軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二十五話 王妃殿下が不在でも、王宮の順番は止められません

建国祭が終わってから、王家儀礼局の書記室は少しだけ呼吸を取り戻していた。

若い女官たちは黒札の使い方に慣れ、エミルは自分で控えの不足を拾うようになり、クラウディア次席儀礼官は私の机の上へ紙束を置くとき、前みたいな試す目をほとんどしなくなった。

人が一人で抱えていたものを、少しずつ人の手へ渡す。

それは思っていたより静かで、でも確かな変化だった。

だから、その日王妃宮から呼びが来たときも、私は最初少し楽観していた。

建国祭の正式記録か、あるいは次の春季行事の確認だろうと。

まさか、それが第四の試練みたいな顔をして待っているとは思わなかったのだ。

王妃殿下は、窓辺の長椅子に腰かけていらした。

いつも通り背筋は伸び、扇の扱いも優雅だったけれど、顔色だけがほんの少しだけ淡い。

病というほどではない。

でも、無理を重ねた人の薄い疲れが見えた。

「来てくれてありがとう、エルシェナ」

「お呼びと伺いました」

私が一礼すると、王妃殿下は扇を閉じた。

「少し留守をすることになったの」

私は思わず顔を上げかけて、どうにか視線を落ち着けた。

王妃不在。

その四文字だけで、王宮の催しはだいぶ面倒になる。

しかも時期が悪い。

春季大使会議まで、あと十日を切っていたからだ。

「南方の療養地へ数日」

王妃殿下は続ける。

「医師と陛下の命令よ。断る余地はないわ」

それはたぶん、本当なのだろう。

この方は自分から休む人ではない。

だからこそ、周囲が動いたのだと分かる。

「春季大使会議の日程は、動かせない」

王妃殿下の目が、まっすぐ私を見る。

「昼の大使会議、夕方の小宴、夜の王弟主催会談兼夜会。全部そのまま進めるわ」

私は胸の奥で、静かに息を呑んだ。

王妃殿下が不在なのに、王妃宮主導の流れを止めない。

それはつまり、《《代わりを立てずに順番だけを保て》》ということだ。

「驚いた顔をしないのね」

「内心ではだいぶ驚いております」

私が正直に答えると、王妃殿下は少しだけ目元を和らげた。

「そう。でも顔には出ていないから結構」

一拍置き、それから静かに言う。

「王妃の代わりは要らないの」

その一言が、深く胸へ入る。

「必要なのは、王妃が不在でも王宮の順番が止まらないことよ」

私はゆっくりと頷いた。

そうだ。

ここで必要なのは、《《誰が王妃の席に座るか》》ではない。

会議と小宴と夜会が、王妃不在を言い訳に崩れないことだ。

順番。

導線。

顔を立てる位置。

誰が、どの場で、どの名を先に呼ばれるか。

そういうものの積み重ねだけが、今の王宮を支える。

「承知いたしました」

「レオンハルトは表に立つでしょう」

王妃殿下は言う。

「でも、あの子は『前へ出る』ことはできても、『全体を整える』のはあなたほど得意ではないわ」

私は少しだけ目を瞬いた。

王弟殿下がそう評される場を、初めて聞いた気がしたからだ。

でも、たぶんそうなのだろう。

あの人は見抜き、切り、決める。

けれど、場の空気へ薄い布を何枚も重ねるような仕事は、あまり好まない。

だから私がいるのだ。

「留守のあいだ、王妃宮付き女官の一部もあなたへ預ける」

王妃殿下はそう言って、一枚の紙を差し出した。

そこには、臨時の指揮系統と、王妃宮側の補助権限が簡潔に記されている。

驚くほど重い紙だった。

「よろしいのですか」

「ええ」

王妃殿下はきっぱり言う。

「あなたに机を与えた時点で、いずれはそうするつもりだったもの」

その言葉には、不思議なくらい救われた。

私は、穴埋めのために偶然ここへ押し上げられたわけではない。

ちゃんと《《先へ進める人間》》として見られていたのだと思えたからだ。

書記室へ戻ると、空気はもう十分にざわついていた。

王妃不在の話は、思っていたより早く局内へ広がっていたらしい。

マルタ女官はいつも以上に紙を速くめくり、クラウディア次席儀礼官は長机の上へ三枚の会場図を広げている。

「王妃殿下は?」

私が問うと、クラウディア次席儀礼官が顔を上げた。

「ご不在です。日程はそのまま」

「ええ」

「なら問題は一つだけね」

マルタ女官が言った。

「《《誰が王妃不在の場を柔らかく見せるか》》」

その言い方は的確だった。

大使会議だけならまだいい。

問題は、夕方の小宴と夜の会談兼夜会だ。

王妃がいない場は、それだけで《《抜けた》》ように見える。

しかも相手は大使夫人や公女たちだ。

場が固すぎても柔らかすぎても駄目で、しかも王弟殿下一人では角が立つ。

「女主人席を作らない」

私は即座に言った。

マルタ女官が眉を上げる。

「置かないの?」

「ええ」

私は会場図の上で、王妃席があった位置へ指を置いた。

「空けます」

部屋が少し静まった。

大胆だと思われたのだろう。

でも私は続ける。

「王妃の代わりを誰かに座らせた瞬間、その人が《《代理》》として見られます。なら最初から置かず、議題と来客の動線を中央へ寄せたほうがいい」

クラウディア次席儀礼官がすぐに口を開く。

「では、夫人方の受け皿は?」

「分散します」

私は言った。

「一人の女主人で受けるのではなく、王妃宮、儀礼局、主賓側で役を切ります。迎え列、会談前の控え、夜会最初の挨拶、全部を別の手で持つ」

つまり、ここでも同じだ。

一人の有能な女性で埋めるのではなく、仕組みへ割る。

王妃不在だからこそ、それを徹底するしかない。

「面白いですね」

柔らかな声がして振り向くと、ヴァルブルク公爵令嬢が扉口に立っていた。

いつも通り、場へ自然に馴染む立ち方だ。

けれど今日は、その上で少しだけ楽しそうに見える。

「わたくしが呼ばれた理由、ようやく分かりましたわ」

「気づいていたのではありませんか」

私がそう返すと、彼女は小さく笑った。

「ええ。たぶん、女主人席の代用品にされるのではなく、そこを分散する札の一つとしてでしょう?」

私は頷いた。

さすがだと思う。

この人は本当に、飾りではない。

「ええ」

「なら結構です」

フロレンティアはそう言って、何のためらいもなく会場図へ歩み寄った。

「王妃宮寄りの夫人方は私が受けます。ただし最初の一巡だけ。二巡目からは王妃宮付きへ返したほうが噂が増えません」

私は思わず彼女を見る。

そこまで読んでいるとは思わなかった。

「そうですね」

私は頷く。

「二巡目以降もあなたが立ち続けると、今度は《《公爵令嬢が王妃不在の場を仕切っている》》と見える」

「それは面倒ですもの」

彼女は言う。

「今はまだ、その話を育てる時ではありませんわ」

私は一瞬だけ言葉を失った。

この人は本当に、どこまで見えているのだろう。

たぶん、噂だけではなく、王宮の視線の向きまで見えているのだ。

そして、そのうえで自分が一歩引く場所を知っている。

「助かります」

私がそう言うと、フロレンティアは少しだけ肩をすくめた。

「わたくし、自分の立ち位置を間違えるほど愚かではありませんの」

その一言は軽く聞こえるのに、妙に重かった。

私への牽制ではない。

むしろ、今の私が立つべき位置を揺らさないために言ってくれているように聞こえる。

不思議な人だ。

「問題はもう一つ」

マルタ女官が言う。

「殿下の隣に、誰も立たないことへ周囲が耐えられるかどうか」

私は黙った。

そこだ。

会場図の空白を見つめる。

主催者席の右隣。

本来なら王妃、あるいはそれに準ずる立場が受けるところ。

そこを空けると決めたのは私だ。

でも空けた席ほど、人は勝手に意味を読みたがる。

「耐えさせるしかないわね」

クラウディア次席儀礼官が冷静に言った。

「席が空いているのではなく、《《今回はそこへ誰も置かない》》と見せる」

「見せ方が要ります」

私は言う。

「単なる欠落に見えたら負けです。だから、代わりの中心を会談卓へ作る。主催者席ではなく、議題と迎え列を軸にする」

工程板の上へ、新しい白札を置く。

《《会談卓中央》》。

そこへ自然に視線が集まるよう、灯り、贈答箱、座の角度まで組み直す。

王弟の隣の空白を、欠けた席ではなく《《今日はそこへ意味を置かない》》形に変える。

かなり面倒だ。

でも、不可能ではない。

「やれそうですか」

エミルが、控えめに訊いた。

「やるの」

私は答える。

「そうしないと、また誰か一人の席で埋めることになるでしょう?」

エミルが真剣に頷き、ロッテも小さく息を吸う。

皆、いまやっていることの意味を少しずつ分かってきているのだと思う。

王妃不在の穴を、便利な誰か一人で埋めないこと。

それこそが今回の仕事なのだと。

そのとき、書記室の扉が静かに開いた。

レオンハルト殿下だった。

私は無意識に背筋を伸ばす。

いつもより、少しだけ近く感じる。

昨夜の話のせいだろうか。

「王妃宮側の承認を取ってきた」

彼は短く言った。

「方針はそのままでいい。王妃の代理席は置かない」

それだけで、部屋の空気が少しだけ定まる。

方針が決まれば、人は動きやすい。

「ただし」

殿下は会場図の上で、私が空けたままの主催者席へ一度だけ目を落とした。

「空けたままに見せる工夫は要る」

「承知しています」

私が答えると、彼の目がほんの少しだけやわらいだ。

「そうだろうと思った」

短い会話だ。

でも、それで十分だった。

王妃不在でも、王宮の順番は止められない。

その言葉を胸の中で繰り返しながら、私は新しい札をもう一枚、工程板へ置いた。

建国祭とは違う種類の面倒さだった。

でも、だからこそやる意味がある気がした。