃんと聞いて、納得したらそこで止めてくれる。
カイル様との違いを意識するたび、少しだけ胸の奥が静かになった。
「社交というのは面倒ですね」
若い書記官のエミルが、写しを取りながらぼそりと言う。
「笑って食事をするだけではないのですか」
私は思わず少しだけ笑った。
「表向きはそうよ」
一枚、札を持ち上げる。
北方伯爵夫人と、西部侯爵夫人。
園遊会で盛大にやらかした二人だ。
今回は同じ部屋に入れるだけで精一杯で、視界から外すほうが先になる。
「でも本当は、戦場の段取りに似ていると思うわ」
エミルが目を丸くする。
「戦場、ですか」
「ええ。誰をどこへ置けば、最小限の衝突で最大限の成果が出るかを考えるでしょう? 社交も似たようなものよ。相手が剣ではなく笑顔を持っているだけで」
マルタ女官が、それを聞いて小さく鼻で笑った。
「名言ですね」
「皮肉です」
「皮肉で済むあたり、あなたはまだ優しいわ」
優しい、のかどうかは分からない。
でも、こうして仕事の話をしていると、自分が何者なのか少しだけ分かる気がした。
婚約者だからやっていたのではない。
私はこういうことができるから、ここへ座っているのだと。
午前の半ばには、仮席次の第一案ができた。
王妃殿下の正面へ置くべき人物。
外務卿の半歩の位置。
東方側の副使と通訳官の距離。
酒好きな夫人を果実酒から遠ざけ、香りにうるさい老侯爵を百合卓から外し、去年の失言を根に持っている夫人同士を、互いに見えない角度へ逃がす。
文字にすれば滑稽だ。
でも、この滑稽さが一つ崩れるだけで、王都は驚くほど不機嫌になる。
「第一案、完成です」
私が紙を差し出すと、レオンハルト殿下は椅子から立ち上がってこちらへ来た。
机の前へ立ち、黙って紙へ目を走らせる。
その横顔は相変わらず整っていて、感情の動きが読みづらい。
でも、読みづらいだけで何もないわけではないことを、私は少しずつ知り始めていた。
「西方商会会頭夫人の位置を一つ下げたのか」
「はい」
「怒るぞ」
「その代わり、贈答順を一番最初に回します」
私は紙の端へ指を置いた。
「座よりも名前の扱いを重んじる方です。呼ばれる順が最初なら、不満はかなり薄れます」
殿下が私を見る。
「園遊会のときも、そうすればよかったのか」
「ええ」
そこで一瞬だけ、昨日の混乱が頭をよぎる。
でも、引きずらない。
今の私は、昨日の失敗を眺めるためではなく、次を成立させるためにここにいる。
「今回は間違えません」
私がそう言うと、レオンハルト殿下の口元がほんの少しだけ動いた。
「頼もしい」
短い一言だった。
でも、不意打ちみたいに胸へ入る。
私はごまかすように次の名簿を引き寄せた。
そのときだった。
書記室の内扉の外で、取次の鈴が二度鳴った。
遠慮のない音ではない。
けれど、予定にない来訪を知らせる音だった。
マルタ女官が眉をひそめる。
レオンハルト殿下は窓際から顔だけを上げた。
「誰だ」
「リューネ家のリネット様が、リューネ補佐官へ面会を求めておられます」
取次女官の声は、少し困っていた。
その困り方だけで、私はだいたい事情を察した。
止めた。
けれど、帰らない。
そういう顔なのだろう。
「中へは」
「お通ししておりません。外取次の間でお待ちいただいています。近衛にも立っていただいております」
その返答に、私は小さく息を吐いた。
よかった、と思ってしまった。
少なくとも、この書記室の扉は軽くない。
ここは王家儀礼局の実務室だ。
家族だからという理由で入れる場所ではない。
「補佐官殿」
マルタ女官が私を見る。
「お会いになりますか」
「五分だけ」
私は答えた。
「ただし、書記室へは入れません」
「当然です」
クラウディア次席儀礼官が、乾いた声で言った。
「この部屋にあるのは、茶器ではなく王家行事の控えです」
私は頷き、椅子から立ち上がった。
レオンハルト殿下も歩き出す。
「殿下」
「取次の間までだ」
彼は短く言った。
「ここへ来た理由を確認する」
取次の間には、リネットが立っていた。
昨日の園遊会よりは地味なドレスだが、それでも王宮の実務棟には場違いなくらい華やかだった。
彼女の後ろには、取次女官と近衛が一人ずつ控えている。
内扉は閉じられたまま。
そのことに、私は少しだけ安堵した。
「お姉様」
リネットは、私を見るなり小さく顔を明るくした。
「どうして中へ入れていただけないの?」
「ここは王家儀礼局の書記室だからよ」
私は静かに答える。
「家族の面会場所ではないわ」
「でも、お姉様がここでお仕事をしていると聞いて」
リネットは、閉じられた内扉のほうをちらりと見る。
「わたくしも、お役に立てると思ったの」
「どう役に立つ」
レオンハルト殿下が短く問うた。
リネットは一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに笑顔を作り直した。
「お客様へ柔らかく寄り添うことは得意ですわ。お姉様は少しきつく見えることもありますし、こういう場では、もっと華やかな気配りが――」
「席次を読めるのか」
「え?」
「大使夫人の好物と禁忌は」
「そ、それは……」
「北方伯爵夫人と西部侯爵夫人を同じ列へ置いた場合の最悪は」
リネットが言葉を失う。
私は少しだけ、気の毒に思った。
でもそれ以上に、ここで曖昧な救済をすると、また境界が崩れるとも思った。
「リネット」
私は穏やかに言った。
「ここは《《王宮の仕事場》》よ。お茶会の延長ではないの」
「でも、お姉様にできるなら、わたくしにだって」
「できます」
私がそう言うと、リネットの目が少しだけ明るくなった。
でも私はすぐに続けた。
「ただし、今日から明日で身につくものではないわ。今この場で必要なのは、《《柔らかい笑顔》》より、《《何をどこへ置けば壊れないか》》を知っていることよ」
リネットの唇が尖る。
その表情は、昔からよく知っている。
自分が軽く扱われたと思ったときの顔だ。
「本日はこれでお帰りなさい」
レオンハルト殿下が言った。
「王家儀礼局への面会は、取次簿へ名を残し、許可を受けた者だけが外取次で行う。書記室へ入ることはない」
「わたくしは、お姉様の妹です」
「妹であることは、入室許可ではない」
短い言葉だった。
でも、それで十分だった。
「あなたに悪意がないことは分かった」
殿下は続ける。
「だが、悪意がないことと、任せてよいことは別だ」
リネットは顔を赤くし、何か言い返そうとして、でも言えなかった。
最終的に彼女は小さく頭を下げ、取次女官に案内されて外へ出ていった。
後ろ姿を見送って、私は少しだけ息を吐く。
可哀想だとは思わない。
でも、まだあの子は《《場違いの痛み》》を知らないのだとは思う。
「失礼いたしました」
私は振り返って頭を下げる。
「私的なことで、お時間を」
「構わない」
レオンハルト殿下は即答した。
「むしろ確認できた」
「何がですか」
「あなたがいなくなったあと、どこがどう壊れるかだ」
その一言に、私は苦笑するしかなかった。
この人は本当に、何でも仕事へ還元する。
でも嫌ではない。
嫌ではないどころか、そういう見方をしてくれる人がいることが、今の私にはありがたかった。
「さて」
マルタ女官が手を叩くように言った。
「予定外の取次は終わりです。続きをやりましょう」
書記室の空気が、そこで元に戻る。
私は席へ座り直し、札を整えた。
東方使節歓迎晩餐会まで、もう時間は少ない。
けれど、そのとき。
廊下から急ぎ足の音が近づいてきた。
今度は女官だ。
しかも、呼吸を乱している。
「殿下!」
扉が開く。
王妃宮付きの女官だった。
その顔色を見て、ただごとではないとすぐ分かる。
「北部公爵夫人より、正式な申し入れが」
マルタ女官が眉をひそめる。
「何です」
女官は、封の切られた手紙を差し出した。
「晩餐会にて、ご自分の席が外務卿より下なら欠席すると」
私は思わず目を閉じた。
よりによって、今もっとも面倒な相手だ。
北部公爵夫人は、古い名門としての格を何より重んじる。
しかも今回は、去年の外務卿人事に不満を持ったままだったはずだ。
つまりこれは、席順の問題ではない。
《《わざと》》だ。
「楽しませてくれる」
レオンハルト殿下が、静かに言った。
その声には、ほんの少しだけ皮肉な愉快さが混じっている。
私は机の上の札を見下ろした。
試されるのは、ここからだ。
社交はやはり、飾りではない。
戦場の段取りに似ている。
しかも敵は、だいたい笑顔で現れるのだ。