軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二十四話 私の名前だけでなく、私の選ぶ答えも尊重してください

建国祭の翌日、王家儀礼局の書記室は拍子抜けするほど静かだった。

昨日まで、赤札と白札と黒札が飛び交っていた長机の上には、もう整え直された工程板と、片づけ待ちの控えが少し残っているだけだ。

人は成功した催しの翌日ほど、何ごともなかった顔をする。

それは少し可笑しくて、少しだけありがたい。

私は自分の机へ座り、建国祭の最終控えを一枚ずつ束ねていた。

白の間、蒼の間、大広間。

その三会場が一つの流れとして回った証拠を、今度は《《偶然ではなく仕組みとして》》残さなければならない。

昔の私なら、ここでようやく一人になって疲れを思い出したのだろう。

でも今日は違う。

疲れてはいる。

けれど、その疲れの輪郭がきちんと分かる。

誰かの穴を埋めるために曖昧に削られたのではなく、自分の役目を終えたあとの疲れだった。

「補佐官殿」

クラウディア次席儀礼官が、薄い紙束を持って近づいてきた。

「建国祭の最終整理です。王妃殿下と王女殿下から、正式な謝意を記した文を入れるよう指示がありました」

私は受け取り、目を通す。

簡潔な文だった。

建国祭の三催事が、王家儀礼局の工程再編により円滑に執り行われたこと。

局内の複数名がその運用に関与したこと。

今後も今回の手順を基礎として用いること。

その中に、私の名もあった。

「……残るのですね」

思わずそう漏らすと、クラウディア次席儀礼官は眼鏡の奥で目を細めた。

「残します」

きっぱりした声だった。

「今回の建国祭を《《誰かが何となく上手く回した》》で済ませるつもりはありません」

その言い方が、この人らしくて少しだけ嬉しい。

情ではなく、記録として残す。

だからこそ信じられるのだと思う。

「ありがとうございます」

「礼を言われることではありません」

彼女はそう言いながらも、わずかに口元をゆるめた。

「それに、あなたがいなければ私はまだルドヴィクの頭の中へ頭を突っ込んでいたでしょうから」

私は思わず笑ってしまう。

それはたしかに、ずいぶん骨の折れる仕事だったに違いない。

「ルドヴィク典礼監補の私用覚えも、正式な補注へ編入されるのですよね」

「ええ。本人も了承しました」

クラウディア次席儀礼官は、束ねた紙の端を指で叩いた。

「ただし、かなり渋い顔でした」

「でしょうね」

「でも、悪い顔ではありませんでした」

その言葉に、少しだけ安心する。

誰か一人の頭の中にだけあった段取りを、紙へ移す。

それはときどき、その人から何かを奪うように見える。

でも本当は、次にその人が倒れずに済むようにするためのものでもある。

「形が残るのは、怖くありませんか」

不意にクラウディア次席儀礼官が訊いた。

私は顔を上げる。

「怖い、ですか」

「あなたがいなくても回る形にしたのでしょう」

彼女は淡々と言った。

「以前のあなたなら、それを少し寂しく思ったかもしれないと思って」

私はしばらく、机の上の工程板を見た。

赤札、白札、黒札。

私がいなくても、次は誰かがこの札を動かせる。

それはたしかに、少し前の私なら怖かったかもしれない。

自分が消えることと、仕事が人へ渡ることを、同じように感じていたからだ。

「少しだけ、怖かったです」

私は正直に答えた。

「でも今は、嬉しいほうが大きいです」

「そう」

「はい」

私は束ねた控えへ指を置く。

「私だけの仕事ではなくなっても、それで私自身が消えるわけではありませんから」

言葉にすると、不思議と胸が軽くなった。

仕事を仕組みにすることは、自分を薄めることではない。

むしろ、自分が何をしたのかを、次に渡せる形で残すことなのだ。

「いい答えです」

クラウディア次席儀礼官は短く言った。

「では、その答えも記録へ残しましょうか」

「それはやめてください」

「冗談です」

たぶん、ほんの少しだけ本気も混じっていた。

でも、こういう冗談を言われるくらいには、私はこの書記室に馴染んできたのだろう。

それもまた、少し嬉しいことだった。

ちょうどそのとき、扉口へ小さなノックが響いた。

エミルが顔をのぞかせる。

どこかそわそわした顔だ。

「リューネ補佐官」

「何かしら」

「レオンハルト殿下より、今夜ひと刻ほどお時間をいただきたいと」

私は手元の紙から顔を上げる。

来たか、と思った。

昨日、建国祭が終わってからも、私たちはろくに言葉を交わしていない。

話すべきことは、もう互いに分かっているのだろう。

でも、その順番を崩さない人なのも知っている。

「承知しました」

私がそう答えると、エミルはほっとしたように頭を下げた。

何をそんなに安心しているのかと少しだけ不思議に思う。

でも、周囲から見てもそれなりに分かりやすい何かがあるのかもしれない。

そう考えると、少しだけ頬が熱くなった。

「補佐官殿」

クラウディア次席儀礼官が、紙束を抱え直しながら言った。

「仕事の控えは、今日中に終わらせておきます」

「ですが」

「今日はもう十分働きました」

彼女は淡々と続ける。

「それに、建国祭の翌日くらい、少しは自分のことを考える時間があってもいいでしょう」

私は少しだけ目を瞬いた。

この人がそんな言い方をするとは思わなかったからだ。

「ありがとうございます」

「だから、礼はいいのです」

そう言って、彼女はさっさと自分の机へ戻っていった。

その背を見送りながら、私は小さく笑う。

ここには、私を仕事から追い出そうとする人はいない。

でも、仕事だけに閉じ込めようとする人も、少しずついなくなっている。

それは、思った以上にありがたいことだった。

その日の業務は、思いのほか穏やかに終わった。

建国祭が終われば、すぐに次の催しが待っている。

けれど、今夜だけは少しだけ静かだった。

私は最後の控えを引き出しへ収め、机の上を整える。

木札。

札箱。

鍵。

私の名前がある席。

つい少し前まで、こんなものが自分に与えられるとは思っていなかった。

夜、指定されたのは北回廊の書庫ではなく、私の補佐官室だった。

扉を開けると、レオンハルト殿下は窓際に立っていた。

書記室や回廊で見るときと違って、ここでは少しだけ背が高く見える。

部屋が狭いせいだろうか。

それとも、この部屋にいると《《仕事》》と《《それ以外》》の距離が近いからだろうか。

「来たか」

「はい」

私は扉を閉めず、そのまま中へ入る。

前と同じだ。

この人は、二人きりの場でも完全には閉ざさない。

その慎重さがありがたかった。

「まずは仕事の話から」

彼は机の端へ一枚の書面を置いた。

「建国祭の工程表を、王家儀礼局の正式手順として採用する」

私は思わず書面を見つめた。

建国祭限りの応急ではなく、正式手順。

つまり今回のやり方が、私一人の工夫ではなく、局の仕組みとして残るのだ。

「よろしいのですか」

「よい」

彼は答える。

「むしろ、残さない理由がない」

一拍置いて、続ける。

「若手への訓練手順も添える。ルドヴィク典礼監補の私用覚えも、本人の了承のうえで補注へ編入する」

「クラウディア次席儀礼官からも伺いました」

「そうか」

彼は短く頷いた。

「なら、話が早い」

私はゆっくりと息を吐いた。

これでようやく、仕事が《《私の一時的な活躍》》ではなく《《残る形》》になる。

そして、それをこの人はちゃんと分けてくれる。

役目は役目として残し、個人の恩義へしない。

そこが本当に、この人らしいと思う。

「ありがとうございます」

私がそう言うと、レオンハルト殿下はほんのわずかに目をやわらげた。

「それで、仕事の話は終わりだ」

その一言で、部屋の空気が少しだけ変わる。

静かだ。

でも、さっきまでとは違う種類の静けさだった。

「昨日、あなたは自分がいなくても回る形を作るのは、消えることと同じではないかと迷った」

「はい」

「今日も同じか」

「いいえ」

その問いには、すぐ答えられた。

「今日は違います」

机の上の木札へ一度だけ視線を落とし、また顔を上げる。

「形が残るのは嬉しいと、ちゃんと思えました。私だけの仕事ではなくなっても、それで私自身が消えるわけではないのだと」

レオンハルト殿下は黙って聞いている。

急かさない。

でも、逃がしもしない。

「よかった」

短い言葉だった。

でも、その短さに本当に安堵が混じっていたから、私は少しだけ視線を落とした。

「あなたは」

彼は続ける。

「自分の机を守れるようになった」

「まだ、守り方を覚えている途中です」

「それでいい」

その言い方が、思ったより優しかった。

私は机の端に手を置く。

この机があるから、声がぶれずに済む。

そう思えるようになったこと自体が、きっと大きな変化なのだ。

「ですから」

私は息を整えた。

「もう一つも、曖昧にしたくありません」

彼の灰色の目が、静かにこちらへ向く。

「前に私は、役目の代わりではなく私の名前で呼んでくださいと言いました」

「覚えている」

「昨日は、建国祭の最中でしたから、その先を話すには向きませんでした」

一歩だけ、机へ手を置く。

自分の席に触れていると、不思議と声がぶれない。

「でも、今日は確かめておきたいのです」

私は彼を見る。

「私の名前だけでなく、私の選ぶ答えも尊重してくださいますか」

その問いに、彼は少しも驚かなかった。

たぶん、来ると分かっていたのだろう。

むしろ待っていたのかもしれない。

「具体的には?」

「私は、この席を手放したくありません」

私は言った。

「王家儀礼局の補佐官としての仕事を、恋愛の都合で曖昧にしたくないのです。誰かの婚約者になったから机を下げるとか、王弟殿下の隣へ立つから仕事が飾りになるとか、そういう形には戻りたくありません」

一呼吸置く。

「ですから、もしこの先を考えるなら、私は《《仕事を持ったまま》》でいたい」

「当然だ」

返事は早かった。

私は少しだけ目を瞬く。

「そんなにすぐに」

「そこは迷うところではない」

レオンハルト殿下は言った。

「その机を失わせてまで隣へ置きたいわけではない。私が欲しいのは、仕事ごと消える相手ではない。自分の机を持ち、自分の頭で立つ相手だ」

胸の奥が、じんわり熱くなる。

欲しかった言葉だ。

しかも、ずいぶん真っすぐに来る。

「それに」

彼はわずかに口元をやわらげた。

「仕事を手放したあなたは、たぶん機嫌が悪い」

私は思わず笑ってしまった。

たしかに、その通りだった。

誰かのために帳面を整えるのは嫌いではない。

でも、それが《《あなたは黙って支えていればよい》》に変わるなら、私は間違いなく機嫌が悪くなる。

「否定できません」

「なら、そのままでいい」

やはり、この人はずるい。

こちらが一番欲しい形を、先にきちんと言葉にしてしまう。

「ですが」

私は少しだけ指先へ力を込めた。

「今夜、答えを出すことはできません」

レオンハルト殿下は黙っている。

その沈黙に責める色はなかった。

「あなたのことを、考えたいと思っています」

私は、一つずつ言葉を選んだ。

「役目でも、立場でもなく、自分で」

胸が少し苦しい。

けれど、ここで急いではいけない。

「でも、今の私はまだ、机を得て、名前を得て、その仕事が仕組みに残ったところです。そこで急いで答えを出したら、また《《誰かの隣へ行くために自分の席を畳んだ》》ように見える気がするのです」

自分で言いながら、ようやく分かる。

私は怖いのだ。

恋を選ぶことが怖いのではない。

恋を選んだ瞬間、また仕事が見えなくなることが怖い。

名前ではなく、誰かの隣の人として呼ばれることが怖い。

「だから」

私はまっすぐ彼を見た。

「答えは、もう少し先にさせてください」

部屋は静かだった。

窓の外には、王宮の夜の灯りが並んでいる。

レオンハルト殿下は、その灯りではなく、私を見ていた。

「分かった」

返事は短かった。

「急がない」

「よろしいのですか」

「もちろんだ」

彼は少しだけ目を細めた。

「あなたの答えは、あなたの机から出るべきだ」

その一言で、胸の奥が熱くなった。

たぶん、私はその言葉が欲しかったのだと思う。

私の答えを、恋の熱だけで急がせず、仕事からも切り離さず、ちゃんと私の机に置いてくれる言葉が。

「私は」

彼は静かに続けた。

「補佐官エルシェナ・リューネを尊重する」

一拍。

「その上で、一人の女性としてあなたを望んでいる」

役目と私情を、ちゃんと分けて置く。

それがこの人の答えなのだと思う。

嬉しい。

ひどく嬉しい。

だからこそ、すぐに返事をしてしまわないことが大事なのだとも思った。

「ありがとうございます」

私がそう言うと、彼は少しだけ苦笑した。

「今日は礼ばかりだな」

「仕方ありません。欲しい答えを先に全部いただいているので」

彼の口元が、今度ははっきりとゆるんだ。

こうして笑うと、この人は思っていたよりずっと若く見える。

「では、最後に一つ」

「はい」

「この話は急いで広めない」

私は頷く。

「それがいいと思います」

「建国祭のあと、すぐに《《王弟殿下の婚約》》の噂が走ると、おそらくあなたの仕事が霞む」

その判断まで、あまりにも的確だ。

やはりこの人は、私が気にするところをちゃんと分かっている。

「ええ」

私は答える。

「今はまだ、私の名前と仕事が先に残ってほしいです」

「分かった」

短い返事。

でも十分だ。

「では、この話は未封の返書として置いておこう」

「未封の返書、ですか」

「あなたが封をするまで、誰にも出さない」

その言い方が、妙にこの人らしかった。

甘い言葉ではない。

でも、私にはとても優しく聞こえた。

「はい」

私は小さく笑う。

「その返書、きちんと自分で封をします」

窓の外には、王宮の夜の灯りが静かに並んでいた。

私はその光を見ながら思う。

役目を奪われて立ち尽くしていた日があった。

机と名前を得て、ようやく息ができるようになった日もあった。

そして今、その仕事を誰かへ渡せる形に残せるようになった。

けれど、ここで終わりではない。

仕事を持ったまま、誰かの隣へ立てるのか。

その答えは、まだ私の手の中にある。

少なくとも、もう私は誰かの代わりではない。

自分の机を持ち、自分の名前で呼ばれ、自分で答えを選ぶ時間を守れた。

それが、いまの私にとって一番大きなことだった。